鞄に詰めた存在証明
バッグをひっくり返している。この角度から見ると、量の多いまつ毛の不自然さが際立っていた。あのばさばさのまつ毛は、やっぱりマスカラの力によるものらしい。あの調子だとボリュームタイプかな。反り具合から察するに、きっとアイラッシュカーラーも使っている。切れ長のアーモンドアイズなんだからロングタイプの方が似合うのに。これだけケバいと、また教頭あたりに校則違反だと叱られるかもしれない。
停学になられたら、困るのは私の方なのに。
「ね、
マスカラがこちらを向く。片目を瞑って茶目っ気たっぷりに手を合わせている。あ、こうして見ると、ちょっと可愛いかも。やっぱり、これくらいの華がなきゃクラスの人気者にはなれないのだ。
それに追従するように、グループ全員が私を見た。疑問形の形を取っているが、それはもはやただの確認に過ぎないということを、私もマスカラも、周りのみんなだって知っていた。
「持ってるよ。
「やった! 恩に着る! そーなんだよね。別にこっちだって忘れたくて忘れてるわけじゃないのにさ。あんな怒ることないじゃん」
マスカラ、もとい
私への感謝もそこそこに、話は明庭先生への悪口へとシフトしていく。やれ宿題が多いだの、やれ試験が難しいだの、やれ校則に厳しいだの。私たちは学校に通っているのだからある程度は仕方ないのだと思うけど、それでも浅黄やグループのみんなはそうは思っていないらしい。
私の属しているグループは、クラスの中心になるような子が集まっている。文化祭で劇をすることになればこの中の誰かが主演女優を張ることにになるし、体育祭になればリレーのアンカーはこの中の誰かだ。
共学に進学した小学校のときの同級生なんかに会うと「女子高はいいよね。カーストとかあんまりないんでしょ」と言われるが、そんなことはない。むしろ、他にすることがないからか、学年を重ねるごとにどんどん水面下でのつばぜり合いが増えているように思う。そして、私たちのグループはその頂点に立っている。
続けて、女子高を羨ましいといった同級生は、必ず私の姿をなんだか可哀そうなものを見るような目で捉えてこう言うのだ。
「よかったよね。だって恵深ちゃん、ぼうっとしてるし、小学校のとき、そういうのにあんまり興味なさそうだったもんね」
そういうとき、私は決まって、曖昧に笑い返す。きっと彼女たちは、今の私がクラスで一番目立つところにいるって知ったら、驚くから。
チャイムが鳴る。一時間目は、明庭先生の数学の授業だ。グループは解散になり、それぞれの席に戻る。
私の隣の席には、既にミズが座っていた。今日もいつものリムレスの眼鏡をかけて、文庫本を開いている。私が近づいてくるのに気づいたのか、本から目をあげて、レンズ越しに柔らかいまなざしを寄こしてきた。その手が、ふわりと、空気を掻くように振られる。
ミズは、どこのグループにも属していないけど、別にそれはハブられているわけではないという、不思議な人間だ。
「おはよう、ミズ」
「おはよう、恵深ちゃん」
声をかけると、至って普通の友達からそうされるような返事が返ってくる。親友ではないけど、友達だと言っていいくらいの、微妙な距離感。ミズはそんな、どこのグループからも同じ距離を保っているような、徹底的にニュートラルな人間だった。なににも縛られずに自由でいるのか、反対に誰とも関わることのできない、誰にも守ってもらえないという枷をかけられているのか、それは私からはわからなかった。
ミズを見ていると、なぜか小学生のころの私を思い出す。ぼうっとしていたころの自分と、今の自分。なにを手に入れて、なにを失ったんだろう。
今日のミズは、髪を高めの位置でポニテにしている。なんだか快活な少女のように見えるが、彼女は別段運動が得意というわけでもない。時折ミズは髪型を変えて登校してくるが、それはお洒落からくるものというよりは、自分の姿がなにかに規定されるのを嫌うかのようなものだった。
浅黄の下手くそなアイメイクが、頭をよぎった。あれは、誰に見せるためのものなんだろう。
ちらりと隣の席に目をやると、裏向けに置かれた教科書の名前が目に入ってきた。
それが、彼女の苗字だった。
* * *
「日直、挨拶をして」
明庭先生が促すも、なかなか日直の声はかからない。黒板の隅の方に書かれた名前をちらりと見ると、浅黄の名前が書いてあった。それとなく伝えようにも、私の座る窓際の最前列と、浅黄の座る真ん中の最後列はあまりに離れすぎている。
