1-13 壁


 M.A.Rに来てから最初の休日に、しかし俺には特にやるべき事は思い浮かばなかった。

 いや、やるべき事がないからこそ休日だと言うべきだろう。ただ自由にやりたい事をすればいい。となれば――

「碧、遊ぼう」

「…………」

 目下のところ最も親しい人間である同居人に話しかけるも、返事はなかった。いつもなら碧は俺よりも早く目覚めて支度を終えているのだが、今日に関しては布団に入ったままで安らかな寝顔を晒している。

「あーおー、あそぼー」

「……んぅ、なに、もう」

 仕方ないので近付いて耳元で声をかけるとようやく反応を見せるも、その反応も鈍い。

「あーーおーーー」

「やぁ、うるさいなぁ……まだねむいんだから――」

 めげずに声をかけること三度目で、やっと瞼を開いた碧の目が俺を捉え、一瞬の硬直の後に一気に見開かれた。

「――なっ、キミは、なんで――」

「なんでって、暇だし」

「そうじゃ――やっ、見るな! 忘れろ!」

「何を?」

「今見たボクの姿全てを!」

 問答もそこそこに、碧は布団を引っ被り隠れてしまう。

「……休日だからと油断していたよ。そうか、同部屋である以上、平日だけでなく休日でもこうなる可能性は常に想定しておくべきだった」

「あの、それで、結局遊んでくれる話は……」

「うわぁっ、異性の布団をめくろうとするな! それと、遊ぶのは無し! ボクが身だしなみを整えるまでは、出来れば部屋も出ていてくれ!」

「身だしなみって、格好は寝る前と同じだろ」

「そういう問題じゃない! いいから早く出て行け!」

 布団越しでも明らかな怒声に理屈が通じる様子はないため、指示に従い部屋を出る。出来れば碧と遊びたかったところだが、断られてしまっては仕方がない。

 一人で出来る娯楽と言えば読書がまず思い浮かぶが、あまり気分ではない。だとすれば、施設内の散策にでも時間を使うのがいいだろうか。これまでにもいくらかM.A内の散策はしたものの、まだ目を通していない場所はある。

 寮を出た足で、向かうのは学生都市区からやや外れた位置にあるM.A職員居住区、その中でも普段は学生には用事のない住宅街区域。その名の通り単なる住宅が大半を占める区域であり、俺も特別用事があるわけではないものの、だからこそまだ訪れた事のないその場所に一度足を運んでおきたかった。

「家、だな……」

 辿り着いたその場所に特に何かを感じる事もなく、ただ事実が口から垂れ流される。

 住宅街区域には、小奇麗な部位に入るだろう近代住宅が立ち並んでいた。一般的な都市部よりは高層建築が少なく一軒家の類が多いように思えるが、その事に対して特段の感慨を覚えるほど都市に興味があるわけでもない。

