3-4 逃亡
「よし、行くか」
七香の同行が決まったところで、やる事自体は変わらない。ただ、『壁』を越えてM.Aを出るだけだ。
『壁』の上の監視カメラは潰さず、ただ思いっきり走り、勢いのまま跳躍。伸ばした右手は問題なく『壁』の上辺へと掛かり、そこを支点に一気に身体を引き上げる。
「……げっ、まだあるのか」
『壁』の上からまず目に入ったのは、もう一枚の『壁』だった。二枚の『壁』の間は床一面に監視カメラの埋め込まれた狭く奇妙な空間で、七香の口にした詰所らしき小さな建物が視界の右端に見える。
「あの『壁』の向こうは?」
「……残念ながら、何も」
ほとんど遅れず俺の隣、『壁』の上に足を下ろした七香が首を振る。
「だよねー」
どうやら七香の知る『壁』の内側とはここまでらしい。つまり、向かいの『壁』の先がどうなっているのかについては未知数。ただ外に転げ落ちないための『壁』であればいいのだが、そうでない可能性も考えておくべきだろう。
「あの『壁』も越える。その後はその後で」
「了解です」
よって、向かうのは次の『壁』。元より確固たる目的地があるわけでもなく、ならばより情報を得られそうな方に進む。
『壁』と『壁』の間には、それほど距離はない。直線で走り続けるとすぐに向かいの『壁』に辿り着き、先程と同じ要領で上まで登ろうとして――上辺に生えていた乗り越え防止用の棘を変異させた右手で排除。再度、落ち着いて壁の上に身体を乗せる。
「……何もないな」
二枚目の『壁』の向こうは、先程よりも狭く向かいまで大股で五歩ほどの空間。床に監視カメラもなく、その先には『壁』に隔てられるでもなく空と地上の風景があった。
「うわ、怖っ……出来れば降りたくないですね」
「じゃあ、戻るか」
「賛成です。まぁ、多分こっちには何もないでしょう」
一見してたしかに落ちそうで怖い二枚目の『壁』の外は、だがその実、監視カメラも見当たらず脱出者にとっては安全とすら言える。そして、だからこそ罠だろう。このままただ外を通って降下艇に辿り着けると考えるのは甘すぎる。
「はーい、そこまで。死にたくなければ止まるように」
もっとも、当然引き返したところで安全には程遠いわけだが。
女の声が聞こえたのは『壁』の下から。視線を落とすと、詰所から現れた四人の職員が俺達を待ち構えていた。その内の一人、手を口元に添え拡声器代わりにした二つ結びの女性職員が声を掛けてきた張本人だろう。
四人で済むのは今だけ、おそらくすぐに増援が来る。逃げたところで隠れられる場所はなく状況が悪化するだけ、となれば次が来る前にここで減らしておくべきだろう。
「突っ込む。援護してくれ」
『壁』から地上に飛び降り、着地と同時に『壁』を蹴って職員達へと距離を詰める。真っ向からの突撃にも、職員達は慌てる事なく陣形を整える。
俺はそのまま、四方に開いた職員達の中に飛び込み、そして停止。俺の出方に合わせて対応しようとしていた職員達も釣られて止まり、そこに上方からの短剣の投擲が放たれる。
飛来する短剣は四本、『壁』に近い二人へと二本ずつが向かい、その内の三本は変異させた腕で弾かれ、躱されたものの、一本が男の胴に着弾。腹を貫き膝を折らせる。
そして、俺は投擲により生まれた隙を突く。狙うのは『壁』から遠い側、向かって左の男性職員へと、両手で抜いたサバイバルナイフを上下から突き出す。対する職員は後退、同時に右の職員が開いた俺の身体へと変異させた左腕を突き――空振り。上体を落として回避した俺は、右の職員の脇腹に肘を叩き込む。
呻く職員に追い打ちでナイフを投げ、首を貫通。背後から刃と化した回し蹴りが襲い来るも、左手のナイフで受けつつ距離を取って躱す。
「……まずいね、そんなに動けるか」
蹴りを放った二つ結びの女は距離を取りつつ、対話とも独り言とも取れる声を零した。
