退屈しのぎと水柄杓

 バスは揺れる。

 手の中でかさりと音を立てた便箋を、再び開く。薄い水色のそれは、誰が買ってきたのだろうか。隅の方に青い朝顔が小さな花を咲かせている。水彩で描かれたような淡い色合いのそれが、子供らしい丸い字にあまり合っていなくて、この上なく微笑ましかった。

 車窓に切り取られた世界は、ゆるやかに後方へと流れていく。一日に四本だけの路線バスの乗車率は、ざっと二〇パーセントくらいといったところだろうか。顔ぶれは、いつも変わらない。

 多くは通勤か、もしくは通学かといった様子の人たちだ。私とは違う高校の制服に身を包んだ子。あの子はいつも鞄を抱きかかえるようにして眠っている。スーツに身を包んだ人もいる。いつもスマホを弄ってヒマそうな顔の。この間パズルゲームをやっているのが見えて、少し意外に思ったのを覚えている。

 ゆるやかにバスが停められる。大きなため息を吐くような音を出しながらドアが開かれ、そこからおばあさんが乗ってきた。これもいつものこと。もはや指定席のようになった入り口付近の席に腰かけ、バスは再びため息をついて走り出した。

 代り映えのしない日常の中で、きっと私だけが瑞々しい。

 柄杓に掬い取られた水を、軒先の地面に打つように。あるいは、プール開き前日に、静かな水鏡に蒼天を映し出すように。私は、新鮮な輝きに満たされていた。

 もう一度、便箋を開く。

 ふわりと香った清潔な匂いは、消毒液だろうか。きっと、病院にただよっているそれが染みついていたのだろう。


斗星とのほしさんへ

 はじめて手紙を書きます。へただったり、文字をまちがったりしたらごめんなさい。

 斗星さんが来てくれるようになってから、毎日が楽しいです。お母さんにも、顔色がいいねってほめられました。斗星さんのおかげです。

 こんなことを書いてしまってめいわくだったらごめんなさい。私は、斗星さんのことが大好きです。本当にすてきで、やさしいからです。しょうらいは、斗星さんのおよめさんになりたいです。そうすれば、ずっと幸せだと思います。

                            睦祈むつきより


 何度読んでも、頬がだらしなく緩んでしまう。

 顔を上げると、バスは終点にたどり着こうとしていた。私鉄の駅前に設けられたバス停。ここまで乗ってきた人たちは、例外なく全員そこから電車に乗る。今日は、いつもよりもずっと到着が早く感じられた。便箋がぐちゃぐちゃにならないように、丁寧に折りたたんで、クリアファイルに仕舞う。

 定期券と一緒にスクールバッグから取り出したスマホに、一件、メッセ―ジが入っているのが目に入った。スワイプして開いて、顔をしかめた。


『今日は調理実習だよね。楽しみだね』


 昨日の晩から続いていた蛍子ほたることのやり取りの続きだった。それを見て、思い出した。

 しまった、エプロン忘れた。

 金曜日は時間割が変更になって家庭科、そんな風に聞いた覚えが、確かにする。蛍子、二枚持っていないかなぁ。もしくは別のクラスの奴に借りるか。あ、でも三角巾だけはどうしようもないな。人が使った後のを頭に巻くのも、頭に巻いたのを他の人に使わせるのも、正直不快だし。だったらもう一緒か。蛍子が二枚ずつ持ってなかったら大人しく先生に怒られて借りよう。

 そんな憂鬱を抱えながら、今度は電車の揺れを背中に感じていた。

 そのころには、鞄に入っている手紙のことは頭からすっかり抜け落ちていた。


   * * *


「これ、ほんとありがと! 明日ぜったい洗って返すから!」

「あはは。そんなに焦らなくてもいいよ。これだって、ずっと使ってなかったやつだし」

 昼休みの教室は、色々なおかずのにおいが入り混じって、集合としての"食べ物"のにおいになっている。なんのにおいが混じっているかは分からないけれど、確実にそれが食べ物だとわかるような。

 日常に変化がなく、いつもと顔ぶれが同じなのは田舎での生活と同じだけど、高校の方がそれは幾分ましだった。退屈はしても、退屈に取り殺されそうにはならない。その程度の刺激はあった。

