エプロンドレスの表面張力
メイド姿が、空のバケツを持ってきた。
園芸にでも使うかのような、あるいはそのあたりの民家の軒下に無造作に放置されているような、そんなごく普通のスチールのバケツ。間違っても、お洒落なブリキのバケツなんかではない。
わざとらしいくらいに白く眩しい、蛍光灯の明かり。遮るもののない寒々とした離れでは、隅々まで光が浸透していて、そこに影はほとんどなかった。
また一つ、雫が弾ける。
「あー。やっぱり雨、強くなってきてますね」
手慣れた様子で、小さく切ったビニールシートを床に広げる。フリルのふんだんにあしらわれたスカートの裾がふわりと大きく広がって、しぼんだ。あれは、初めて私がここに連れてこられた時にも着ていたものだ。
「そう……だな」
生返事をすると同時に、ぱちっと乾いた音が鳴った。ふっと顔を上げると、床にひざまずいて私を見ている
誤魔化すように座布団の上の正座を崩すと、脚が痺れていることに気付いた。表情には出ていなかったはずだが、膝立ちになった棧敷さんがそのまま猫のようなポーズで私ににじり寄ってきた。スカート丈の短いものだからこそできる動きだ。
「
にっこりと微笑みながら、私の足をつんつんとつつく。分厚い靴下を履いているみたいに、その感覚は遠いものだった。
「……からかうな。というか、服が汚れるだろ。あまり床を這いつくばるな」
「あはは、先生、誤魔化してますね? それに、メイド服は歴史をたどれば元々使用人が着ていた服なんですから、この服こそ家事をするのに相応しいんじゃないですか?」
そんなことを言いながら、棧敷さんは私の前に立ち上がって胸を張って、小首を傾げてみせた。袖口から伸びる腕は、白く長い。部屋の強い光に、薄い産毛が透けて見えた。
分かっている。棧敷さんは私のことを煽っているのだ。
それが、単に私から怒りを引き出そうとしているだけのものだったら、どれほどよかっただろう。
私を見降ろす恍惚とした表情の棧敷さんを、痺れる脚を庇いながら、ため息交じりに見つめ返す。
「次はなにをしたらいいですか? 明庭先生?」
このメイドは、私に仕えたがっている。
そして、それを決して悪く思っていない自分がいる。
私にとって、それこそが問題なのだった。
また、雫の弾ける音。棧敷さんの住む離れでは雨漏りがひどい。これは、三回目にここに来た時に知ったことだった。
バケツに、また水のたまる音。
* * *
痛恨の極みだった。まさか、電車で一時間、それもメインストリートではなく、そこから一本入った路地裏にある店に"いる"とは思わなかったのだ。
私は水の入ったグラスを持って、棧敷さんはスコーンの乗った皿を持って、お互いに固まっていた。
うちのクラスの棧敷さんだということは、すぐに分かった。彼女は
だけど、想像してしまっていたのは、言い逃れ用のない事実だ。そのくりっとした丸い瞳と、丸い鼻、それに、小さいけれど程よくふっくらした顎。その可愛らしい顔立ちは、きっと、メイド服に似合うと。制服の上に、着せ替え人形のように脳内で服を当てていた。
だけどまさか、本当にこんなところでアルバイトをしているだなんて。
うちの学校では、よほどのことでもない限りアルバイトは禁止されている。家庭の事情だとか、留学にお金がいるだとか。そういう真っ当な理由があって初めて、真っ当なアルバイトをすることが認められる。
棧敷さんがまだ中学生だった頃に、一度だけ家庭訪問に行ったことがあった。中高一貫の女子高である我が校では、基本的に中学入学から高校卒業まで、担任団は持ち上がりとなっている。その一年目、つまり中学一年生の時に家庭訪問があって、その時、私は棧敷さんの担任をしていた。
普通の家よりは少し大きくて、だけどうちの高校では平均的。そんな家庭にあって、アルバイトが認められるはずもないだろう。そもそも、それを許可する第一関門は私なわけで、それを許可した覚えもないわけで、仮にそれを許可しても、メイド喫茶でのアルバイトは認めなかったに違いない。
だって、こうなる可能性があるから。