「――あれ、悠さん?」

 漫然と風景を眺めながら歩いていると、後ろから遠い声がした。

 振り向いて見ると、離れた位置にある住宅の半開きの扉に手をかけた少女の姿。白波七香は俺の姿を見つけると、小走りでこちらに駆け寄って来た。

「悠さん! どうしたんですか、こんなところで」

「それはこっちが聞きたい。誰の家で何を盗って来たんだ?」

「盗ってません! あれは私の家です!」

 冗談半分の問いに、七香は大真面目に返してくる。

「七香の家? 寮に住んでるんじゃないのか?」

「そうですね、知らない人と同じ部屋で暮らすのは抵抗があったので」

「へぇ、金持ちなんだな」

「金持ちというよりは……いえ、まぁ、いいです」

「途中でやめるな。気になる」

「枯木さんと同じ屋根の下で楽しくやっている人には関係ない話ですから」

 濁した七香の言葉を詰めにいくも、どうやら答えてくれるつもりはないらしい。何にしても、七香が寮ではなく住宅街区域に家を借りて住んでいるというのは初耳だった。

「それで、悠さんはどうしてここに? 私を訪ねて、ではないですよね」

「ただの散歩だよ。こっちには来た事がなかったから」

「散歩ですか。そちら側は家とコンビニがほとんどで、あまり歩いて楽しいところではないと思いますけど」

「知ってる」

「知ってるって……」

「見た事ない場所を歩くのが好きなんだよ。悪いか」

「なんでケンカ腰なんですか。そういう事なら、私もご一緒しますよ」

 何気ない会話の最中、隣に並んだ七香は、そのまま俺に歩調を合わせる。

「どこかに行こうとしてたんじゃないのか?」

「私の方も散歩みたいなものです。特に用事があったわけではないので」

「こっち側は散歩してもつまらないって言ってたような」

「なんですか? 私とは一緒に歩きたくないとでも?」

「そんな事は言ってないけど」

 どうやら七香は俺についてくるつもりのようで、俺としては別にそれを拒む理由もないため好きにさせておく。

「そう言えば、随分個性的な服を着てますね」

「個性的なのか? 碧が選んだから、俺には何とも」

 服について問われたため、腕を広げ、余計な布地を弄んでみる。

 今のところ、俺の持っている外出用の私服は碧に買ってもらったこれ一着だ。それ以外のスウェットは全て外出時の着用を禁じられたため、碧に従うのであれば出かける際の服装はこれか制服かの二択になる。

 ちなみに、七香の服装は私服ではなくM.A.Rの制服だった。

「なるほど、枯木さんの趣味ですか。それで、言われるがままにそれを着てると」

「まぁ、他の服は着るなって言われたから」

「す、すごい独占欲ですね……」

 七香は何か勘違いしている気もするが、誤解の正体が掴めないため放置。

「もしかしてですけど、『壁』に向かってます?」

 なおも歩き続けていると、やがて七香はそんな問いを口にした。

「一応、『壁』までは歩くつもりではある」

 七香の言う『壁』とは、M.Aの外周を取り囲む文字通りの壁の事だ。

 M.Aが巨大飛行艇の上に造られた浮遊都市である以上、その外に一歩でも出ればそのまま地上に真っ逆さまに落下する事になる。その危険を防ぐために造られたのが『壁』、正確には一枚の壁の向こう側に更に空間があるらしいが、役割としては屋上にある落下防止用の柵のようなものだ。