 結局、蛍子はエプロンは一枚しか持っていなかったけど、三角巾を二枚持っていた。ロッカーの奥にしまってある自分用の救急箱の中に入れていたのだとか。それで、あとは隣のクラスの奴からエプロンを借りて、なんとか事なきを得た。

 くっつけた机の向こうで、蛍子は小さな弁当箱に入っているきんぴらごぼうをつついている。その所作は上品で、だけどか弱いもので。やっぱり蛍子は大切に育てられてきたんだなぁと思う。

 蛍子とは、三年生になって初めて同じクラスになった。可愛らしい雰囲気だと思っていたが、その印象は仲良くなってからも変わることはなかった。制服から伸びる手足は青白く、筋肉があまりついておらず、喋り方もどこか間が抜けていて、か細い。手入れの大変そうな猫毛も、その儚げな印象を強めている。

 聞けば、あまり身体が強くないのだとか。それで学校にも救急箱を置いていたから、今日の私は助けられたわけだけど。

 可愛らしい蛍子は、友達で、目の保養でもあった。ずっと一緒にいても、その初々しい反応が、私を飽きさせない。だから大切にしたくなる。愛を注ぎたくなる。ちょっかいを出したくなるのと同じくらい、そんなことを感じていた。

 修学旅行では同じ班を選んだ。他の仲のいい子とグループを組んで。ホテルは、学校側が蛍子の身体を気遣ってちょっとグレードの高い部屋になった。他の部屋よりも少し広くてふかふかしたベッドを見て、私は蛍子に感謝した。

 蛍子の家は私の住む田舎とは電車で反対方向だったけど、駅までは毎日のように一緒に帰った。歩幅の狭い蛍子に合わせて歩くと、世界はとてものんびりとしたものに見えた。

 進路調査の紙を、せーので見せあった。第一志望に書かれた大学の名前が見事に一致していたのを見て、私たちは手を取り合った。大学も一緒に通おうね、と約束をして。今度、一緒にオープンキャンパスに行くことになっていた。蛍子なんて、ちょっと学力足りなさそうだからって塾に通い始めたらしい。

 この高校三年生の思い出は、ずっと蛍子と共にあった。私の記憶のアルバムに、こんなにも可愛いものが添えられているのが、この上なく幸せだった。

「そういえば。斗星さん、なにか今日、いいことあったの?」

 突然そう尋ねられて、目を丸くした。そんな風には思っていなかったので、余計に。

「そう? なんでそう思うの?」

 質問を返されるとは思っていなかったのか、蛍子は思案顔だ。やっぱりスローペースで「うーん」と唸った蛍子は、ややあって「なんとなく、そう見えたから」と言った。

 なにかあったかな。靄のかかったようになっている脳内を掻き分けるように思考を巡らせると、思いのほか近いところにそれを見つけた。突然の閃光に目を焼かれるように、心に一気に火が灯るのを感じた。

「そうだ! 今朝ね、すっごい可愛いことがあってさ! ちょっと見てよ!」

 隣に掛けてあった鞄を漁ると、クリアファイルに入った一枚の便箋が見つかった。それを引っ掴んで、蛍子に手渡す。

「ちょうど家からバス停に向かう途中におっきい病院の裏庭を通るんだけど、毎朝そこで日光浴してる子と仲良くなってさ、それもらったんだ! ね、可愛くない?」

 しばらく黙ってじっと目を左右に動かしていた蛍子の耳に、だんだんと朱がさしていくのが見えた。一度下の端にまでたどり着いたその視線が、もう一度、上から下へとなぞっていく。

「ね、これって私、ラブレターもらったんだよね? いやぁ、モテるなぁ」

 可愛らしい睦祈ちゃんのその姿を目の奥に浮かべて、思わずにやけてしまう。小学生には不釣り合いな伏し目がちで憂いを帯びた視線が、私の声を聞いた瞬間にあどけない小学生のそれになる。その変化が、本当に可愛くって仕方がない。