そして、その可能性を考慮していなかったことが悔やまれた。焦っていた。冷静な判断力が損なわれていた。それらは全て、シミュレーション不足に起因するものだった。
お互いに弱みがある場合は、先にそれを見せた方がペースを握られてしまう。
年下に。それも、自分の生徒にそれを握られてしまったのだ。
テーブルの上に置かれたスコーンに、棧敷さんは誤魔化すようにおまじないをかけようとする。普段よりもずっと甲高いその声は、今して思えばずいぶんと堂に入ったものだった。きっと、彼女は以前から他の店でメイドとしてバイトをしていたのだ。
私は、その襟首を、ぐっと捉えて引き寄せた。
「棧敷さん、このことは黙っておいてもらえるかしら」
耳元で、低く呟く。
別に悪いことをしているわけではない。だけど、生徒に私のメイド喫茶通いが広がることほど、私という存在を揺るがすものはないと、そう感じたのだ。
単に世間体を気にしただけでないことは、私が一番理解していた。だからこそ、私は恐れたのだ。私の中の"これ"とは、上手く折り合いをつけて生きているつもりだった。生徒の前ではそんなもの見えるような形で出した覚えもないし、ここに来て、脳内で処理するだけで満たすことができていた。
目の前に、想像通りの姿をした、棧敷さんが現れるまでは。
私は、人よりも支配欲が強い。
その時の棧敷さんの身体の震えを、私は勝手に恐怖によるものだと勘違いしてしまっていた。
でも違った。
弱みは、先に見せた方の負けだ。
「このことを黙っていてほしいんでしたら、後で、私の家に来てください」
余所行きじゃない、学校で聞くのと同じ声が、私の捕まえた首から再生される。その瞳に浮かんでいた色を見て、恐怖に背筋が凍った。
棧敷さんは、純粋な興奮を示していた。それは、身体がひとりでに震えだすくらいに。
繋がったような気がした。どうして気まぐれな浅黄さんのいるグループに所属しているのか、メイド喫茶でアルバイトをしているのか、そして、授業をしている私に対して送っていた、真剣な視線がなんだったのか。
そして、私の中の支配欲が収まりきっていないことも、同時に自覚されてしまった。
理性が諭す。誰かを屈服させて得る悦楽は、倫理的でない。ましてや、その欲望を生徒に向けることなんて、社会的にも許されることではない。
その思考は、今まで私の深層心理の所で
だけど、その箍を、あの子は
思えば、家に来てほしいなんて誘い、いくらでも断ることはできた。アルバイトしていることを学校に言うぞと脅しをかけたり、私は棧敷さんがここで働いていると聞いたから教師としてここに来たのだと言ったり。棧敷さんの誘いに乗らない道は、最初から私の中にあったのだ。きっとそれは、メイド服に身を包んだ棧敷さんの姿を見たその瞬間にも。
だけど私は、その日の晩、棧敷さんの家を訪れていた。
* * *
四年前に訪れたときは、こんなものなかったはずだ。記憶はぼやけて上手く像を結ばないが、確か、庭には大きな木が立っていたような気がする。だから、こんな離れがあるだなんて、知らなかった。
外壁はモルタルだろうか。ざらついた表面に、母屋から漏れる柔らかい光を受けて、細かな陰影のドットが刻まれている。離れは母屋とは繋がっておらず、その間は小さな飛び石のアプローチで結ばれている。なるべく足音を立てないようにして、私と棧敷さんはその上を歩く。
親から隠すように私を離れに押し込んだ棧敷さんは、扉を閉めるなり、こんなことを言った。
「私、ずっと明庭先生のこと、素敵だなって思っていました」
開け放たれたクローゼットには、何着ものメイド服が吊り下げられている。その分類が一目で分かるくらいには、私はその道に詳しくなっていた。二着のヴィクトリアンの間から現れたのは、スタンダードな日本のサブカルチャーとしてのメイド服。私に背を向けて着替えながらも、棧敷さんは言葉を紡ぎ続ける。
「ずっと夢見ていたんです。明庭先生が私を使ってくれることを」
