1-6 変異訓練

 M.A.Rにおける一日の日程は、いわゆる学校機関の一日と大差ない。週に5日の平日には時間割通りに行動しその後は基本的に自由行動、残りの2日の休日は終日に渡り基本的に自由行動。違いをあげるとすれば、時間割の内容くらいだろうか。

「おぉ……すごいもんだな」

 全体でも最初の訓練、変異能力制御の初回訓練はいきなりの実技だった。

 変異者の人間との最大の差異、肉体変異能力は、しかし完全に制御する事は困難を極めるとされる。人間の身体ではあり得ない挙動を実現する肉体変異に対応する領域は、本来人間の脳には存在しない。その不自然で異常な動きを少しでも自然で正常な肉体の動きと同等に扱うための訓練こそが、変異能力制御訓練というわけだ。

 実際、M.A.R十二期生を7つに分けた内の一つ、このⅩⅡ-Ⅳ予備隊の中でも、多くの予備生は自らの肉体の変異を制御しきれていなかった。腕を巨大化させるも形を崩し自壊させる者、変形させた足の形が戻らなくなる者、単純に肉体に思い通りの変化をさせられない者、と失敗の形は様々だ。

 もっとも、例外は存在する。肉体変異を行う事に慣れている者、あるいは最初から才能のある者は、自身の思い通りに身体の部位を変化させていく。

 更に、その中でも特に優れた変異者が二人。一人は両脚の変形、肥大を自在に操って奥の壁や天井を足場にしながら跳ね回るほどの実践的活用をすでに身に付けており、もう一人は肩から両手の先端までに無数の棘を生やすほど繊細な変異を試行していた。

「……………………」

 両腕の変異の披露を終えた碧は、一直線にこちらへと歩み寄って来る。あれほど細かい変異を行ったにもかかわらず、碧の両腕の表面はすでに染み一つない白く綺麗な肌へと戻っていた。

 変異者のほとんどは、自身の身体の中で変異させられる部位が限られている。それは両脚であったり両腕であったり、あるいは片腕や片手であったりと部位の大きさからして個人差がある。当然、より身体の大部分を変異させられる変異者の方が優れているのは間違いないが、その反面、多くの部位を変異させるのはより難易度が高い。

 変異者の人間との最大の違い、肉体変異は肉体を変形、硬化する事により生身を武器と化す能力だが、特にその変形は意外と面倒だ。身体を望み通りの形に成形するには、まずその前に一度硬化とは逆、肉体を軟化させる事により原型を崩す必要がある。

 軟化し形を失った肉体は、変形した後に硬化を行う事でその形状を保つわけだが、そこまでの行程で本来は人体にあり得ない挙動を短期間で複数に処理する必要がある事から、肉体の変形は脳にかなりの負荷が掛かる。慣れるにつれ、徐々にスムーズに変形を行う事はできるようになるが、それでも複雑な形状、特に離れた複数箇所を同時に変異させるような真似は、優秀な変異者でもかなり難易度が高いとされている。

 碧の行った両腕の変異は、単純に体積で言えば変異者の中でも相当上位。更に、腕全体に棘を生やすような緻密な変形を可能とする肉体変異を併せ持つとなれば、碧の変異能力はたしかに十二期生主席の肩書に見劣りしないものだった。

「……………………」

 その碧が、俺の元へと向かってくる。

「……………………っ」

 無言で歩み寄る碧と、同じく無言で距離を取る俺。静かな逃走劇は、俺の爪先が訓練室の壁に触れた瞬間に終止符が打たれた。

「な、ぜ、逃げる?」

 片手を壁に突き、俺の逃げ道を塞いだ上で、碧は俺の目を見据えて睨む。

「逆に聞こう、睨みながら自分の方に寄ってくる奴がいたらお前はどうする?」

「別に、どうもしないよ。それでボクに火の粉が降り掛かりそうになったら、その時に振り払うだけだ」

 いかにも何かを気取ったような台詞だが、おそらく碧にはその言葉を実現するだけの力がある。もちろん、だからと言って聞いていて恥ずかしくないわけではない。

「じゃあ、振り払っていい?」

 ついでに言えば、至近距離で碧と見つめ合う事も恥ずかしくないわけではない。視線を逸らしても少女の顔はすぐに追って来て、薄い色素の瞳から逃れる事はできない。壁際から離れるため頭の横の腕を払いたいところだが、予想以上に強く固定されていて剥がすのも一苦労だ。

「わかっているだろうけど、ボクに害意はないよ。ただ、キミと話がしたいだけだ」

「いや、じゃあ、せめて手を。この距離、話っていうか脅迫の近さだから」

「これは配慮だよ。これからの話を聞かれたくないだろうキミへの、ね」

 その言葉で、推測でしかなかった碧の話とやらの内容が確信できた。

「しつこく聞こえるだろうが、キミが答えるまでボクは諦めるつもりはない。キミはどうしてそこまで力を隠したがる?」

「……お前は、俺がどう答えれば満足なんだ? 潜入任務中だから目立ちたくない、いつ暴走するかわからないから全力を出せない、実はM.A.Rの教官で予備生に紛れて実力を測ってる。どれでも好きなのを選んでくれ」