右脚、そして七香の投剣を防いだ右腕。二つ結びは四肢の内の少なくとも二つを変異部位とする優れた変異者、おそらく四人の内では最も上位の職員だろう。
「逃げるぞ」
やり合って勝てないとは思わないが、距離を取られたという事はつまり、女には積極的に俺達を仕留める気はない。相手の目的が時間稼ぎで増援を待つ事なら、それに付き合うよりは少しでも『壁』の中を動いて降下艇を探すべきだ。
あえて悠長に落ちた短剣を拾うも、二つ結びの女はその隙を狙って来ようともしない。誘いに乗って距離を詰めてくれば話は早かったが、どちらにしろ武器の補充は重要だ。M.A内の百貨店で買ったサバイバルナイフでは強度が心許なく、実際、先程の蹴りを受け流そうとしただけで刃が欠けてしまっていた。
「……逃げ切れますか?」
隣に並んだ七香と共に女とは逆方向に走るも、見えてくるのは次の詰所。職員との遭遇は避けられないだろう。
「無理。絶対にどこかで囲まれる」
「それで大丈夫なんですか?」
「少なくとも、俺は大丈夫なつもりだよ」
職員が何人揃おうと、同時に戦える人数には限りがある。だから俺にとって重要なのは数よりも質。俺を殺せる職員、あるいはそれに準ずる者が複数現れれば死ぬだろうが、そうでない限りは殺す数が増えるだけだ。
ただし、増えた数が襲いかかるのは俺に対してだけではない。七香の安否は七香自身の技量が決める事で、俺の知るところではない。
「なら、いいです」
あらかじめ釘を刺しておいた事もあってか、七香は意外にも冷静だった。
だが、俺の見立てでは、このまま進めば七香は無事では済まないだろう。
七香のいた対変異者集団『桐鴉』は、『宵月の民』とは違い、その戦術方針は一般的な対変異者集団のそれと変わりない。
つまり、暗殺、集団戦法や罠を主体とし、正面戦闘は専門外。先程は投剣術で俺の援護をしていたものの、真っ向から近接戦闘に持ち込まれれば、『桐鴉』の技のほとんどは意味を為さないだろう。
七香は変異者であるため、同じ変異者との戦闘も十分に可能だろうが、それは一対一ならの話だ。並の変異者より少し強い、くらいでは、M.Aの包囲は抜けられない。
「……止まれ。俺達を抜けたところで無駄だ」
だが、当然ながら七香を逃がす暇などなく、進行方向上の詰所から新たに四人の職員が姿を現した。制止の言葉を口にするのは長髪の男性職員、先程の四人隊の例に従えば、交渉役のそいつが四人の内では最も上位の職員という事になる。
「どうします?」
「殺せそうなら殺す。出来れば、長物を一本奪っておきたいな」
目の前に立ちはだかった四人は、先程の四人とは違い、最初からあからさまに殺すための武器を携えていた。特に長髪の男とその右の小柄な女性職員は、それぞれ曲剣と十字槍という大振りな獲物を構えており、装備が短剣しかない俺にとっては奪えれば使い道はある。
「……予定通りにやる」
足を緩めずまっすぐに突っ込んでいく俺に、職員の四人の内三人が前、槍の女が一歩下がって陣形を取る。前面の真中に立つ長髪の男まで更に接近、から曲剣の間合いの一歩手前で急停止して、横から振った両手の短剣を投げ放つ。的は正面、長髪の男は変異させた左腕でそれを払いながら、踏み込みと同時に右の曲剣を斜めに振り下ろす。
対する俺は踏み込みと同じ距離を下がって刃を回避。左右から飛び出してきた短剣を握った職員には、俺の背後からの七香の投剣が迎え撃つ。向かって右の職員は左後方への跳躍で回避するも、時間差で飛んできた短剣に右股を貫かれ、左の職員は右手の変異で投剣を弾き飛ばすも、その隙に俺の裏拳に顎を叩かれ地面へと崩れ落ちる。
