たまさかにして断片

青島もうじき

アトリエは灰の色


 共犯者だったと知ったのは、全てが、無彩色になったあとのことだった。

 けたたましく鳴るサイレンは消防と警察、そのどちらも。規制線テープの向こうでは消防服に身を包んだ人たちが消火活動の後処理をしている。それを私は、どこか現実のものでないかのようにぼうっとした目で見ている。消火栓から伸びる太いホース。濡れて鈍く光を弾いている、黒く焦げた木の柱。鼻を突く、すえた臭い。

 私が帰ってきた時には全て終わってしまっていた。きっと、そうなるように仕向けられていたのだろう。同じ時を過ごした二人の場所は瓦礫と灰燼かいじんの山に変わっていて、そこにあるべき、無邪気であどけないあの横顔はなかった。

 パトランプのぐるぐる回る赤が、灰色の世界に不釣り合いだった。空まで雲が満ちて色を消しているというのに。

 震える肩を押し込むようにパトカーに乗せられた瞬間に気付いた。

 そうか、私も彼女の作品の一つになれたんだ。


   * * *


 七色なないろと出会ったのは、今日と同じような曇天の日ことだった。初めて見た彼女は空を背景にして立っていたから、忘れようもない。だって私は、色のない世界に突然降ってきた絵の具みたいな彼女に、目を奪われていたから。

 その日は本当に最悪だった。春は変化の季節だと言われるが、それはいい変化だけではない。同居人の浅黄あさぎに家を追い出されたのだ。理由を詳しく聞けるほどの余裕は、彼女になかった。わめきちらした言葉のなかに何度も現れた「私は社会人で、貴女は大学生だから」という言葉が、重かった。きっと、浅黄の方が環境の変化に耐えられなかったのだ。たった二年の同居生活だった。

 最低限の荷物だけ持って出てきたが、当然行く当てもない。途方に暮れたが、とりあえず大学に行けばひと晩くらいは過ごせるかもしれない。そう思って、国道を南へと歩いていた時だった。

 突然、空から絵が降ってきた。

 初めは一枚だけだった。しかし、後から後から、漂うように落ちてくる。どこか、深海にしんしんと降り積もるマリンスノーのようだった。

「すみません! それ、飛ばされないように拾ってもらってもいいですか!?」

 次に空から降ってきたのは、少し高い、可愛らしい声だった。見上げると、国道をまたぐように架けられた歩道橋に、女の子が立っていた。

 はっとした。たなびく長い黒髪は、全ての色を吸い込んでしまったかのように、深い色をしていた。真っ先にそれが目に入ったのは、思えば、対照的な浅黄の透けるような金髪を思い出していたからかもしれない。

 見とれていたのは一瞬だった。行く当てのない私に突然与えられた役目。それに飛びつくように、私は降り積もった絵をかき集めた。慌てて駆け下りてきた彼女にそれらを手渡すと、彼女は形のいい眉をきゅっと寄せてみせた。

「困りました……一枚、どこかに行ってしまったみたいです」

 聞けば、彼女は近くの美大に通う若い絵描きらしい。七色という名前を名乗られた時には「絵を描くために生まれてきたみたいな名前だね」とはしゃいだけれど、思えばあれも偽名だったのだろう。同い年だと聞いたのも、もしかしたら嘘だったのかも。

 どうやら降ってきた絵はポートフォリオのためのものだったらしい。歩道橋の上で中身を確認していたら風で飛ばされてしまったのだとか。花、草原、夕暮れの海、廃墟、宗教画、そのどれもが色鮮やかな油彩で描かれている。素人目にも相当上手いものだった。

 なくなってしまった一枚は、人物画だったらしい。ポートフォリオには絵画そのものではなくその写真を入れるそうなのだが、写真のデータも、絵画も大学に置いてきてしまったのだという。そして、七色の通う美大は、休日になると建物が施錠されるらしい。つまり、写真がなくなってしまうとどうしようもなくなるのだ。

「どうしましょう……。こうなってしまえばできることは一つです……」

 一ページが空白となってしまっているポートフォリオを抱えてなにやら一人で考え込んでしまっている七色の顔色を窺うと、七色はぴょこんと頭を下げた。艶やかな黒髪の奥に覗くそのつむじの地肌の色に、見てはいけないものを見てしまったような気になって、どきりとする。

「貴女を、描かせていただけませんか?」

 きょとんとしてしまった。描くって、私を?

 唐突に、私を口汚く罵ってきた浅黄の顔が思い浮かんだ。こんな惨めな私の姿が、七色みたいな華やかな人の目に映っているのが、なんだか不思議だった。

 気づけば頷いていた。それから、こう付け加えた。

「その代わり、ひと晩泊めてもらえないかな。私、家がなくなっちゃって困ってるんだ」

 見開かれたその瞳は、髪と同じ、吸い込まれそうな黒だった。


   * * *


 結果から言うと、私たちは一緒に暮らすことになった。あのあと七色に連れていかれたのは、彼女の自宅兼アトリエだった。美大に入るときに借りたのだというそこは、厚いカーテンが引かれた薄暗い空間だった。光に反応して絵の具の色が変わってしまうのを防ぐためらしい。

