第二幕 学生✕社会人

■いい人という表現が美徳なわけではない


 やりたいこともなく、就活もやる気なかった先輩は、なんだかんだ言いつつも就職をした。

 アルバイト最終日、恩を返すように英玲那が選んだ服を着て来て、生徒たちから手紙やプレゼントをたくさん受け取っていた。

「人間として結構クズなのに、何でそんなに人気あるんですか?」

「何で最後なのに、そんな辛辣なこと言うんですか」

(いい人であるのは確かだからかな。根本腐ってる気がするけどなー)

「失礼なこと考えてない? ……まぁ、これで英玲那先生ともお別れだね」

「ぜんっぜん悲しくなさそう!」

「死別でもなければ、私が遠くに行くわけじゃないし。もしかして英玲那先生寂しいの?」

「まったく寂しくないですね」

「ならいいじゃん」

「共感性を身に着けないと会社でいじめられますよ」

「そしたら辞めるからいいよ」

「またそんなこと言って。ここはちゃんと続けられたじゃないですか」

「だってそれは皆いい人だったから」



□余裕の価値観は置かれた環境で変異する


 どうにかして新卒採用を経て、社会人とならなければならない雰囲気に圧されて就職した会社は不動産業界。もちろん史世の性格では営業なんてこなせないので、事務系の仕事だ。理系の大学にいて、教育を学んで、大人になってみたらこれだ。こんな未来を描いたことなんて一度もないのに。

 毎朝同じ時間に起きて、満員電車に乗って、いつも違う時間に帰る。早起きは学生の頃、毎日のようにしていた。アルバイトだって、暇を見てやっていた。

(きっつ)

 それでも社会人はきつい。

(定年までやったらあと四十年近くとか無理だわ)

 帰りの電車で憂鬱な未来を描いていると、もう遠い過去の景色の一部になった後輩からのメッセージが届く。

『まだちゃんと社会人やれてますか? 社会人なら学生に夕飯奢ってください』

(どうしようかな)

 悩んだのは金銭面ではない。

 疲れた生活の中で、学生の相手をする優先順位があまり高くなかっただけだ。

『金曜日の夜なら』

 与えた選択肢はこれだけ。出かけている状態かつ次の日が休みという好条件。

『何時に仕事終わるか分からないけど』

 ここまで我儘を言えば嫌がるかなと思ったが、学生は想像より余裕があるみたいだった。


「うわ、あやせんせがちゃんと社会人ぽい格好してる。うける」

「社会人だし。それにもう先生じゃないし」

「それなら何て呼んでほしいですか?」

「渡来さん」

「それじゃ佳弥乃と同じだからダメです」

 三年間、ほぼ毎週会っていた英玲那とも会わなくなってしばらく。あんなに会ってても一度離れてしまえば、思い出。

「社会人どうですか?」

「辞めたい」

「早い〜」

「辞めないけど、まだ」

「……もしかしてストーカー女とは別れました?」

「何で分かったんですか」

(ストーカーかな、この子)

「付き合ってたら会社辞めたくなったら辞めてるかなって」

 あながち的外れでもない答えに言い返せない。

「でも別れられてよかったですね! おめでとうございます!」

 二度目の乾杯。

「お祝いですね、お肉食べましょう」

(私の奢りなのに)

「えーと、あやせんせが食べられるもの……」

 気遣いのできる万人に好かれるタイプは変わってない。

「なかなか別れないかなって思ってたんですけど、どんな心境の変化です? 振られたわけじゃないですよね」

「私も社会人になったら、相手が年上でも大人に見えなかったからですかね」

「……つまり年齢関係ないと。それならわたしと、」

「年下は無理」

「まだ何も言ってないのに!」

「学生とはない。絶対に」

「まーたそうゆうこと言う」

 運ばれてきた肉には目をくれず、英玲那は綺麗に整えられた爪でグラスの縁を叩く。

「英玲那先生の方はどうなんですか? 出会い系やめました?」

「やめてます! でもこのままあやせんせに放ったらかしにされたら戻るかも」

「そっか。自分の身は自分で守ってくださいね。この生ハム美味しい」

「冷たい!」

「温かいもの頼みますか」

「ぶっかけますよ」


 お互いお酒にそこまで抗体がないので、暑さを慰めるくらいだけ飲んで、お腹がいっぱいになったら帰路につく流れとなった。なによりも仕事終わりのため時間は遅めだ。

「佳弥乃から聞いたんですけど、あやせんせ実家出たんですよね」

 それでも史世は学生時代から変わらない電車に乗る。

「どうせ出るなら近場にする意味あります?」

「だって東京の家賃高いから……」

「出なきゃいいのに」

(実家じゃ人も呼べないからなぁ)

