終章 是
5-1 『Y』
「で? お前はセンとどういう関係だ?」
白く無機質な、いわゆる病室のような個室の中、目を覚まして最初に耳にしたのはそんな言葉だった。
体勢はベッドの上で仰向けの寝姿。無防備にも程がある状態だが、だからこそいつでも襲えたはずの声の主、長身に特徴のない顔をした青年を警戒するつもりにはならない。
「……どこ、ここ?」
一応の礼儀として身体を起こすも、青年にはそれを止める様子もない。
「お前を生かした場所だ。わかったら、おとなしく私の質問に答えろ」
どうやら、そういう事らしい。
覚醒していく意識が、知覚していた時までの出来事を思い出していく。
碧をM.Aの操作から解放した事、その過程で俺が外部からの治療を受けなければ死ぬだけの負傷を負った事。
碧の混乱を抑えるため、あの場では死なないと言ったが、腹部を貫かれた傷を全て治癒しきるほどの変異能力は俺にはなかった。
だから、今生きているという事は、俺は傷への治療、それもかなり高度なものを受ける事ができたという事だ。その治療を施したのが目の前にいる青年、彼の属する集団である可能性は高く、そうであるなら彼らは俺の命の恩人という事になる。
「センは俺にとっては恩人だよ。だけど、逆はわからない」
かつての俺の所属していた集団『宵月の民』を滅ぼした内の一人。
その時に俺を見逃したセンは、だからといって恩人と呼べる存在ではなかったが、俺をここに連れてきて治療を受けさせたのはまず間違いなくセンで、今となっては彼女も俺の恩人に違いない。
「なら、どうして――」
「なんで俺を『Y』に連れてきたか、なら、センに聞いてくれ。むしろ、俺も知りたい」
青年が最初にセンの名を口にした時点で、ここが『Y』の拠点である事はわかった。
だが、センが俺を『Y』の拠点に連れてきた理由まではわからない。
傷の治療のため、は間違いないだろう。あの時の俺の傷を治すには変異細胞を用いた治療が必要で、だがそれを認可された公の医療機関は例外なく全てM.Aと繋がっている。
M.Aに捕らえられずに治療を受けるには、公でなく変異細胞を用いた治療のできる場所に行く必要があり、特定変異体集団『Y』はその条件に当てはまっていたのだろう。
青年が聞いているのは、そして俺が知りたいのは、それ以前にセンが俺を助けると決めた理由だった。
「センとの関係を詳しく聞かせろ。どこで出会い、どういった顛末でここに運び込まれた?」
「待った、次は俺が聞く番だろ」
「いや、まずは私が聞く。その後に余裕があれば、お前の質問も聞いてやる」
「……まぁ、そうなるか」
恩は置いておいても、俺と青年の立場は同じではない。
何より大きいのは俺の聞きたい事、センや碧、七香の現状がわかっていない事だ。センはまた別としても、他の二人が人質にされているような状況なら、適当に青年を叩きのめして情報を吐かせるというわけにはいかなくなる。
「わかった、話してやる。とは言っても、めんどくさい話なんだけど――」
ひとまず青年の問いに答える事にするが、センと俺との関係は自分でも把握しきれていないところがある。
自らの集団を滅ぼした張本人、そして命の恩人。明確なのはそれくらいで、他はほとんどが俺からセンへの執着だ。実際にセンと過ごした時間、築かれた関係は非常に少ない。
「――なるほど、センから聞いた通りだな」
俺の話を聞き終えると、青年は小さく頷いた。
「お前達の話は意味がわからん。お前がセンを追った理由も、センがお前を助けた理由の方も、まったく支離滅裂だ」
だが、続いて、青年は大きく首を横に振る。
「なんだ、知ってて聞いてたのか。それで、なんでセンは俺を助けたって?」
「お前の言葉を借りて言うと、それはセンに聞け」
「聞けって言われても――」
反論を口にしようとして、その最中で青年の言わんとする事を理解する。
「センに会わせてくれるのか?」
「私が会わせなくても、好きに会えばいい」
「なら、センはどこだ? それと後二人、俺と同時にここに来た奴らは?」
「それに答える前に、もう一つだけ私の質問に答えてもらおう」
「……まだあるの?」
すでに青年の質問は終わったかと思っていたが、どうやらそうではないらしい。奇妙な会話のリズムだが、青年の表情はふざけているわけではなく、むしろ俺の前に姿を現してからでは最も真剣な形相だった。
「雨宮悠、お前は『Y』に付くか?」
なるほど、それはたしかに青年にとっては本題だ。
自分達の味方か否かによって『Y』の俺への対応が変わるのは当然で、その答えを聞いてからしか答えられない問いもあるだろう。それどころか、敵に回るとすれば、ここで殺すつもりであってもおかしくない。
「そうだな、俺は『Y』に付こう」
答えを出すのは、簡単だった。