衣擦れの音に、耳が傾いてしまう。振り向きそうになる首を必死に抑えるようにして、照明を見上げる。狭い離れには不釣り合いなほど、白く、眩しいものだった。
返す言葉を選んでいると、棧敷さんは自分でそのまま続けた。
「自分で自分を律して生きていくのって、すごく難しいことだと思うんです」
「それは……どういう」
ようやく発せた私の声は、からからに掠れていた。呑み込んだ唾の音が、静かな空間に響いた。
「言ったままの意味です。自分でなにかを考えて、自分の正義に従ってなにかをして、自分の責任で生きる。それって、すごく大変な事なんだと思います」
話がどこに向かっているのか分からず視線を彷徨わせていると、着替え終わった棧敷さんが私の目の前に歩いてきた。緩く巻いたボブヘアーの上には大きなリボンの縫い付けられたホワイトブリム。白を基調としているが、袖口やスカートの裾なんかの一部に黒がアクセントとして映えている。心なしか、声もワントーン上がっているような気がした。
「だけど私は、そんな大層なことできません。考えるのも上手くないし、私の中に正義なんてありません。そんなものに持てる責任もありません。だから、私、考えたんです。すっごく素敵な人に仕えられれば、それでいいんじゃないかって」
熱っぽい視線が、私に注がれていた。小さな手にきゅっと握られた胸の前のレースが、先ほど私が彼女の胸倉をつかんだことを思い出させた。
私には、だんだんと彼女の言いたいことがわかり始めていた。
「だから、明庭先生がいいって思ったんです。だって先生、理性の人じゃないですか。他の子は分かりませんが、私にはバレバレでしたよ。先生、私たちを支配したくってたまらないんですよね。普段は適当な浅黄なんかが自分の授業の時に大人しくしてるときとか、目の奥がすっごく恍惚そうに歪んでましたよ。メイド喫茶に通ってるのも、そういうことなんですよね?」
返す言葉もなかった。想像を膨らませていた生徒にここまで見抜かれていて、それでもかけられる言葉なんて、私の中にはなかった。
「だから私は、先生が、こんなに強い欲望を我慢できてるのがすごいなって思ったんです。それで、この人なら、私を上手く使ってくれるんじゃないかって」
棧敷さんはその場に膝立ちになった。この子は、ずっとシミュレーションしていたんだ。夢見ていたんだ。私に顎で使われて、全てを委ねさせてくれることを。だから、私が突然メイド喫茶に現れた時にも、即座に家に誘いをかけることができたのだ。
「先生が我慢すればするほど、私の中の先生を求める気持ちは、先生に仕えたいという気持ちは強くなっていくんだと思います。きっと、先生の欲望と私の欲望は、相関関係にあるんです。私が思えば思うほど、先生は理性に抗いがたくなるんです」
そっと、手を取られた。棧敷さんの顔が、そこに近づけられる。私の手の甲に触れているその柔らかいものの正体を理解してしまえば、全てが駄目になるような気がして、必死に頭を空っぽにした。
「だから、先生が欲望に抗えなくなるまで、私の家に通ってください。そうしなきゃ、先生のメイド喫茶通い、全部ばらしちゃいますよ?」
頷くので精一杯だった。
その日以来、私は、週に一度棧敷さんの家に通っている。
* * *
理性を保てている方が不思議だった。
あの日の宣言通り、訪れるごとに棧敷さんの私への依存はどんどん強まっている。そして、同時に、私の中で彼女への気持ちが大きくなっていくのも、どうしようもなく自覚されていた。
白いライトの元では、なにもかもが筒抜けになっているようだ。
雨漏りの音が、また一つ。
ここでなにか指示を出してしまえば、私の中にわだかまっている全部が、彼女という一点に向けて注ぎ込まれてしまいそうだった。
だから私は、水滴を数えている。
一滴、また一滴。そんな私を見つめる桟敷さんの視線が、ますます熱を増していく。
バケツが溢れるのが先か、雨漏りが直るのが先か。
そんなことを考えながら私は、水面に弾ける水滴を見つめ続けていた。
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