3-6 再会

「悠さん!?」

 気付いた時には、俺は少女を追っていた。

 七香の声を置き去りに、走り去る少女へと全速力で駆ける。

 使うのは両脚、必要な部位に合わせて腿の付け根から膝、足首へと順番に変異、それを右と左、両脚で交互に繰り返し、擬似的に両脚全域を変異させられる変異者と同等の速度を実現する。

 M.A.Rに入る際、俺は右手首から先だけを変異部位とする変異者として自称し、能力検査や普段の訓練、果ては潜入者への対応からM.Aの脱出に至るまでずっとその部位以外の変異を行ってこなかった。

 だが、実際に俺が変異させられるのは『右手首から指の先まで相当』の体積。そして変異部位は全身だ。つまり、同時に変異させるのが右手首から先ほどまでの体積であれば、頭であろうと胴体であろうと、あるいは脚であろうと変異させる事が可能だ。

 従来の変異者、そして変異体としても異質な変異能力。素性や目的以上に、切り札として今まで隠してきたその能力を、しかし今はただ走るためだけに使う。

 そして、それでもなぜか少女には追いつかない。それどころか引き離されていく中で、なんとか見失わずに後を追うのが精一杯。それすらも、いつまでもは続かなかった。

「……くそっ」

 いくつ目かの建物を飛び越えたところで、少女の姿は視界から消えていた。

 もっとも、まだ追い続ける事はできる。少女は意図して俺を撒いたわけではなく、ただ速度の差で俺が置いていかれただけ。だとすれば、姿は見えずとも進行方向は変わっていないはずで、少女が目的地に辿り着き足を止めさえすれば、そこで追いつける。

 走りながら電子端末を取り出し、M.A内部の地図を呼び出す。俺と少女の遭遇した工場から現在地までを線で結び、その延長線上の周辺施設を確認。まず目に付くのはM.A事務区画、そしてM.A.R生活区画の二つ。

 前者ならM.A上層部への襲撃、あるいは機密情報の略奪。後者ならM.A.R予備生への襲撃、あるいは誘拐。どちらも侵入者の目的としては有力だろう。

 だが、あえてどちらかに当たりは付けず、そのまま直線で走り続ける。少女の目的がどちらにしろ進行方向周辺なのは変わらず、後は俺が現地の様子を見てから考えればいい。

 先に辿り着いたのはM.A事務区画。同時に、血溜まりのできた路面とその上に散らばる肉片が視界に入る。首の数で数えて六人、そこには移動の片手間に殺されたM.A職員達の残骸が残るだけで、それを作り出したであろう少女の姿はすでに消えていた。

 では、少女はすでにM.A事務区画に乗り込んだのか。断定はできないが、周辺の雰囲気から見ると答えはおそらく否。この近くで全面抗争になっていれば、悲鳴や物音が耳に届いているはずで、そうでない以上、おそらくここは少女にとって進路の一部でしかない。

 迷いを切り捨て、再び直線を走り始める。変異者とて万能ではなく、全力に近い疾走を続けていれば息も切れてくるが、速度を落としている余裕はない。

「……いた」

 だが、体力を消耗して走り続けた甲斐はあった。

 場所はM.A.R生活区画、予備生寮の手前。十を越える死体の上に、追い続けていた少女の姿があった。まだ視界に入っただけ、辿り着くまでに距離はあるが、一方で少女の方は目の前の三人の職員と対峙していた。そこで少女が時間を費やせば、追いつけるかもしれない。

 矢のように走っていた先程までとは違い、少女はどこか疲れたように足を止めていた。対して、向かい合う三人も仕掛けない。というよりも、職員達は距離を取り、時間を稼ぐ事を目的としているように見えた。

「……はぁ」

 響いたのは、溜息。

 飽いたような、憂うような声を吐き捨て、少女はゆっくりと前進していく。向かう先は三人の職員、ではなくM.A.R予備生寮。職員達が跳ね、直進から距離を取った後も、少女はそれを気にも止めずにただ前へと進んでいた。

