友達、栞、恋人

 喧騒の中でも、お互いの声ははっきりと聞き取ることができた。

 数日前の雨をまだ含んでいるような、湿ってふくふくとした足元の土の感覚。そこに、散って色味を失った無数の花びらがへばりついている。

 聞きたい人の声だけ聞こえるのには、なんとか効果、みたいな名前がついてた気がするけど、忘れたし、そんなことはどうでもいい。大事なのは、貴女が沢山の声や音の中から、私だけを見つけ出してくれて、私が貴女だけを見つけ出せるということ。それだけだ。

 一際大きな笑い声が起こって、思わずそちらを見た。私たちの座っているベンチから少し離れたところで開かれている新歓コンパで、女の子が恥ずかしそうに顔を真っ赤にしている。

 おそらくは、新入生。

 お花見会という名目でやっているようだけど、既に散ってしまった桜の枝からは、すでに若々しい新芽が顔を覗かせている。今年は暖冬の影響で開花が早く、春時雨の影響で散るのも早かった。春を待たずして咲いてしまったソメイヨシノに同情する。きっと、周りの熱に浮かされて勘違いをしてしまったんだ。

 まぁ、あんな風に喧しい手合いには関係のないことなんだろうけど。上機嫌に騒いでいる上級生らしき人間の手に握られている缶ビールに一瞥をくれてやる。まだらに染まった品のないその頬の色が、たびたび桜花に喩えられるのが、私には解せない。

「それで、なんの話だったっけ?」

 蛍子ほたるこの声が聞こえた。囁くような、澄んだ声。色素の薄いその顔が、私の耳元に寄せられていた。柔らかくそよぐ春風にすらかき消されてしまいそうなか細い声だけど、私の耳はしっかりとその言葉を捉えていた。ベンチの上で重ねた手が、きゅっと握られるのを感じる。

「あぁ、ごめんごめん。えっと、うちの高校の同級生にちゃらんぽらんな奴がいたってとこまでは話したよね?」

 私がそう言うと、蛍子は息を漏らすかのように微かに笑った。

 おかしいな。普段なら肩を震わせるようにして笑うのに。出会ってすぐのことは、咳でもしてるのかと、体調を心配したものだった。

 だけど、その違和感の正体はすぐに知れた。

「あはは。そこまでは聞いたかな。えっと、浅黄あさぎちゃん、だっけ? その子の名前。何回かづーちゃんから名前とか……武勇伝? 聞いたけど、面白い子だよね」

 言葉とは裏腹に、蛍子はどこかむくれた顔で私に返事をしてみせた。つつけば柔らかそうなぷっと膨らんだ頬に、目尻に浮かべた細かいシワ。それを見て悟る。


 ああ、きっとこの顔は、嫉妬してくれているんだ。


 私が、この口が、他の子のことを楽しそうに語っているのが許せない。そういう抗議を、ちょっとだけすぼめた口元で私に投げかけているんだ。

 本当、私には出来すぎた恋人だ。

 その白い頬に差した透明な薄紅。きっと、こういう色こそ、喩えるのに相応しい色なんだ。

 だけど私は、その不満に気付かないふりをした。普段なら「可愛いなぁ」なんて言ってからかうところだけど、今の私に、そんな余裕はなかった。

 どこか傷ついたような、そんな色を瞳の奥に感じ取ったけれど、そのまま話し続けた。

「そうそう、浅黄。で、この前聞いた話なんだけどさ。いまその浅黄は一人暮らししてるんだけど、そいつを追ってこの前後輩が上京してきたらしくってさ」

「上京……! すごいバイタリティだね」

「でもそれだけじゃなくってさ。その後コクられて、今は恋人として同棲してるんだってさ。すごくない? もともと適当で周りに流されやすい奴ではあったけどさ、それで一つ屋根の下ってところまでいっちゃうの」

 蛍子は、さっきまで恨めしい目で私を見ていたことを忘れたような声色で、目を潤ませて口元に手を当てている。その初々しい反応に、ちょっとした罪悪感が湧いてくる。

 誰が聞いても、単なる世間話だろう。自分の身の回りに起こった、ちょっと刺激的なエピソードを共有するだけの。それはきっと、蛍子にとってさえ。

 だけど、この話は私の中ではそれ以上の意味を持っていた。絶対に、蛍子に聞かせなければならない話だった。

 春風が一つ吹いて、蛍子の柔らかい猫っ毛を巻き上げていく。ふわりと、いい匂いがした。扱いづらくて大変だと蛍子は言うけど、撫でた時に指に吸い付くようなその髪が、私は好きだった。恥ずかしそうに笑うその表情を思い出して、また、昏い愛しさが募る。