ここが『Y』の拠点である事を差し引いても、明確にM.Aを敵に回した俺達が生きていける場所は少ない。同じくM.Aと対立する変異体集団『Y』と手を組めるのであれば、むしろ望むところだ。
「歓迎しよう、雨宮悠。これから君は我々の一員だ」
そして、俺の言葉に、青年も純粋に喜ぶような表情を見せた。
「俺の言う事をそのまま信じていいのか?」
「センの連れてきた変異者だ。私は君を信じよう」
「へぇ……」
青年の態度は友好的、というより俺に友好的な印象を抱かせようとしていた。それはあくまで表面的なものではあるが、今はそれでも十分すぎる。
「私は清澄千遥。特定変異体集団『Y』の……そうだな、主導者の一人だ」
「どうも。俺は雨宮悠だ」
青年、千遥は自らを『Y』の主導者の一人と名乗った。だとすれば彼の意思は『Y』の意思、少なくともその一部以上のものではあるのだろう。
「なら、早速センの、それと碧と七香の居場所を教えてもらおう」
もっとも、俺には然程『Y』への興味はない。あくまで俺にとっては隠れ蓑、それも自分だけではなく碧と七香の身を守るための蓑であり、本命はあくまでその二人とセンだ。
「センの住処なら、この地図に記してある。今どこにいるかは知らないが、張っていればいずれ出会えるだろう」
千遥の投げて寄越した地図を見ると、『Y』の現在の拠点と思われる市街地の区割りの中に赤い印が一つ記されていた。
「他の二人は?」
「それについては、教える必要はないな」
「必要があるかどうかは俺が決める事だろ」
「なら、君が決めればいい」
「おいっ……」
会話を唐突に遮った千遥は、後ろ手に扉を開くとその隙間に身体を滑り込ませ、瞬く間に俺の視界から姿を消してしまう。
追う手もあるが、相手に話すつもりがないのであればそれに意味があるかどうかは微妙なところだ。それに、千遥は『必要がない』と言った。それはつまり――
「悠さん!」
千遥が部屋から去ってほんの少しの間を置いて、扉が再び開いた。
予想通り、というよりは楽観的な想像が当たった。千遥があえて多くを語らなかったのは、おそらく感動の再会に水を差さないためにと気を使いでもしたのだろう。
「良かった……生きて――」
「おっ、七香。生きてたか」
「なっ……それはこっちの台詞です! あんな傷を負って、悠さんが生きているのは奇跡に近いんですよ!」
涙を浮かべかけた七香が、そのままの顔で怒鳴り声をあげる。
「でも、俺は死んでない。言った通りだろ」
「……では、こうなる事を確信してたんですか?」
「もちろん」
もちろん、嘘だ。
実際のところ、センが俺を『Y』に運び込み、変異細胞を用いた治療を受ける事で一命を取り留めるまでの流れは想定していた。
ただ、それはあくまで可能性の一つであって、確信などしていたはずもない。センが俺を救おうとするか、救おうとしたところで『Y』の治療が間に合うかどうか。不確定要素はいくらでもあり、俺の生死はいわゆる賭け、それも分の悪い賭けでしかなかった。
「……いえ、それは嘘です」
そして、七香は短い間悩んだ後、俺の嘘を見抜いた。
「悠さんは、そこまで頭は良くありません。行き当たりばったりで自分の腕力に任せるのが悠さんのやり方だという事はもうわかりましたから」
「言い方ひどくない?」
「でも、事実でしょう?」
たしかに、七香の分析はこれ以上なく的を射ていた。
M.Aに単身入る事を決めたのも、そこを脱出する手順も、突き詰めれば自分が死なないという前提、戦闘技術にかまけた流れ任せの杜撰なものだった。
結果、当初の目的であるセンとの再会は果たせた以上、そのやり方が間違っていたとは思わないが、その後の俺自身の生死に関しては、腕力も何もなく完全に運と他者の手に委ねてしまっていた。
「私は悠さんに説教のできる立場ではありません。ですが、お願いですから、せめて自分の命に関わる事だけはもう少し慎重に考えてください。あの時、悠さんが死んでしまっていたら……その、私が辛いです」
七香の言葉は説教ではなく願い、懇願だった。
「ありがとう、七香」
俺は、俺の考えうる最善の手を打った。
だから、反省はしていない。七香の言葉が俺を変える事もない。
ただ、今の俺には七香の考えが、その気持ちがわかる。だから、反論をしたところで意味がない事はわかってしまった。
「……いえ、お礼を言うのは私の方です。悠さんが私達を守るためにあんな行動を取った事はわかっていますから」
「逆だろ。先に俺に警告しに来たのは七香だ」
M.Aに操られる事になった碧、最初から闘争を望んでいたセンとは違い、七香だけは常に俺のためだけに動いていた。互いに自分より相手を優先する歪な関係、それでも順番としては七香がM.Aの本隊、真琴の存在を警告しに来たのが先だ。
「では、あの場はお互い様という事で。前の恩の分だけ、私から悠さんに借り一つですね」
「なら、ずっと借りといてくれ」
「すぐにでも返しますよ。幸い、というのも何ですけど、まだ危険には事欠かない状況ですし」