「七香は『壁』を見た事あるか?」

「ここに入る前、外から少しだけ。中からはまだ見た事はないですね」

 俺のM.Aへの入学時は外から専用の小型機に乗せられ、M.A.R内まで運び込まれる事になっていた。七香も同じで、『壁』を通って中に入ったわけではないらしい。

「悠さんはあるんですよね? どうでしたか?」

「期待させないために言っておくと、想像以上にしょぼい」

「それなのに見に行くんですか?」

「中を一通り見ておきたいからな。『壁』は単にその端で視界に入るってだけだ」

 話しながら歩いている間も、『壁』は中々視界に入っては来ない。

 更に歩いてM.A敷地の終着点、方角的には西南辺りの端まで辿り着いてようやく、『壁』の姿が目で捉えられた。

「あれが、『壁』ですか?」

「な、しょぼいだろ?」

「まぁ、そうですね。たしかに、見て面白いものではないかもしれません」

 俺達の視線の先、敷地を区切る『壁』は、高さにして人の背丈よりやや高い程度だ。それ単体なら乗り越える事も然程難しくはなく、威圧感や壮大な印象はない。

「ですが、『壁』の外では厳重な監視体制が取られているとも聞いています。あの壁はあくまで目印のようなものだと考えるべきでしょう」

「それにしても、もう少し何というか飾り気というかあってもいいよね」

「……それはまぁ、同意しないでもないですけど」

 素直な感想を口にすると、七香も中途半端ながらそれに頷いた。

「よし、じゃあ戻るか」

「いいんですか? もっと『壁』を見ていかなくても」

 周囲の風景を一通り見渡したところで踵を返すも、一歩を踏み出す前に止められる。

「もっとって言われても、あんなの見てもつまんないし」

「それはそうですけど、『壁』に用事があったのでは?」

「用事って?」

「それは……いえ、無いならいいんですけど」

 煮え切らない七香を待たず歩き始めると、慌てて隣に並んで来る。実際のところ、今は『壁』になど用事はない。

「七香はこの後もまだ暇か?」

 この住宅街区域を最後に、俺のM.Aの敷地内の散策は一通り終わっていた。後の時間の使い方として、数少ない知人である七香と過ごす選択肢は有力だ。

「そうですね、食事を奢らなくていいなら付き合いますよ」

「じゃあいい」

「本当に奢らせるつもりだったんですか!?」

「七香が奢らないというのは冗談として、暇だし良ければ遊ばないか?」

「人の言葉を勝手に冗談にしないでください! 遊ぶのはいいですけど――」

 会話が途切れる感覚に、一種の既視感を覚える。

 そしてそれは、既視感ではなく既視だった。

 立ち並ぶ住宅の一角、一軒家を囲う塀の影から現れたのは、山高帽を目深に被った男。その姿への印象は、駆け足で迫ってくる襲撃者という事実に塗り替えられる。

 碧と歩いていた時に続き、二度目の襲撃。おそらく襲撃訓練だろう、予備生全員が対象だというそれが同時期に行われるとすれば、連日の発生はむしろ当然だ。場所も俺達が二人組である事を除けば、他に学生はおらず情報の隠蔽の面でも都合はいい。

 だが、あえてそれが訓練である可能性は頭から捨てる。元よりそうすべき訓練であるからではなく、それが本当の襲撃であった場合に取り返しが付かないから。

「――――」

 迫り来る影に、七香は声をあげはしなかった。

 代わりに取った行動は回避。男の進行方向から一足で飛び退くも、襲撃者の矛先は変わらない。つまり、狙いは俺だ。

 七香と同じく俺も足を使い進路から外れようとするも、男は今度はそれを追って距離を詰めてくる。だが、その速度は碧への襲撃者と比べれば圧倒的に劣っていた。

 だから、そのまま走る。何も戦うだけが対処ではない、むしろ戦わずに済むのであればその方が安全で確実だ。そして、どうやら俺の走力は追ってくる男よりも優っていた。となれば、後は気を付けるべきは――

「……っと」

 飛来する黒の短剣を視界の端に捉え、その顛末を見届けた事で足を止める。

「終わりましたよ、悠さん」

 短剣を放ったのは七香、その標的は襲撃者の男だった。両足の腱を切り裂いた短剣は男の身体を地面に倒し、起き上がる事の出来ない男へ向けて七香は更に短剣を構えていた。

「ご苦労、七香」

「一目散に逃げておいて、何で偉そうなんですか」

「そういうノリかと思って」

「まぁ、それは否定しませんけど」

 軽口を叩きながら、七香は身動きの取れなくなった襲撃者へと一歩ずつ距離を詰めていく。その態度には油断や危機感の欠如というよりは、荒事への慣れのようなものが感じられた。そして、それは勘違いではないだろう。

 単に装備一つ取っても、七香は何ら変哲のない日常生活の中ですぐに取り出し使える短剣を最低でも四本は常備していた。碧のようなただの予備生とは違い、七香はこのM.A.Rに来る前から訓練、あるいは実戦の経験がある。

「目的と所属は? 二秒以内に答えろ」

 短い問いも、明らかに素人のそれではない。

「M.A所属、六等職員。目的は模擬襲撃訓練」

「身分を示すものは?」

「上着の内ポケットの中に」

「悠さん、確認頼めますか?」

 男の首元と背に刃を寄せながら、七香が指示を出す。俺としても拒む理由はないため、上着の中を探る事にする。

「あった。職員証と職員支給の携帯端末だ」

「なるほど、たしかに本物みたいですね」

 取り出したそれらを一瞥した七香は、頷くも短剣を仕舞う様子は見せない。

「余計な事をしましたかね。どうもこれは悠さんの訓練だったみたいですし」

「……たしかに、今回は雨宮悠が対象の訓練だったが、対応については把握できた。あのまま逃走されれば、おそらく私は追いつけなかったはずだ。その点、対応として問題はない。問題があるとすれば――いや、それは今後の訓練で語るべき事だろう」

「それはどうも」

 どうやら、今回の訓練で俺へのお咎めは無しという事らしい。襲撃者の足が俺よりも早いか遠距離攻撃手段を持っていた、あるいは相手が複数であれば結果は違ったかもしれないが、それについては今後適した襲撃者役を用意し、その時にたしかめでもするのだろう。