 だから、これは、私なりの懺悔だ。


   * * *


 蛍子が私のことを「づーちゃん」と呼ぶようになったのは、比較的最近のことだった。だって、恋人になってからそう呼ぶようになったから。今まで「公月くづきさん」と呼ばれていたところから、一文字取って「づーちゃん」と。

 私が蛍子と呼ぶようになったのも、ちょうどその時。それまでは、苗字に「ちゃん」をつけて「洋見なだみちゃん」と呼んでいたから。

 ちょうど、昔、私が浅黄にそうされていたように。

 蛍子と恋人になってからの時間は、まだ浅い。だけど、私と蛍子の付き合いは、それよりも随分と長かった。

 大学に通うためにひとり暮らしを始めるその前の日に、お姉ちゃんから聞いた。大学に入ってからの友達は、心からの友達になれないんだ、って。高校みたいな無邪気な馬鹿を晒し合えるわけじゃないし、見栄も、打算もあった上で、それでもお互いのことを友達と呼ぶらしい。なにもこんな日に言わなくてもいいのに、と思ったのを覚えている。

 だけどあの時、自然とあのグループのことを思い出していた。小さなわだかまりみたいなものは当然あった。だけど、友達と聞いて思い出すのは、やっぱり六年間にわたる女子高生活の最後の一年を一緒に駆け抜けたあのグループだった。

 そして、脳裏に浮かんだ写真の真ん中には、仲間に囲まれて幸せそうに笑っている一人の少女の姿があった。

 浅黄。

 彼女のことを思い出すと、どこか胸のあたりが苦しくなる。華のある子の多かった仲間内にいて尚、浅黄は特別に輝いて見えた。誰かと付き合ったりとか、そういうことはなかったみたいだけど、彼女の周りには沢山の笑顔があった。そんな、闇夜に灯された一本の蝋燭に誘われて、ふらふらと飛んできた一匹の羽虫が、私だったのかもしれない。

 多くの人から愛されている浅黄と、そんな浅黄の友達の一人である私。その位置からずっと、炎の放つ熱を受けていたのだ。

 私にとっての友達は、浅黄と四人のグループメンバーだった。

 そんなこともあって、入学式の時に話しかけたのは単なる"繋ぎ"の友達作りのためだった。席が同じ学科で固まっていたので、これから四年間付き合っていく人間だし、声をかけておくに越したことはないだろう、と。

 世間慣れしていなさそうな、ふわふわとした雰囲気を纏っている彼女は、嬉しそうに胸の前で手を合わせて「洋見、蛍子といいます」と生真面目に、だけど細い声で名乗った。あの時は、聞き取れなくて何度か聞き返したのを思い出す。ようやく聞き取れた時に「なだみ、って綺麗な苗字だね」と言ったことも、同時に。本心だった。

 浪人をして大学に入ったために知り合いがまったくいなかったから心細かったのだと、蛍子は語った。私の方も、地元を離れての進学だったから友達がいないのは同じだと言うと、蛍子は、ホッとしたような笑みを浮かべた。

 その笑顔に、なんのてらいもないのが不思議だった。どこか遠くから眺めるように、この子は大切に育てられてきたんだろうなぁと感じていた。

 入学式の日には、桜が満開になっていた。春の陽気と呼ぶにふさわしいうららかな空気に、鳥のさえずり。入学式と聞いて思い浮かべる光景としては、あまりにありふれたのものだった。

 だけど、それがよかったのだ。

 話しかけた成り行き上、式の後に一緒に写真を撮った。その時降ってきた花びらを摘まみ上げて、蛍子は「これ、押し花にしようかな」と微笑んだ。今日のこと、ちゃんと覚えていたいから。だって。

 それが、私と蛍子の出会いだった。

 いつからこれほどまでに仲良くなったのかは、わからない。もともと社交的で人付き合いのいい私は、大学でもたくさん"友達"ができた。試験前になれば板書の写真を交換するし、それぞれのサークルで代々伝わっている過去問を共有したりもした。