明庭先生が苛立っているのを察したのか、浅黄の席の近くに座っている子が浅黄をせっついて、それでようやく日直としての役目に気付いたらしい。
「うわっ、今日日直じゃん! きりーつ!」
慌てて立ち上がった浅黄に、明庭先生の冷たい視線が注がれる。あんまりにもじっと見ているので、化粧に気付きやしないかとひやひやする。
「お前、それだけくっきりした目なのに黒板に書いてある文字が見えないのか?」
明庭先生の冷たい声に、クラスがどっと沸く。こうやって怒られているのに笑いが起こるのは、浅黄がクラスの人気者である証拠だ。浅黄も照れくさそうに頭を掻いている。
怒られたのがもし私だったら、こうはなっていない。
小さな目に、ざらついた肌。鏡の前に立つたびに、もう少しなんとかならなかったのかと、なにかを恨みたくなる。浅黄や、グループの他の子みたいな華やかさは、私にはない。ミズは……ちょっと違うかな。顔立ちは整ってるんだけど、なんだか、美醜という概念の外側で生きているような気がするから。むしろ――
教壇で腫れぼったい一重を私たちに向けている明庭先生の姿を見る。華やかさもなにもないスーツ姿に、ヘアピンで固めただけの雑なひっつめ髪。普段の言動もそうだけど、私とそう変わらない容姿だというのに自分を繕おうとしない姿は、私の目には異様に映っていた。
それとも、取り繕っているだけ、私の方が醜いのかな。
こんな私が浅黄のグループにいていられるのは、便利なヤツだという立場を確保できたから。遊びに行くときには、突然雨が降ってきた時のために穴場カフェの場所を調べていくし、試験前になったらノートだって見せてあげる。さっきみたいに、誰かが忘れ物をしたのなら、私が貸してあげる。そうして、私は便利を提供して、グループは私に地位を提供してくれる。
それがお互いに分かっているから、私たちは上手くやっていけているのだ。私が便利でなくなった時、私の手元にはなにも残らない。だけどそれが、ぼんやりとしていた小学生の私が、女子だけの通う中学生に入学して身に付けた唯一の個性。だから、ミズや明庭先生みたいな人が、私にはあまり理解できなかった。
だけど、私がなんのためにクラスでの立場を欲しがっているのか、浅黄たちのグループにいたいのかを考えると、分からなかった。というよりも、それ以外になにも持たない私は、その価値観を理解することを拒んでいた。
もしも、私の"親友"が浅黄たちじゃなくって、ミズだったら。
明庭先生の授業があんまりにも退屈だったから、そんなことを夢想したのだと思う。だけど、思考は像を結ばない。便利な人間になる以外に誰かと仲良くする方法なんて、私には思いつかなかったし、ミズが誰かとべったり仲良くしているところを想像するのも、できる気がしなかった。
本当、変な人だ。
誰のことを指しているのかわからない言葉だけが、頭の中をぐるぐると回っていた。
* * *
浅黄が保健室に行ってしまったのは、今日の四時間目のことだった。浅黄はたまにこうしていなくなることがある。今日眠いわー、だとか次の体育乗り気じゃないわー、とか言って、保健室で寝ているのだ。仮病だってことはみんな分かってるけど、普段のキャラがキャラなだけに、それを止める人はいない。
最悪なのは、残される側だ。これじゃ、奇数になってしまう。
うちの学校のお昼は弁当なのだが、浅黄を除く五人でご飯を食べることになると、自然と私は"余り"の席になる。
「ちょっと浅黄さすがにサボりすぎだよね」だとか「ちょっとメイク濃くない? グループごと目つけられたら鬱陶しいんだけど」なんて会話が、グループの中で飛び交う。奇数になった途端こうなるから不思議だ。 だから、偶数にするために、誰かが輪からはじき出される。そしてそれは、余りの私だ。
席をくっつけてもらえなくなるわけではない、口をきいてもらえなくなるわけではない。ただ、彼女たちの纏っている雰囲気がそう語っている。入れてあげているだけの予備要員だから、放り出すならコイツだ。そもそもこの子がウチのグループにいる方が異様なのだ、と。
それでも私は、箸を忘れてしまった子に割り箸を渡しながら、薄い顔の面の皮だけを分厚くして、笑顔を振りまく。
そこに理由なんてなかった。
視界の端に、私の席が映った。そして、その隣の席に腰かけて一人で弁当を食べているミズの姿も。なにを聴いているのか、行儀の悪いことにイヤホンをつけての食事だった。そのリムレスの眼鏡の奥に光る瞳からが、相変わらずなにも読み取れない。