「そちらの少女も、対応としては間違っていない。訓練だと知らない以上、本気で対処するのはむしろ推奨されるべき事だ」

「ええ、そうですね。それで、もう行ってもいいですか?」

「構わない。ただ、その前に職員を呼んでくれると助かる」

「もう呼びましたよ。じゃあ、それでは」

 訓練とわかった襲撃者役に興味はないのか、七香は短剣を回収すると足早にその場を後にする。残されても困るので、俺もその後を追う事にした。

「私が仕留めなかったら、どうしてましたか?」

 男から離れてしばらく、七香が口にしたのはそんな問いだった。

「どうもこうも、逃げ続ける以外にある?」

「悠さんは逃げたのではなく、私を彼の視界から外したんじゃないですか?」

「そうか、お前もそっち側だったか」

「? そっち側とは?」

「碧と同じで、俺を買い被る側だよ」

 そもそも、思い返してみれば出会いからして七香はそっち側だったが、碧だけでなく七香にまで買い被られるのは流石にしんどい。

「……っていうか、もしかして、今のところ俺の知り合いってそっち側しかいない?」

 嫌な事に気付きかけた頭を振って、物理的に思考を振り払う。手遅れな感じもひしひしとするが、こういうのは気持ちの問題だ。

「そもそも、視界から外してどうするんだ。俺は七香があんな物騒なものを常備してるなんてさっきまで知らなかったし」

「知らなくっても、普通は短剣くらい持ってるでしょう」

「どこの普通?」

 俺も常識のある方ではないはずだが、この場合は七香の方が普通よりずれているはずだ。

「じゃあ、悠さんは持ってないんですか? そんなに隠し場所が多そうな服を着て?」

「服は碧の趣味だ。見た目ほど隠すような場所はないし、もちろん凶器は持ってない」

「チェックしても?」

「やだ、恥ずかしい」

「……無理にとは言いませんけど、その理由はどうなんですか」

 七香は怪訝そうな目を向けてくるが、本音なのだから仕方がない。

「まぁ、あれの対処について深く追求するつもりはないです。ただ逃げるだけでも選択肢としては無しではないですし」

「含みのある言い方だな」

「そう聞こえたなら、そう思ってください」

 七香はあえて口にはしないが、当然ながら逃走は最適の選択肢ではない。可能であれば敵対者はその場で処理する方が良いに決まっている。七香が俺を買い被っている以上、願わくばそうするところを見たかったのだろう。

「それより、私はどうでした?」

 もっとも、今の七香の関心事は他にあるようで、そんな問いを繰り出してくる。

「怖かった」

「そうじゃなくて! ……悠さん、もしかしてですけど、私と会話する気無いですか?」

「そんな事はない。俺は出来る限り会話を楽しもうとしてる」

「それならいいんですけど、あんまり良くないです」

「どっち?」

「できればもっと真面目にしてください!」

 七香の叫びには、あえて答えない事にする。『できれば』と口にした以上、答えが否である事は七香もわかっているはずだ。

「私の投擲についてです。悠さんにはどう見えましたか?」

 そして、続いた問いにも俺からまともな答えを返してやる事はできない。

「すごかった」

「そんな、小さい子供じゃないんですから」

「あえて難解な言葉を使って表現を試みる事も可能ではあるが、それは本質から遠ざかり無為な思考を強いる事にしかならないぞ。そもそも、言語というのは――」

「ああ、もういいです! もうわかりましたから!」

 わかりやすく実例を出してやると、七香は納得したのか面倒になったのか大きく頷いた。

「……でも、出来れば本当に、正直な感想を聞かせてもらえませんか? 悠さんの冗談は嫌いではないですけど、せめて意見だけでも聞きたいんです」

 少しの間を空け、七香の口にした言葉は、俺には真摯な響きを帯びて聞こえた。

 白波七香は、俺に特別な感情を抱いている。

 それはまず誤解に違いないものではあるものの、だからと言って七香の感情自体が変わるわけではない。そして今、七香の中のその感情が俺に自身の技への評価を求める事に繋がっているのだろう。

「別に馬鹿にしてるわけじゃない。すごかった、が俺の正直な感想だよ」

 だが、だからと言って俺の答えが変わるわけでもなかった。

「そうですか……そう、ですか」

 繰り返した答えに七香が何を思ったかはわからない。身体ごと顔を背けてしまった七香の表情を読み取る事はできず、そもそもそこに然程の興味もない。

「わかりました、ありがとうございます」

 ただ、戻ってきた七香の表情は普段と同じ穏やかな笑みだった。

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