 敵対者を無視した代償は当然、彼らに背中を晒す事。予備生寮の横側の扉へと手を掛けた瞬間、少女の背後を大振りの薙刀と直剣が上下に位置をずらして襲う。

 回避は不可能、姿勢からして防御も困難。

 もっとも、それは人間、あるいは変異者ならの話だ。

 少女は背を向けたままの姿勢で、背後の薙刀と直剣が停止。止めていたのは背から伸びた一対の黒い翼、二本の凶器を軽々と受け止めたそれらは、更に肥大化し続け二人の職員へと殺到、変異し盾にした腕や脚を掻い潜り胴体を貫くと、体内で無数の棘を生やし職員達を肉片へと変えた。

 あまりに呆気ない、一方的すぎる殺戮に、残った一人の職員は逃げるように撤退。それを一瞥だけすると、少女はM.A.R予備生寮の中へと入っていく。

「残念だけど、もうここの予備生は避難してるはずだ」

 そこで、ようやく俺は少女に追いついた。

「……お前は?」

 第一声は、冷たい問い。興味というよりは惰性、形式的に話を進めるための言葉。

 予想通り、少女は俺の事など覚えてはいなかった。

「雨宮悠」

 だから、名前だけを口にする。

「そっちは?」

「何をしに来た?」

 白髪の少女は俺の問いに答えず、ただ問いを重ねる。常の俺ならそれに答える事なく同じ問いを繰り返していただろうが、少女の問いは無視するには俺にとって重すぎた。

 何をしに来たのか。

 俺の目的は、今目の前にいる少女、探していた変異体の元へと辿り着く事だった。そのためにM.A.Rへと籍を置き、M.Aを脱出して『Y』の拠点に乗り込もうとした。

 辿り着く、という言葉通りなら、俺はすでにそれを成し遂げた事になる。

 だが、その後があるはずだ。そこまでの過程を経て、ただ一度傍に立っただけの事で満足できるはずがない。辿り着き、その後があって然るべきなのだ。

「…………」

 だが、わからない。

 少女に辿り着けば、自然と答えは出るだろうと思っていた。しかし結果はこの通り、俺は少女を前にして、何をすればいいのかを見失ってしまっていた。

 問いに答えず押し黙る俺に、少女は何も言わず背を向ける。

 その様子を見て、身体が震えた。

 何をしたいかはわからない。だが、無視をされるのは、少女に興味を失われるのは我慢がならない。元より、全ての発端はまさにその感情だったのだから。

「俺を連れていってほしい」

 口から出た言葉は、きっとそのままの意味で。

 利害も理屈も計算していない、ただ反射的に出ただけの言葉。だからこそ、それは俺の欲求を如実にあらわしているのだろう。

「……『Y』は、来るものを拒まない。私の傍におらずとも、ここを出て単身拠点に向かえば、快く受け入れてくれるだろう」

「そうじゃない。俺は、お前に付いていきたいんだよ」

 特定変異体集団『Y』。国内最大の変異体集団に、俺は露ほどの興味もない。俺の感情は目の前の名も知らぬ少女、ただ一人に対してのみ向けられたものだ。

「この私に一目惚れでもしたか?」

「そうかもしれない」

「下らないな。失せろ、邪魔だ」

 それなりに本気の俺の言葉を、少女は冗談として笑う事すらせず跳ね除ける。

「嫌だって言ったら?」

「私の機嫌を損ねるつもりか?」

「そうなってほしくはないけど、結果的にそうなるなら仕方ない」

「随分と舐めた口を……」

 言葉とは裏腹に、少女の声に怒りや殺意は感じられなかった。あるのは厄介事に対するような煩わしさ、それ以上でも以下でもない。

 遠く、警報が聞こえた。位置的にはほど近くにあるスピーカーからの警報も、続いた連絡事項も、しかし今の俺にとっては大した意味を持たない。

「……はぁ、始まってしまったか」

 警報の後に続いた伝達事項は、M.A事務区画への侵入者部隊の侵攻を伝えていた。おそらく目の前の少女は陽動、続いた部隊が本命という形のはずだが、少女はなぜかそれを聞いて溜息を吐いた。