左に寄った俺に、向かって来たのは十字槍の刺突。空中で拾っていた短剣を振って上方へと槍を流しつつ、膝を曲げ身体を落とし、倒れた職員の手から更に短剣を補充。斜め下から切り上げてくる曲剣に刃を合わせ、勢いを受けながら距離を取るように跳ぶ。
「一人……いや、二人か」
俺の一連の攻防の中で、七香は右に外れた職員を狩っていた。両手は徒手、しかし変異し血に濡れているため、投剣と徒手戦闘で職員を仕留めたのだろう。
「四人……いや、十二人だ」
俺の呟きに返すように言葉を吐くのは長髪の男。この場で二人を殺したものの、背後からは先程殺し損ねた二人に加えて四人の職員が背後から迫っており、更に正面ではこちらも奥から更に四人の職員がこちらへ向かってくるのが見える。
「どうかな、これで足りる?」
「……断言はできない。この様子だと、まだ小手調べだろう」
言葉を交わすのは前後、俺達と一合を交わした二つ結びの女と長髪の男。どちらも急いで距離を詰めるでもなく、他の職員を使いゆっくりと俺達への包囲を敷いていた。
「それなら、おとなしく通した方がいい。俺とやり合っても死人が増えるだけだから」
「言うねー。やっぱり面白いなぁ、雨宮くん」
挑発ついでの交渉に、背後から返されたのは俺の名を呼ぶ言葉だった。
「M.Aにとって最も重要なリソースは他でもない変異者、職員そのものだ。それを消耗するくらいなら、『壁』の中を動き回られるくらい無視した方がいい」
「あら、無視されちゃった」
この短時間で俺の名を知った方法に興味はあるが、相手の会話に付き合って時間を稼がれるのは望ましくない。あくまでこれは交渉、そして七香が隣に戻るまでの時間潰しだ。
「……追い詰められて、苦し紛れに詭弁を弄しているようにしか聞こえないな」
長髪の男の返答は嘲笑、だが半分以上は本音だろう。脅して引き下がらせるには、死者4人ではまだ被害が足りていない。
「なら、殺そう」
だから、もっと殺す。
目下の敵対者は12人、だが前後に分かれ挟撃にも距離がありすぎる事から、実質的には前後それぞれ6人ずつと戦う事になる。更に職員達は俺達を包囲すべく広めに距離を取っているため、一点を狙えば同時に手を出してこれるのは4人まで。そこまで減れば、おそらくそれほど労せず殺せる。
「……向かって右だ。抜けるふりして、止めに来たのを殺す」
「……はい」
声量を落として意思を疎通、間を置かずに床を蹴る。
向かうのは前方の右端、左右に長短二本の直剣を握る男性職員の更に右。そのまま進めば包囲の横を抜けられる位置だが、当然相手も動いて道を潰しに来る。
そして、響いたのはM.A内からの二度目の警報。
だが、無視。少しでも相手の注意が逸れてくれれば、その分だけやりやすくなる。
そして実際に、俺の進行方向へと回り込まない位置、左端から二番目の職員は警報に気を取られ視線を向けた。その隙を付いて短剣を投擲、同時に放られた七香の短剣と共に、胴体へと刃が縦並びに突き刺さる。
死体を横目で確認し、すぐに視線を正面に戻す。残り二歩で間合いに入るのは正面に一人、左右に一人ずつ。左と背後から更に迫って来てはいるが、初手には間に合わない。
狙ったのは正面、長剣一本を両手で握る女性職員。工夫なく真正面からただ距離を詰めていくと、長さで勝る獲物により右斜め上からの切り下ろしが放たれる。
両手持ち、その上右腕を変異させた事による高速の斬撃に、俺が合わせるのは左。短剣の刃を斜めに当てて、斬撃の軌道を右に逸らす。そこから一息つく間もなく、左からは槍の刺突。それを受けるのも短剣、穂先を刃から腹まで滑らせて後方に抜けさせる。
右の男には七香が接近、互いに二刀ずつ、短剣二本と長剣、短剣が切り結ぶ。だが、男の脛にはすでに短剣が一本刺さっており、動き自体も七香の方が優位に見える。