「ねぇ、あやせんせ。遊びに行ってもいいですか?」

「え、やだ」

「本当意味分からない……わたしが可愛い後輩が言ってるのに……」

「じゃ、私次の駅だから」

「本当にだめなんですか!」

「学生なんだからちゃんと帰りなさい」

(早くゆっくりしたい)

「それじゃおやすみ。気をつけて」

 ここで電車を降りてついてこないところが、彼女とご飯に行ける距離感なのだ。



■場違いと感じる懐かしい景色


 来てくれないと思っていたが、佳弥乃を含めアルバイト仲間を巻き込んだら上手い具合に史世も顔を見せに来た。

 今日から三日間、英玲那の大学では学園祭が行われる。最後の学園祭を見てもらいたかったし、実行委員会として集客もしたかった。

「あやちゃん、トイレ行ってくるから荷物持ってて」

 佳弥乃は史世のことをお姉ちゃんとは呼ばない。仲が良くないと言いつつも、あやちゃん・かやちゃん呼び。

「あやせんせ、もう先生じゃないならあやちゃんって呼ぶのは」

「なしですね」

 仲良くない妹はいいのに、なぜなのか。

「……あやせんせのままにしておきます」

(じゃないと名字呼びにされる)

 妹はの荷物を弄びながら、吹き抜けから下フロアの群衆を眺める姉はどうもつまらなそうだ。

「文化祭とか最後は高校生だったなぁ……」

「大学の行ってなかったですもんね」

「ゲームしてた方が楽しかったですから。あとこんなに盛り上がる学校じゃなかったから」

 社会人になって、この光景が懐かしく映るのだろうか。

 英玲那は青春を精一杯楽しんでいるつもりだ。それでも今の光景をいつか懐かしむのだろうか。

「学生に戻りたいですか?」

「えぇ……うーん……。働かなくていいのは惹かれるけど、社会人がいい、かな」

 仕事帰りではない史世の格好は去年と大して変わらないのに、違う世界の住人のように感じ、今では手を触れることもできないようにさえ思える。

「わたしそろそろ時間なので戻りますね」

「なら帰ります」

「ちょ、もっと見てってくださいよ」

「もう私先生じゃないからさ。いいんですよ、こうゆうとこ」

「先生とか関係ないから」

「……でも、大人になっちゃったんだなって思うの。なんかさ、分かんないですよね」

 大人ぶる一つだけ年上の人間は、妹に荷物を返し、疲れたから帰ると言う。

「帰るの? 早くない?」

「十分見た見た」

 妹の言葉も聞き入れず、別行動している塾長たちに挨拶することもなく、史世は人混みの外へ逃げて行ってしまった。



□体裁を取り繕わなくていい環境はほとんどない


「渡来さん」

 下の名前で呼ばれることも、ましてや先生と呼ばれることもなくなったと最近感じる。

 連休でアルバイト時代のメンバーに会ったから、違和感をおぼえたのかもしれない。

 会社勤めになってからは一度も塾には顔を出していない。そしてこれからも出さない。

「あやせんせ」

 英玲那はいつまでこの呼び方をしてくるのか。向こうも社会人になって、年齢の線引きが曖昧になれば変わるのかもしれない。しかし、その頃にお互いを呼び合うような仲でいるかも分からない。

 すでに内定は出ているらしいから、半年もすれば彼女は社会の一員だ。

「渡来さん」

 上司である久我姫子に呼び出される。書類のミスの指摘だった。

 六年先輩の彼女は、名前の通り姫のよう。性格が。

(でも見た目もご令嬢って感じで綺麗。好きだわ)

 女性社員とおじ様社員に当たりが強く、今も「どうしてこんなにミスするの? 見直してるの?」としつこく言われている。言い訳をするつもりはないが、隣のイケメン社員の方がミスが多い。しかし怒られない。不思議。

 ただ彼女は横暴であっても、仕事だけはできた。だから史世は姫子を嫌いにはなれない。

「あの、質問してもいいですか」

 どんな質問でも姫子はきちんと答えを返してくる。知識についても史世より上。

(私が男に生まれてきてたらチャンスあったのかな)

 好きなような、好みなような気はする。年上で、美人、仕事ができる。でも理想ではない。描いていたものに近いはずなのに。

(この人、私が同性愛者って知ったらどんな反応するかな)

 受け入れてはくれないだろうと直感が言うから、カミングアウトすることはない。飲み会で彼氏は?と聞かれたけど、その時は「今いなくて」とだけ答えた。カミングアウトをしていきたいわけではなくとも、近い人に自分を理解されていないのは息苦しくもある。

「久我さん、今度ご飯行きませんか?」

 あわよくばなんてことがなくとも、相手が自分に興味を持っていなくとも、好みであるならそれでいいと判断した。

(こうゆうことしても報われないのに)

 どうにか少しでも理解されたい。この寂しさを、年上なら理解してくれると甘えているだけだ。

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