 私は、可愛いものが大好きだ。だって、可愛いものは存在するだけで周りを幸せにしてくれるから。


「すっごく、いい子だね。むつきちゃん、って読むのかな?」

 蛍子は、跳ねる心臓を押さえるように胸に手を当てながらそう言った。便箋を受け取って、私ももう一度読み返す。何度読んでも、胸が温かくなる。

「でしょー。そうそう、むつきちゃん。小学生らしいんだけど、体調が悪くって入院してるんだってさ。その子、本読むのが好きみたいなんだけど、庭で本を読んでた時に栞が風で飛ばされちゃって。それを私が拾ってあげたらなぜか懐かれたんだ」

 当時のことを思い出す。あまり気にかけることもなかった病院の庭から飛んできた朝顔の栞。それを届けてあげた時に、慣れない様子で恥ずかしそうに、だけどちゃんとお礼を言おうとする女の子に、ぎゅっと心を掴まれた。可愛い。

「なんだか、懐かしいな。私も昔、入院してたことがあったから。ちょうど睦祈ちゃんと同じぐらいの年齢のときかな」

「あ、そうなんだ……。大変だったんだね」

「今はだいぶましになったけどね。私も、同じ病棟に入院してたお姉さんに憧れたりして、手紙とか渡してたから懐かしいな。なんだかちょっとそのこと思い出して、いま、ちょっと遅れて恥ずかしくなってる」

 耳が赤いのはそういうことだったのか。どうやら私は、蛍子の甘酸っぱい初恋エピソードを引き出してしまったらしい。ちょっとした過去の出来事で狼狽する感じが、可愛い。これだから、蛍子と一緒にいるのが楽しいのだ。

「そのお姉さんとはどうなったの? ちゅーとかさせてもらった?」

 にやにやしながらそんなことを聞いてみると、蛍子は首筋まで赤く染めて、手を横に振った。

「あはは。私が一方的に好き好き攻撃してただけだったから。それに、しばらくしてお姉さん、いなくなっちゃったし」

「え、退院でもしたの?」

「ううん。確か転院だったと思う。でもそれも、あとになってお母さんに聞いたんだ。その前日まで、明日もお話しようね、なんて約束してたのに。できない約束なら、最初からするべきじゃないと思わない? 思うよね? 子供だからって、適当に流されてたんだよ。ひどいよね。私、今でもちょっと引きずってて、そのせいでずっと好きな人ができなくって困ってるんだから」

 照れ隠しなのか、普段よりもわざと怒ってみせている姿が、なんだか必死に言い訳をしているみたいで可愛かった。思う思う、なんて適当に相槌を打ちながら、便箋を鞄に仕舞った。

 蛍子といると、退屈と穏やかさの違いが、なんとなくわかるような気がした。


   * * *


 裏庭の生垣からにゅっと顔を出すと、今日も睦祈ちゃんの姿はそこにあった。いつもと同じように、その小さな身体に不釣り合いな、大きめの本を読んでいた。ちょうど木陰になっていて、直接日光を浴びなくてすむその軒先が、睦祈ちゃんのお気に入りだ。

「よっ」

 突然声をかけると、睦祈ちゃんの肩が大きく跳ねた。不安げにきょろきょろと辺りを見回し、私の姿を見止めた途端、嬉しそうに目が細められる。ころころと変わるその表情が、なんだか小動物みたいだった。

 病院の受付を回り裏庭に出ると、睦祈ちゃんは木陰の半分を私のために開けてくれていた。本当、気遣いの出来るいい子だ。

「斗星さん、今日も来てくれたんだ。でも今日、休みだよね?」

「うん。だけど、睦祈ちゃんに会いたくって来ちゃった」

 私のために……と呟くその声に、なんだか熱っぽいものが混じる。本当は、田舎にいても退屈だからと、町にウィンドウショッピングをしに行くついでに寄っただけだけど、喜んでもらえる方がいいだろう。私の一言で心臓を跳ねさせているこの子は、たまらなく無垢で可愛らしい。

 そういえば、睦祈ちゃんの髪は、蛍子のそれとよく似ている。張りが弱くって、シルクみたいにしなやかな猫毛。ぺたりと潰れたその髪型は、子供ならではのそれだった。

 睦祈ちゃんは、なにやら本の上で手をすり合わせてもじもじしている。どうしたのかと思って顔を近づけると、睦祈ちゃんの目がせわしなく左右に揺れる。

「斗星さん……。お手紙、読んでくれた……?」

 どこか舌足らずな声でそう言われると、震えるくらいに可愛い。思わず、抱きしめたくなる。お尻をずらして、ほんの少し睦祈ちゃんに近づいた。その小さな心臓の音が、聞こえるんじゃないかと思って。