 もっとも、誰が納得しようがしまいが俺の答えは変わらない。

「戯言に付き合うつもりはない。欲しいのは答えだけだ」

「答えは前にやっただろ。それでダメなら俺からはもう何も出ない」

「キミの肉体変異、右手のそれには違和感がある。何かを隠しているとしか思えない」

 俺が碧の実技演習を眺めていたように、碧も俺の肉体変異を目の当たりにしていた。

「違和感なんて当たり前だろ。俺も、多分お前も、ここにいる誰も完全に変異を制御できるわけじゃない。お前に出来る事で俺が出来ない事はあるし、逆も探せばあるはずだ」

 両腕を肩まで覆う碧のそれとは違い、俺の変異可能領域は右手の指先から手首、そして二の腕の三分の一ほどまで程度のわずかな体積に限られている。部位から変異規模、そして練度までが個々に違う変異者が、互いに違和感を覚えるのは必然だ。

「……まだ、認める気はないみたいだね」

「認める事自体がないからな」

「あるいは、そうなのかもしれないね。ただ、とりあえず今は、まだ結論を出すのは先送りにしておいてあげよう」

 何やら満足したように頷くと、碧は踵を返し去っていった。

 正直、あいつは俺を自分が特別な環境にあると感じるための装置として扱っているような気もする。夢を見るのは勝手だが、俺を巻き込まないでやってほしい。

「ねぇ」

 壁に背を預けたままで他の予備生達の様子を眺めていると、横から声を掛けられた。

「ん? 俺……っ」

 掌底。

 そう呼ぶのが相応しい勢いの手の平が、俺の頭の横の壁に激突した。同時に覆い被さるように寄ってきた影からは、すんでのところで離脱。そのまま壁に左手を突いた体勢の男から距離を取る。

「そう構えなくてもいいよ。僕は君と話がしたいだけだ、雨宮悠くん」

 威圧的な初動とは裏腹に、そいつは笑顔すら浮かべながらどこかで聞いた台詞を吐いた。

 幼気ながら整った顔には、見覚えこそあるが交友を持った記憶はない。その少年は、先程の実技で碧に並んで図抜けた肉体変異を披露していた予備生だった。変異部位である脚でなく手を突き付けて来た以上、たしかに本格的な攻撃の意思はないのだろう。

「何なの? 壁に相手を押し付けて話すの流行ってるの? 男女ならともかく、男同士でやるのは流石に趣味悪いと思うんだけど」

 碧とでは気恥ずかしさが強かった至近距離での会話だが、男相手では気色の悪さが勝って尚更やってられない。目の前の男が幼気な美少年であったところで、それは多少軽減されはしても消えはしない。だから、壁から逃れられたのは幸運だった。

「まぁ、趣味は良くないだろうね。なにせ、男が男を壁に押し付けて話す内容は脅迫と相場が決まっている」

「金なら持ってないし、身体を差し出す気もない。他を当たってくれ」

「心配しなくても、お金は足りてるよ。それに、僕はこう見えて滅茶苦茶に女好きだ。逆に男は嫌いで、触れるだけで鳥肌が立つ」

「いや、それはどうでもいい」

 にこやかな笑顔で性的嗜好をアピールされても、生物学的にオスである俺にはどうしようもない。俺に性転換を強いている可能性もあるが、それは単純に嫌だ。

「で? 結局何の脅迫だ? 聞くだけ聞いてやるよ、ほら言え」

「もう脅迫される側の態度じゃないね。まぁ、相談で通じるならそれでも構わないけど」

 笑顔のままで小さく息を吐き、少年は話を続ける。

「単刀直入に言おうか。寮の部屋を代わってほしい」

「寮の部屋? ああ、なるほど」

 俺の知る限り、M.A.R予備生に割り当てられた部屋の設備は一律で同じだ。日当たりや部屋の位置等の差異はあれど、それらがそこまで重要なものとも思えない。

「お前、碧が好きなの?」

「……え?」

「あれ、違うのか?」

 予備生の各部屋間の最大の差異は、俺の考えでは即ち同居人に他ならない。あえて俺に話を持ってきた事からも、俺と同室である碧が目当てなのかと思ったのだが。

「ま、まぁ……そういう事になるかもしれないけど。ずいぶん直球だね」

「回りくどく聞いても仕方ないし」

 どうやら俺の予想は当たっていたようで、軽く動揺しながらも少年は続ける。

「とりあえず、そういうわけで、君には僕と部屋を代わってもらうよ」

「嫌だと言ったら?」

「その場合は、相談から脅迫に切り替える事になる。それは互いに嫌だよね?」

「多分、世間ではそれをまさに脅迫と言うんだと思う」

「はははっ、そうかもね」

 冗談のように笑いながらも、少年は要求を撤回はしない。

 さて、どうしたものか。

「とりあえず、碧を呼ばないか? どうせ、あいつが拒否したら話はそこまでだ」

 二人一部屋での生活をしている以上、俺の一存で部屋を交換するわけにもいかない。相手方のパートナーには話が付いているとしても、こちらは碧に話を通すのが先決だ。

「……それは駄目だ」

「駄目って、それじゃあ話にならない」

「駄目なものは駄目なんだ。……仕方ない、この話はまた後で」

 歯切れの悪い言葉とほぼ同時に、教官が予備生全員に集合の指示を出した。全員分の実技披露が終了したのだろう、どちらにしろ話はここで時間切れだった。

「とにかく、考えておいてほしいな。それと、この話は枯木碧には内緒にしておいて」

「ああ。そう言えば、お前、名前は?」

「……菱垣昂輝(ひしがきこうき)。もし呼ぶ時は、名字の菱垣で頼むよ」

 自己紹介だけはなぜか笑顔を引っ込めて済ませると、少年は早足で教官の元に向かっていった。

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