 私を初めてこのアトリエに連れてきた日、七色は私を描きながらこんなことを言った。

「私、貴女みたいな人が好きなんです。だから、住む場所が決まるまで、私と一緒に暮らしませんか」

 その全てが現実のものでないようだった。絵の具の散ったこの床も、吸い込まれるような黒髪も、そんな場所で、そんな人と一緒に暮らしていくことも。

 七色は一緒に暮らすようになってからも敬語を崩さなかった。ポリシーなのだという。それでも、だんだんと七色は自分のことを話して聞かせてくれるようになった。油絵を専門としていること。故郷がここから遠く離れていてあまり友達もいないということ。そして、色に魅せられて芸術の道を志したのだということ。

 生活リズムが似ていたこともあって、私のアルバイトがない日なんかには、夕方、大学からこの家に戻ってきて、彼女のアトリエでの作品作りを眺めていることもあった。その横顔は無邪気であどけなくって。その表情を見ているだけでも、私は幸せな気持ちになれた。浅黄とのことで傷ついた心が、だんだん癒されていくのがわかった。

 次第に、私の方も自分のことが話せるようになっていった。浅黄という人間と一緒に暮らしていたということ、その生活が、本当に好きだったということ、だけど、浅黄は変わってしまったということ。

 その全てを受け止めるように、真っ黒の二つの瞳はいつも私を見つめ返してくれた。

「私、それこそが芸術だと思っているんです。この世界には時間というものがあります。それは、私たち人間には未だ操ることのできないものです。あの時ああしていれば、将来こうなれたら。未来に関しては行動で変わることもありますが、多くは偶然に左右されて絶対なんてものはありません」

 彼女は、そう言いながら一本の筆をとった。いつも油彩画を書く時に使っているものだ。反対の手には板状のパレットが握られている。なにをするのかと思えば、七色はいきなり壁に赤い絵の具を塗りたくった。驚いている私に、その反応を知っていたといわんばかりの笑顔を向けて、七色は続けた。

「こんな風に、一度やってしまったことは時間を戻さない限りなかったことにはなりません。私が今から頑張ってこの絵の具を拭きとっても、それは借家の壁に絵を書いたという事実に、それを消したという事実が上乗せされるだけなんです。ちょうど、油絵を描くみたいに。でも、真っ白なキャンバスなんて面白くもありません。人生も、歴史も、こうやって沢山の色を塗りたくっていくものなんです」

 そう言いながら、七色は私にパレットと筆を手渡した。筆には、まだ赤い絵の具がついたままだ。

「だから、その時間を凝縮したものこそ、一つの芸術に相応しいと思うんです。私たちに操ることのできない時間という概念にそれでも立ち向かうんです。その前後に流れている時間を圧縮して、鮮やかに彩る、それが芸術だと私は思っています。そしてそれは絵画だけに限りません。音楽だって、文章だって、あるいは感情だってそう呼べるかもしれません。そういうものが、私は創りたいんです」

 肩を押されて、私は筆を持ち上げた。七色のこと、浅黄のこと、私自身のこと。まだ一緒に暮らし始めてあまり時間も経っていないというのに、色々な感情が湧き上がってくる。楽しかった浅黄との二年の同居生活、変わってしまった彼女、追い出されたあの日の曇天、降ってきた鮮やかな油彩画、共に暮らす薄暗いアトリエ、真っ黒な髪と、瞳。

 それら全てを貫くように、横に真っすぐ線を引いた。壁に描かれた直線は、勢い余って最後の方は掠れてしまっていた。だけど、その線こそが私を表しているようで、なんだか笑えてきた。見ると、七色も心の底から嬉しそうに笑っている。こんな笑い方をしているのを見たのは、初めてだった。

 毎日が、ただ幸せだった。


   * * *


 あの日から毎日二人で壁に描いていた油絵はこのためだったのだ。

 油は、よく燃える。

 警察の人からは事故と事件、両方の線を考えていると言われたが、その目は「お前の同居人がやったのだろう」と私を責めていた。そして、私もきっと七色がやったに違いないと思っている。

 あの日の七色が私を拾ってくれたのは、きっと私の目が虚ろだったからなのだろう。楽しかった日々の色に、それを失った色を乗せた私の姿に、彼女は感じるものがあったのだ。だから、ありもしないポートフォリオの人物画なんて嘘をついて、私をアトリエに連れ込んだ。

 今となっては七色なんて名前はきっと偽名だったんだと思うし、美大生だと名乗ったのも嘘だったのだろうとわかる。私は、彼女の個人情報をなにも知らないままだった。

 だけど、きっと七色の語った芸術に対する考えは、色に魅せられてこの道を選んだという言葉は、真実だったのだと信じている。これだけのことをされて尚、彼女のことを理解しているのだという自負がまだ自分の中に残っていることに驚いた。

 きっと、七色は同じものが見たかったんだ。浅黄に追い出された時の私を、もう一回見たかったんだ。アトリエでの日々は楽しかった。七色の描く油彩画も、お互いのことについて語る時間も。今の私は、彼女との時間全てを回想している。きっと、それを全て失う私こそが、全ての色を失って灰色に崩れ落ちたアトリエこそが、彼女の作り出した作品なのだ。

 絵の具を混ぜていくと、だんだん黒っぽくなっていく。きっと、そうやって沢山の色を集めていったから、彼女の髪は、瞳は、吸い込まれるように黒かったのだ。

 そして、その黒に魅せられた私は、その瞬間から彼女の作品の一部だった。

 パトカーの扉が閉まり、低いエンジン音を鳴らしながらどこかへ向けて走り出す。ウィンドウから、アトリエが、七色の作品が見えなくなる瞬間に思い出したのは、私が追い出されたあの日の、浅黄の乱れた髪の金色だった。

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