食事をしながら、にこにこと意味のない相槌を打ちながら、とりとめのない断片的な思考ばかりが溢れてきた。
浅黄の似合わない派手なアイメイク、明庭先生の悪口、ミズのポニーテール、振られた意味のない手、私たちをまんべんなく見渡す腫れぼったい一重
この教室のどこにも、私はいない。そんなこと、とうに気付いているのに、どうして私はまだしがみついているんだろう。
私はきっと、私以外の誰になっていてもそれで満足だったんだ。ミズが、明庭先生が、浅黄が、グループのみんなが羨ましかったんだ。
だけど、今こうして笑っている私は、何者でもない。
浅黄は、五時間目になっても帰ってこなかった。
「ねぇ、恵深ちゃん」
ミズに話しかけられたのは、授業が始まる少し前のことだった。
今日ほど予鈴の遠い昼休みは、久しぶりだった。きっと時間の流れは人によって違う。保健室にいる浅黄にも、音楽を聞いていたミズにも、ハブられないように必死だった私にも、違う時間が流れていた。
「どしたの、ミズ?」
私を見つめるミズの目は、私の見慣れた種類のものだった。ようやく、ミズの考えていることを当てられた。簡単な事だったのだ。私は、頼られて、利用されてはじめて存在できる。それはきっと、ミズの前でも同じことだったのだ。
「お願いしたいことがあって……」
やっぱりそうだ。私は、グループでいつもそうしているように、差し出がましくないように、相手が気兼ねなく私を使えるように気を遣って、それでいて点数を稼げるように、きょとんとした顔で首を傾げてみせた。
「持ってきたはずなんだけど、古典の教科書が見つからなくって。ほら。次の授業、古典でしょ」
ああ、と合点がいったように頷く。なんだ、それぐらいのことだったらお安い御用、といった表情を作る。机の中から古典の教科書を取り出して、それを胸の前で掲げて――
「恵深ちゃんの鞄に紛れてないか、見てもらってもいいかな?」
さっと、顔から血の気が引いていくのが分かった。
リムレスの奥から覗く瞳からは、やっぱりなにも読み取れない。全てわかっていて私を責めているようにも、なにもわからずに無垢なようにも、どちらともとれる。その、ちょうど間をとったような目が、私を射抜いていた。
こう言われてしまっては、探さざるを得ない。クラスの目から隠すように窓側に押しやっていた私のスクールバッグ。それを、この期に及んで私の身体で覆い隠すようにして中を探る。
私なんて、ここにはいないのに。
背中に感じる、ミズの存在。それを意識した瞬間、全て洗いざらい吐いてしまいたい気持ちになった。
スクールバッグの中に無造作に突っ込まれたコンパス、箸、それからミズの古典の教科書。
だって、私にはそれしかなかった。誰かから頼られることでしか、使ってもらうことでしか、私は存在できなかった。
だから、盗んだのだ。
昨日の授業の時に明庭先生が「明日はコンパスを持ってくるように」と言ったときから決めていた。浅黄は困れば、きっと私を頼る。そうすれば、私はまだここにいられる。
常習犯だった。いつしか誤魔化すのも上手くなっていた。
朝盗んで、夕方には適当な所に戻しておくのだ。そうすれば向こうは勝手に「ここにあったのか」と、さも自分が忘れていただけであるかのように錯覚してくれる。
だけど、その無くしたものを見つけたときの視線が、あるべきものをそこに見出したような視線が、私に向けられることはなかった。
たまに捨てていれば、疑われることもない。奇数を偶数にするように、少しずつ、少しずつ減らしていった。そうして私は、自分の場所を守り続けた。
だけど、それでは届かなかった。私の欲しいものには、私の姿は映らない。私は、取り上げて渡すだけの、差し引きゼロの存在でしかないから。
同じゼロのはずなのに、どうして貴女はそんなに静かな目をしていられるの?
さっきは、私と貴女がもしも親友だったらなんてことを考えた。だけど、やっぱり私には一生かかってもわかりそうもない。
ねぇ、ミズ。本当は私は、なにが欲しかったのかな。
「あっ、ごめん! こっちの鞄に紛れ込んでた!」
わざとらしく吐く嘘が、また一つ。謝りながら、押し付けるようにミズに教科書を渡した。鞄にはまだ、コンパスと箸が残っている。
ミズは相変わらず、全ての間をとったような静かな目で、私のことを見ていた。
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