 だけど、その中でも蛍子の存在は少し違って見えた。

 蛍子だって、ハンドメイドサークルに入って、そこで友達を作っているのだという。だけど、気付けば私と蛍子は一緒にいることが増えていた。

「ずっと、友達でいようね」

 そう言って手渡されたのは、あの日の桜の押し花だった。丁寧にラミネートされたそれは栞になっていた。お揃いなのだという。

 理屈じゃなかったのだと思う。二人でいると、時間は春の小川のようにゆるやかに流れる。雪解け水みたいなその柔らかい時に触れているのが、心地よかった。

 一年もするころには、蛍子の考えていることが、手に取るように分かるようになっていた。きっと、向こうもそうだった。家から持ってきたお弁当の中に私の好物が入っているのを見つけると、蛍子はいつも嬉しそうに私にそれを食べさせてくれたし、私の方も、一人で入った小物屋で蛍子の好きそうな雑貨が目に入ってきて、それをプレゼントしたこともあった。買う時に嬉しそうな顔と一緒に思い浮かべた、咳をするような蛍子の独特の笑い方。それが目の前で再現されると、この上なく満たされた気分になれた。

 そんな蛍子を表す言葉が、他の子と同じ"友達"だとは思えなくなってきたのもその頃からだった。親友とも、少し違う。しっくりくる言葉が見つからない。

 だから、きっとこれは、友達以上――

 だけど、そんな関係が心地よいのも事実だった。ふにゃっと潰れるように浮かべる柔らかい笑顔が隣にあれば、それでよかった。燃えるような熱がなくても、ほのかに暖かい体温がそばにあれば。


   * * *


 それで、よかったはずだった。

 だけど思い出してしまった。きっと、高校三年間のあの日々を過ごす中で、近くに寄りすぎていたんだ。炎は消えたわけじゃなくって、心のずっと下の方でくすぶっていただけだったんだ。

 大学に入ってからもうすぐ二年になろうとしていた、あの年の瀬。なんとなく続いていた高校時代の友達とのメッセージのやり取りの中に、彼女の名前が現れた。


『浅黄、追っかけてきた子と付き合って同棲始めたらしいよ』


 その文字を見た瞬間、心の底の方でなにかが爆ぜた音がした。わざとらしくないくらいの温度感で「驚いた」という旨のメッセージを返している私と、それを見ている私が乖離してしまったみたいな、そんな感覚だった。

 あの浅黄が、誰かと付き合うだなんて。皆の輪の中心にいた彼女の隣に、特定の誰かがいるだなんて。

 友達でない、誰かが。

 どうしようもないくらい、蛍子に会いたくなった。

 電話をかけると、蛍子はすぐに出た。どうしたの、とくつろいだ声が聞こえてくる。その小さな声だけで、今はきっとルームウェアに着替えて部屋のベッドでごろごろしているのだろうと分かる。そんな彼女が、私の"友達"であるわけがない。

「ね、どうしても話したいことがあるんだ。今から行くからさ、話せないかな。河川敷あたりで」

 今までにこんなことをお願いしたことはなかった。終電こそまだであるものの、こんな夜更けに呼び出す非常識も、わかってのことだった。彼女の家は門限も厳しいと知っていたし、彼女の時間を邪魔してしまうのも、本意でなかった。だけど、止められなかった。熱に浮かされるように、言葉を紡いでいた。

 蛍子は一瞬驚いたように息を呑んだが、私の声になにかを感じ取ったのか、ほとんど吐息だけで「いいよ」と呟いた。

 電車を乗り継いで辿り着いた蛍子の家は、閑静な住宅街の只中にあった。以前訪れた時には感じなかったが、黒々としたシルエットの並ぶ家並みには、圧迫感がある。そんな闇路の片隅に、彼女は立っていた。

 重厚な門扉に背中をもたせかけながら、落ち着かなさそうに辺りを見回している。色味のない街灯の明かりに照らされて、白い肌をさらに白く光らせて。

 それが、普段と違う様子で電話をかけてきた私の姿を探しているものだと気付いた瞬間、どうしようもなく愛おしくなった。

 近づいてくる私を見留めた蛍子の顔が、ぱっと明るくなる。そんな蛍子の前に立って、私は、挨拶もせずにその華奢な手を取った。


「私たち、そろそろ付き合わない?」


 滑り出したその言葉に、私は、私がやってしまったことのすべてを悟った。

 付き合うという言葉の空々しさ。私から遠く離れた位置にある言葉を、無理矢理使ってしまったような。そんな居心地の悪さを感じた。

 やっと気づけた。友達じゃない。私が浅黄に対して抱いていた想いは、憧れだったんだ。私も誰かから愛されるような、そんな人になりたかった。与えた分と同じだけ、いや、それ以上を貰えるような、そんな存在に。