「もちろん読んだよ。私も、睦祈ちゃんのことが大好きだよ」

 ぱっと、花が咲くように笑顔が広がる。それは今までに見たことがないくらいに混じりけのないもので、心が癒されていく。漠然とつまらない日々だ。これくらいの癒しがあってもいいだろう。

「じゃあ、お嫁さんにしてくれる?」

 目を輝かせてそう尋ねてくる。きっと、この子の頭の中にはお姫様みたいな真っ白のウエディングドレスが浮かんでいるのだろう。まだなににも染まっていない無垢の象徴は、睦祈ちゃんにぴったりだから。

「うん、するよ。だって、睦祈ちゃんはこんなに可愛いんだもん」

「やった……。約束だよ? 絶対だよ?」

 返事をする代わりに頭を撫でてあげると、その頬にぽっと火が灯った。やっぱり、その手に返ってくる感触は、蛍子のそれに似ている。

 そういえば、昨日蛍子が言ってたっけ。できない約束なら、初めからするべきじゃないって。

 でも、この笑顔を見ると、やっぱり私はそうは思わないな。

 今こうやって私の前で浮かべている恥ずかしそうな笑顔は、事実だから。そして、それにこの上ない癒しを感じている私も実在する。

 観葉植物だって、水を貰って育ててもらう代わりに愛らしさを振りまいてるんだし。心に水を貰っている、と言い換えてもいいかもしれない。枯らしてしまったら、そりゃあ少しは悲しいけど、それはきっと与えた分しか与えられなかったというだけのことだ。

 無垢は可愛い。そして、可愛いのはやっぱり素晴らしいことだ。そして、その可愛らしさを、私は引き出してあげている。

 枯れてしまったら、無垢じゃなくなってしまったら、もう私に返ってくるものはない。そうなってしまったら別に、退屈なだけだし、関わることもないだろう。

 この期限付きの愛しさを、私は愛でている。それのなにが悪いんだろう。

 蛍子は、約束を破られたって言っていた。だけど、あの「明日もお話しようね」もおそらく嘘ではなかった。たぶん、蛍子の好きだったお姉さんは死んじゃったんじゃないかな。だから、最後まで蛍子の純粋でひたむきな愛情を受け続けて、そのまま逃げ切った。きっと、私が彼女の立場でもそうする。

 そうだ、蛍子に謝らなきゃいけないんだった。大学、お母さんに聞いたら「そんな私立に行かせるだけのお金はない」って言われちゃったからオープンキャンパスは行けなくなってしまったんだ、って。一緒に大学通いたかったのに。残念。

 約束は、破るまで約束のままだ。だから、破ってしまう瞬間にもう顔を合わせなくなってるんだったら、私にはなんの不都合もない。それなのに、みんなよくそんなもの守れるなって思う。

 それって、退屈なことなんじゃないのかな。

 だって、もう帰ることのない家に置かれた鉢植えの上でなにが枯れようが、自分には関係がないことだし、それに気付くこともないんだし。

 そういえば、バスの時間は大丈夫だったかな。ちらりと腕時計を見ると、思ったよりも時間が過ぎていた。やっぱり、退屈じゃない時間は、過ぎるのがはやい。一日にたった四本のバスだ。逃したくない。もう切り上げていこうかな。今日はゲーセンでぬいぐるみ取るって決めているし。

「じゃあ、私は用事があるからそろそろ行くね」

 そう言って腰を上げると、睦祈ちゃんはちょっと残念そうな目を私に向けてきた。その純粋さが、やっぱり私を潤してくれる。


「ぜったいに、また来てね」


 私の服の裾を摘まんで不安げにそう言う睦祈ちゃんを安心させるように、頭を撫でてやった。そうすれば、一番かわいい笑顔を見せてくれるって、知っていたから。


「うん、約束するよ」


 浮かべられた幸福そうなそれを見て心洗われた私は、足取り軽くバス停へと歩き始めた。

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