「どうする? 向こうに合流するのか?」

「警告はしたぞ」

 状況の変化に対応を問うも、返答は腕の横薙ぎだった。俺の大股で三歩の距離、腕の長さの外の間合いから少女の振った左腕は、その最中で爆発的に肥大化。軌道上にあった壁を抵抗すら感じさせず貫き、彼女の身長を優に越える太さの質量が俺の右から襲ってくる。

 身体から逸らすのは不可能、後退しても攻撃圏からは逃れられない。屈んで上を通すにも跳び越えるにも、腕の体積が大きすぎる。

 よって、前に出る。横薙ぎの内側に入り込み、それでも身体に迫る根元の打撃を右手で受ける。打撃は形を変え、無数の棘を生やし更にこちらに迫り来るも、俺は棘が硬化する前の脆い瞬間を狙い、刃の右手で切り落としていく。

 更に棘が生えてくる前に、右手と腕が正面から激突。質量の違いすぎる二つの間には均衡すら生まれず、むしろ勢いを利用して俺自らが左前方へと飛ぶ。

 だが、少女にはまだ右腕が残っていた。

 突きというにはあまりに緩慢な、ただ前に差し出しただけの右腕。それが肉体変異により複数に分かれた杭、槍となり俺へ向けて殺到する。

 左腕を単なる巨大質量とするならば、右腕はそれを元にした膨大な手数。一段階工夫した難易度の高い攻勢だが、それは俺に対しては失策だった。

 扱える力の量に限りがある以上、俺に巨大質量は逸らせない。だが、手数であれば技量で逸らせる。それが俺の最大の長所だ。

 移動の勢いを反転、右に跳びながら身体は左に向ける。杭の第一波は半分ほどが左に抜けていくも、残りの半分だけで八本。回避しきれないそれらを、両手で捌く。

 左右に構えるのは短剣。左は順手、右は逆手。左方から迫る三本、ちょうど三角形に近い位置関係の杭の中心に短剣を刺し入れ、刃を這わせてその方向を逸らす。一本は左に、一本は上に、残り一本は脇の下を抜けさせる。

 残りの五本に向けるのは右腕、だが正面から迫るそれらを全て逸らしきるのは困難。よって身体の方を潜り込ませる。杭を二本、伸ばした右の短剣で大きく逸らし、そこに生まれた空間へと突進。杭が後を追ってくるよりも先に、その奥の少女の元まで辿り着く。

 あと一歩、踏み込めば手が届く。そこで、再び疑問。

 どうする? 

 今の状況、少女は明らかな敵対者だ。自分の命を繋ぐために取れる手段は、逃げるか、あるいは戦闘能力を奪うか。前者では本末転倒、だが後者は程度が問題だ。

 白髪の少女は変異体、少なくとも両腕、そして背中からの翼を爆発的に肥大化させ凶器と化す事ができる存在だ。俺がそんなモノと戦うのはこれがまだ二度目、どこまですれば少女を無力化できるのかがわからない。唯一確実なのは殺す事だが、それもおそらくは本末転倒に近い結果だろう。

「甘い」

 近接戦闘において、迷いは致命的な隙に直結する。

 自らの間合いに入ってなお、次に取る行動を選ばなかった俺へと、少女の胴から生えた棘が襲い来る。

 背面だけでなく正面まで。予想外だった肉体変異は、だが対応できる範囲だった。

 棘は細く、しかし密集して俺の前面を覆う。防御の通用する密度ではないが、範囲自体は狭い。よって取るべき行動は回避、左脚一本で全力で右に跳ぶ。棘の範囲を抜けて着地は右脚、少女の左側面へと一歩で迫る。

 だが――すでに俺と少女の間には翼が割り込んでいた。刃を幾重にも並べたような形状の翼、その薙ぎに踏み込む事はできず、寸前で床へ付いた左脚で急停止。少女の背後へと抜けて距離を取る。

「ははっ、ずるいなそれ」

 変異部位の大きさは、そのまま変異者の力に直結する。

 変異体である少女にとってもそれは同じ、というよりも少女はその理屈を象徴するような存在だった。

 少なくとも上半身のほとんどは変異部位、それも通常の変異者の変異能力を遥かに上回る自在な変形により、部位単体での面での攻勢を可能としている。加えて攻撃は同時に防御ともなり、少女に刃を突き立てる道を塞いでいた。

