2-7 恋愛感情

 変異能力訓練はM.A.Rの訓練の中では比較的負担の少ないものの一つであり、基本的には変異可能部位の肉体変異をただ反復的に繰り返すというものだ。

 肉体の形状、硬度を変化させ武器と化す肉体変異を行う事による肉体的疲労は少ない。繰り返せば痛みを生じる事もあるが、その原因は身体が変異に慣れていない事による拒絶反応が主な原因とされており、むしろその痛みは必然、変異能力訓練の意義としてはその段階を乗り越えるためという側面も強い。

「えっと……つまり、菱垣はまともに話もできないほど碧が好きだと」

 よって、ある程度以上に肉体変異に慣れている俺、そして菱垣は変異能力訓練の最中にも言葉を交わし合うだけの余裕があった。

「……まぁ、程度の問題なのかどうかはわからないけど」

 問いに返す菱垣の声は、か細く途切れそうなもので。強気な印象のあった菱垣だが、碧との対面以降は一転して俺に弱々しい態度を見せていた。

「それでよく、碧に賭けなんて吹っ掛けられたな」

「心の準備が必要なんだ。話す事を決めて構えておけば、なんとか話せるんだけど」

「そういうもんか。でも、その調子で同室になって大丈夫なのか?」

「それは……時間が経てば慣れるかと思って」

「へぇ……まぁ、それでいいなら」

 実際、人は大抵の環境には慣れるものだ。その過程では苦しむかもしれないが、それも覚悟の上なら菱垣の選択も一つの手だろう。

「と言うか、なんで僕はよりにもよって君にこんな話をしなくちゃいけないんだ」

「したくないならしなくても。そもそも、お前が話し始めたんだろ」

「それは……まぁ、そうだけど」

 俺が菱垣から碧についての相談を受けるなんて状況は、まぁ普通に考えて変だ。俺個人としては、割と面白い類の会話なので別に構わないのだが。

「ここまで聞いて、無条件で部屋を譲ってくれるつもりは?」

「ないな。俺にお前の恋路を応援する理由がないし」

「……だろうね」

 肩を落とす菱垣には、同情の余地はあるのだろう。

 そもそも、本来の部屋割り通りであれば、菱垣は碧と同室になる予定だったらしい。初回能力検査で菱垣は5位、性別で分ければ男では上位に1人、十二期生で2位の楠木雹(くすのきひょう)がいるものの、菱垣曰く楠木は寮とは別に部屋を借りてそこに住んでいるという。つまり、順当に行けば男性で2位の菱垣は繰り上げで能力検査1位の碧と同室に割り振られるはずだった事になる。

 もっとも、だからと言って俺は罪悪感も感じなければ配慮をしてやるつもりもない。様々な巡り合わせがあり、結果として菱垣は碧と同じ部屋になれなかったというだけの事だ。

「ちなみに、君と枯木碧の関係について聞いてもいいかな?」

「同室の友人。それ以外には、特に無いな」

「なら、君が枯木碧より強いというのは?」

 単純に俺と碧の間に恋愛的な関係があるのかを探りに来たのかと思ったが、菱垣の問いの本題はそこではなかったらしい。

「碧がそう言ってたのか?」

「直接ではないけど、そんなようなものだね。僕は、枯木碧に部屋割りは戦って強い者が決めるべきだと言った。それに対して枯木碧は、なら君と戦って勝つようにと言ったんだ」

 不明だった碧と菱垣のやり取りの一端が本人の口から明かされる。なるほど、たしかに挑発は碧を乗せるには適した方法の一つだろう。ただ、同時にまた疑問が生まれる。

「別に、それで俺が碧より強い事にはならないだろ」

「一応はね。ただ、枯木碧の言い方はそれだけじゃなかった。そもそも、僕は枯木碧自身に勝負を申し込んだつもりだったのに、彼女はわざわざ君を相手に指定したんだ」

 それは、俺も気になっていた部分だった。

 部屋交換が賭けの対象である以上、同室である俺が碧の代わりに戦う事自体はまだ許容できる。ただ、それは俺が碧よりも強い場合のみ有効な手段だ。

 だから、おそらく碧の目的は俺の力をたしかめる事。少なくともそれが目的の一つである事は確定した。

「一つ忠告しておくと、碧の口調は気にしない方がいい。あいつはいつも無意味に芝居がかった話し方をする」

 だが、俺の推測をわざわざ菱垣に伝える理由はない。この場は碧の妄言として片付けておくべきだろう。

「……たしかに、そんな気もしないでもないけど」

 どうやら菱垣は碧から俺について詳しく聞いたわけではないようで、忠告と誤解の解消を兼ねた言葉に曖昧に頷いた。

「なら、君は枯木碧の事をどう思ってる?」

 そこで会話が終わるかとも思われたが、多少の間を開けて更に菱垣は口を開いた。

「どうって?」

「だから、枯木碧に対して恋愛感情があるのか、とか……」

「恋愛感情、ねぇ」

 予想できていた問いのはずだったが、意外にもすぐには答えが出なかった。

 俺は碧をどう思っているのか――それ以前に、恋愛感情とはどのようなものなのか。その定義が自分の中で確立していない。

「どうだろうな。そこのところは、自分でもよくわからない」

「わからない、か。その程度なら譲ってほしいところだけど」

「そう思うならそっちの同居人をアピールすればいい。交渉ってのはそういうものだ」

「残念ながら、今の僕の同居人が枯木碧に勝っているところは見つからないね」

 随分と正直というか、あるいは余程碧の事が好きなのか。菱垣は俺に交渉を持ちかけるつもりはないらしい。

「とりあえず、君の変異能力は大体把握した。放課後、勝って枯木碧をもらうよ」

 会話は変異訓練の最中、当然ではあるが菱垣は俺の肉体変異の程度を目の当たりにしていた。そして、逆もまた然り。変異の速度や精度としては五分程度だろうが、互いの変異部位の体積は違い過ぎる。

「まぁ、お互いがんばろう」

 もっとも、それは前からわかっていた事で、結局のところ状況は何も変わらない。

「……君は、変な奴だね」

 俺の反応が気に入らなかったのか、そう言い捨てた菱垣がそれ以上俺に言葉をかける事はなかった。

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