 きっとそれは誰でもよかった。だけど、貴女はそれを与えてくれた。

 春の日々にぼんやりと抱いていた、「友達以上」の先に続けた言葉は、「恋人未満」だった。だけど、言葉を放ってしまってから、取り返しがつかなくなってから気付いた。

 別に、友達の延長線上に恋人があるわけではなかった。

 知らずの内に植えた気持ちの種は、人それぞれに育て方も違えば、咲く花も違うんだ。だけど、焦ってしまった。浅黄という名の蝋燭からのもらい火に、熱に、勘違いをしてしまったのだ。咲かせてしまったのだ。


 これが恋なんだと、そう思い込んで。


 蛍子は、一瞬だけ驚いたようだったけど、私の手を握り返してくれた。

 その手の冷たさが、寒空の下、長い時間私を待ってくれていたことを語っていた。蛍子の口からふっと漏れた息が、街灯の光を受けて、燃えかすから上がる煙のように、白く漂った。


「いいよ」


 後戻りができなくなった瞬間だった。

 その日から、私たちはお互いのことを、づーちゃん、ほたるこ、と呼び合うようになった。


   * * *


 蛍子は、理想の恋人だった。

 一時の気の迷いでそれを求めた私のために、それを演じてくれている。ありふれたデートを重ねて、ありふれたカップルが経るような段階を一緒に踏んだ。初めは手を重ねて、次に腕を絡めて、その次には唇も重ねた。今だって、他の女の子を話題に出せば、ありきたりに膨れてくれて。だけど、そうやって恋人らしいことをするたびに、これが恋じゃないことがどうしようもなくわかってしまった。

「ね、づーちゃん。今日、家族みんな温泉に旅行に行ってるんだ。だから、泊まりにこない?」

 蛍子の顔が、すぐそばにある。あの部屋には、私が昔プレゼントした、キャンドルスタンドが置いてある。蛍子が好きそうだと、小物屋さんで選んだものだ。

 だけど、私にはわかっていた。蛍子の方も私を恋人だとは思っていない。それが分かるくらいには、私は彼女と同じ時間を共有してきた。彼女がいまだに押し花の栞を使っているのを見た時、それは確信に変わった。はにかみながらあれを渡してきたときの彼女の言葉を、忘れるわけなんてなかった。

 それでも。

 そんな私の我がままに付き合ってくれるくらいには、私はこの子に愛されている。それがたとえ恋愛でなくても、まだこの子は、以前と変わらず私のことを愛してくれている。そうじゃなきゃ、こんなに完璧に恋人を演じてくれない。

 そうやって私を思ってくれるひたむきさが好きなんだと言ったらおかしいだろうか。その気持ちは、恋愛だと思っていないのに恋人になろうと言ってしまった私自身への、不誠実な誤魔化しになってはいないだろうか。

 私を思ってくれる貴女が愛しくって、一緒にいるだけで幸せで。

 その気持ちに誠実でありたくって、確かめたくって、浅黄の話を口に出した。かつて私の気持ちを早咲きさせて、勘違いさせた熱を、もう一度。

 それでわかった。いつの間にか、私の中の浅黄への憧れは、綺麗さっぱりなくなっていた。きっと、かつての私が求めたものを、この子に与えられているからなんだろう。

「いいの? うわ、すっごい楽しみ」

 そう言いながら、私は蛍子の髪を掬い上げた。絡みつく柔らかいその感触は、何度触れても心地よい。ふわりと鼻に届いたリンスの香り。きっと明日の朝には、私も漂わせている香り。

 染まった蛍子の頬に、撫でるように触れる。やっぱり、胸は高鳴らない。ただそこには、愛しさだけがあった。

 ねぇ、これはどっちなんだろう。友達なのかな。恋人なのかな。それともその間に、なにかがあるのかな。

「そうだ、洋見ちゃん」

 何気なく漏れた私の声に驚いたのは、他でもない私だった。

 洋見ちゃん。確かに私は今、そう言った。

「どうしたの? 公月さん」

 そう返してきた声は、出会った時からずっと変わらないものだった。

 だけどそれが、やけに懐かしいものに感じられて、視界がぼやけた。

「ううん、お泊り、楽しみにしてるね」

 流れ出そうになるそれを押しとどめるように空を仰ぐと、すっかり葉桜となった枝が、私の視界を横切っていた。

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