俺の標的は変わらず正面、足を削ぐように切り上げてくる剣を跳んで回避。変異させずに右手を突いて喉を抉る。左からの再度の槍は、先程と同じように短剣で逸らし、落ちた長剣を拾い上げる。右では七香が職員の心臓を貫き、殺していた。
「さて、これで――」
またも2人、いや、投擲で殺したのも含めれば3人を減らし、長物も手に入れた。追加で更に4人がこちらに来るのが見えているが、交換としては十分過ぎる。
「『職員、及び予備生各員に告ぐ。現在、M.A日本支部は地上へと降下中。墜落の可能性は少ないものの、着地時の衝撃に対し準備されたし。繰り返す――』
だが、警報に続いたスピーカーからの通知が、そもそもの状況を覆した。
「……よし、やめだ」
「ですね……」
M.Aのスピーカーからの通知、地上への降下の知らせは、あるいは俺達の気を引くための虚報かとも考えたが、それにしては大掛かりすぎる上、何より体感的にたしかに地面が『落ちて』いる。元より俺の目的は地上、『Y』の拠点に降りる事。降下艇を探すためにM.A職員を殺しながら探索を続けるより、M.A日本支部が地上に降りてから『壁』を越えてまっすぐ外に逃げる方が楽だ。
欲を言うなら、こうなる前に降下の通知が来ていればもっと楽だったのだが、流石にそれは俺にはどうしようもない。
「という事で、停戦しよう」
「どういう事? 雨宮くん達は、これまでの時間稼ぎだったって事?」
「いや、俺はそっちとは関係ない」
俺の提案に返したのは二つ結びの女、だがその予想は外れていた。
このタイミングでM.A日本支部が地上に降下するなら、それは自発的なものではなく不測の事態、警報に関連した問題だろう。飛行艇を破損させられたか、あるいは制御を乗っ取られたか。いずれにしろ、俺達とは動く時期が被っただけで直接の関係はない。
「ふーん……まぁ、いいや。そうだね、停戦しよっか」
「柊?」
「だって、降下準備もしないといけないし。こんなところでやり合ってる暇ないでしょ」
二つ結びの女、柊と呼ばれた彼女は俺の提案に頷く。
「……それはそうだが、内通者は消しておくべきでは?」
対して、長髪に曲剣を握る男は眉を潜めこちらを睨んだ。
「内通者じゃない、って本人は言ってるし」
「信じられるわけがないだろう」
「言葉はね。だけど、動き方を見てるとあながち嘘とも思えないんだよね」
俺達が内通者、おそらくM.Aを降下させた連中の仲間という意味だろうが、それでない以上、女の言葉は正しい。ただ注意を引くだけなら、『壁』を越えて大立ち回りを演じるよりもっと安全で効果的な手段がいくらでもあったはずだ。
「だとすれば、あいつらは何だっていうんだ?」
「それはほら、直接聞いてよ」
「……そうだな。潜入者、お前達の目的はなんだ? その答え次第では要求を飲んでやる」
「そっちの女は無条件で停戦を飲むつもりみたいだけど?」
「それは柊の決定だ。俺は違う」
個々に決定権のある立場という事か、長髪の男は柊と呼んだ女とは違い、無条件で停戦を受け入れるつもりはないらしい。もっとも、俺としても最初からただ要求が通るとは思っていなかったため、交渉の態度を見せてくれるだけでも期待以上ではある。
「俺の目的は単純だよ。『Y』に降りて、ある変異体を探す。それだけだ」
だから、正直に目的を伝える事にした。
「なら、その変異体とやらとは、どんな関係だ?」
「関係、か……強いて言うなら、被害者と加害者かな」
「具体的に言え」
「そいつは俺のいた『集団』の大半を殺した。俺はその生き残り、ってだけの話だよ」
そう、言葉にしてしまえば簡単、それだけの話だ。
二年前、『宵月の民』を壊滅させた『Y』の侵略部隊、その内の一人である変異体。そのただ一人だけが、俺がこのM.Aに足を踏み入れた唯一の目的だった。
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