「『Y』の事か」
問いを返すと、七香は小さく頭を下げた。
「やっぱり、七香も『Y』に?」
「という事は、悠さんは『Y』に付くんですね?」
「とりあえずはそれが無難だろ。キツそうだったら他を探す事になるけど、M.Aを敵に回しておいて身を置ける場所は貴重だし」
「なら、私もそうします」
七香は今も、俺に何よりも優先順位を置いていた。その事実は俺にとって不都合な事もあるが、同時に今はどこか嬉しくも感じられた。
「俺が寝てる間、『Y』について何か聞いた?」
「集団の概要については軽く。まとめておいたので、気が向いた時にでも見てください」
七香の寄越した手帳を受け取るも、何ページにも渡り細かく文字が記されていて読むのに時間が掛かりそうなため、ひとまず後に回す事にする。
「それと、碧は無事か?」
「はい、無事ですよ。呼んできましょうか?」
「いや、いい。俺から行く」
立ち上がり軽く跳ねてみると、貫かれた腹部を中心に、身体には嘘のように何の痛みも不調も感じられなかった。これなら、怪我人扱いされずとも自分で歩けばいい。
「なら、私はここで待ってますね」
「一緒に来ればいいだろ」
「嫌ですよ、水差すの。二人っきりで感動の再会をしてきてください」
気を使った、というよりは本当に嫌そうな表情を浮かべ、七香はそんな事を言う。
「俺も嫌だよ。慰めるのしんどいし、付いて来てくれ」
「……えー、そういう事言いますか?」
「だって、絶対碧落ち込んでるだろ」
七香の言う感動の再会、とやらは俺には重すぎる。
単に生死の境をさまよった俺が生還したというだけならともかく、本人の意思ではないとは言え、直接俺を生死の境に突き落としたのは他でもない碧だ。自分を責める碧を上手く宥めるなんて真似が上手くできる自信は、正直なところまったくない。
「でも、どっちにしろ悠さんが慰めないとですよ。私がいても何の役にも立ちませんし、むしろ邪魔でしょう」
「……じゃあ、部屋までだけでも連れてってくれ」
「まぁ、そうですね。道案内には付いていった方が早いですか」
俺の折衷案に七香も頷くと、共に白い病室を後にする。
病室の外は、中から想像していたものとほぼ変わりない、ごく普通の病院の廊下。そのまま進んでロビー、そして外に出るまで、特別なところは何もない単なる病院以外の何物でもなかった。
「『Y』は、放棄された町をそのまま拠点として使っているんです。地下なんかには研究施設や何やらあるのかもしれませんけど、私の見た限り悠さんのいた病院も、私達に与えられた住居とその周辺の団地もごく普通のものですね」
俺の顔色を読んだ七香の補足通り、変哲のない地方の町並みをただ歩いていく。人、あるいは変異者や変異体とすれ違う事もなく、やがて一軒の一戸建ての前で七香は足を止めた。
「ここが私達、私と枯木さんに一時待機場所として与えられていた家です。まぁ、私はずっと悠さんのいた病院で待ってたんですけど」
「碧はこの中に?」
「入るところまでは見ました。出ていっていなければいると思いますよ」
「なら、入るか」
「はい、どうぞ」
やはりというべきか、七香は中に入るつもりはないらしく、鍵を俺に渡し一歩下がった。
「やれやれ……」
気は進まないが、七香の言う通り、碧とは俺が話を付ける必要がある。
何気なくドアノブに手を置くと、鍵は掛かっていなかったようですぐに動いた。
「碧、いるか?」
やや狭い玄関から視界に入るのは階段、そして一階の廊下。呼びかけに返事が返って来ないため、端から見て回る事にする。
まずは一階、部屋を全て見て回るも、どこにも碧の姿はない。
次に階段を上って二階、だがこちらにも碧の姿はなかった。
念のために押入れや収納の扉も全て開けてみるも、当然だがそんなところに碧がいるはずもない。鍵の掛かった扉もなく、隠し扉なんてものがあるようにも見えない。家の中ですれ違ったというのもあり得ないだろう。
「ちっ……」
つまり、碧はこの家にはいない。
「七香、碧がいない」
「本当ですか? それは……」
「お前達の案内役に話を付けてくれ。それが無理なら、病院に引き返せ」
まず想定するのは、碧が病院に向かい、俺達とすれ違った可能性。それを確認するには碧の動向を知る者に聞くか、直接病院に戻るのが早い。
「わかりました。……お気をつけて」
「そっちもな。危なくなったら逃げろ」
七香は、自身に指示を出した俺の意図を把握していた。
俺が潰すのはそれ以外の可能性、碧が自らどこかに消えた、あるいは何者かに連れ去られた可能性だ。後者であれば、碧を連れ去った何者かが俺達に害を為そうとする事は十分に考えられる。
とは言え、俺はそんな『何者か』は存在しないと読んでいた。
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