 俺も全身を変異させる事ができるとはいえ、同時に変異させられる体積はほんのわずか。単純に物量をぶつけ合う展開になれば勝ち目はない。

 だが、とりあえずまだ生きてはいた。

「なるほど……これでまだ生きているか」

 そこで、少女は始めて俺の事を『見た』。

「多少は興味を持ってもらえたか? それなら嬉しいんだけど」

「珍しくはある。しかし、それだけだな」

 もっとも、少女の感想はそんなものだった。

 少なくとも、俺の直接知る限りでは、先程の少女の攻勢を受けて生きていられるだろう存在は俺自身を除いて一人もいない。少女自身にとっても、『珍しい』と口にしたくらいにはそれは起こる可能性の低い事だったはずだ。

 だが、それだけ。

 その言葉の意味は、『それでも自分には敵わない』なのか、『強さになど興味はない』なのか、あるいは他の何かか。いずれにせよ、少女の声は言葉通り、俺に対して取り立てて言うほどの驚きも脅威も感じていないように聞こえた。

「それだけ、か。悲しいな」

「褒美が欲しいならくれてやる。お前には、生きてこの場を去る権利をやろう」

「へぇ……」

 殺す価値もない、と言われた気がした。

 おそらく、本意は違うだろう。少女はそもそも、俺に対してだけに限らず、殺す事に価値など感じてはいない。目的のため――それが何だかはわからないが、その障害になるものを無機的に排除しているだけに見える。

 今も、そしてあの時も。

「言っただろうが、俺はお前についていく」

 だが、理由などどうでもいい。

 俺はただ、少女に無視をされる事が、興味を持たれない事が我慢ならないだけだ。

「……気持ちが悪いな、お前は」

 だから、そんな感情ですら、向けられる事は一種の快感だった。

「わかった、お前はここで殺してやろう」

 殺意にも満たない作業、それでも、その間だけは少女は俺と向き合う事になる。

 殺し合いを通じて関心を引き同行を許可させるか、それともその前に殺されるか。半分以上が成り行きとは言え、今この瞬間に俺の行動方針は決まった。

 少女の間合いは俺のそれより遥かに広く、こちらの戦術としては距離を少しでも埋めるのが必然。しかし、殺し合いを長引かせるのが目的ならば話は変わってくる。内側に潜り込むより間合いの外で待ち、少女が伸ばしてきた攻撃を捌く方が遥かに容易だ。その構図であれば、無傷で保ち続けられる自信もある。

 だが、俺は距離を詰める。

 そうしなければ、きっと少女は俺への関心を完全に失ってしまう。惰性で続ける攻防により生まれる感情は良くて面倒まで、それでは俺は満足できない。

 少女の突き出したのは両腕、爆発的に肥大化したそれらは、一つの巨大な塊となり正面から迫ってくる。前面には無数の杭、だが塊に直結し固定されている以上、一つ一つを逸らすという手も取れない。

 巨大質量による圧殺、そしてその衝撃を流す事を拒む表面の凶器。先程の攻防での両腕の攻勢を一体化させただけの技は、しかしそれだけで、右腕と左腕、それぞれに対して取った俺の対応を封じていた。

 前進で詰めた距離が仇となり、左右への回避も間に合わない。単純な一手で簡単に追い詰められるほど、そもそも俺と少女の力には差があった。

 だが、まだ生きられる。

 突き出すのは右脚、それ一本で受ける。狙うのは杭の内の一本、そこに足裏を合わせようとして――

「悠っ!」

 聞き慣れた少女の声が響き、目の前で杭が止まる。止めていたのは背後から伸びた一対の翼、それが一瞬の内に全ての杭を両断していく。

「ほぅ……面白いな」

 俺の後ろ、翼の発生源であるM.A.R制服を身につけた銀髪の少女、枯木碧を細めた目で見つめ、眼前の白髪の少女は口元を小さく歪めていた。

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