君は知らない
雨乞い
進級への不安がかなり軽くなった杏子だが、まだまだ楽観視は出来ない。
その為、夏休みに突入したというのに関わらず、文芸部の部室では杏子と稲穂が数学の問題集を開いていた。
「今日、水里センセイも来るの?」
「うん、そのはずだよ」
窓の外では、夏の風物詩が残り少ない命を燃やしながらジーコジーコジジジジジと鳴いている。
「暑いなあ、杏子」
「そうだね」
「暑いよなあ」
無視。
経験上、つまらない前置きの後にはくだらない本題が控えていることを杏子はよく知っている。
「あのさあ杏子」
「なに」
「それにしてもさ」
はーっと稲穂は長い溜息をついた。話を聞いてほしくて仕方がないらしい。
「なに、どうしたの?」
「うーん、なんていうか、その、なんでもない。はーっ」
「じゃあ静かにしてて」
「聞いてよ! そこは問いただしてよ!」
杏子は問題集から顔を上げ、無言で稲穂を見つめた。どうぞお話しください、の意思表示である。
「杏子さあ、恋とかしたいと思わない?」
ふぅと息をつき静かに立ち上がった杏子は、強烈な夏の陽が差し込む窓際まで歩を進め、眩しさに目を細めつつ、抑揚のない声で返答した。
「恋には疲れた」
「なんだその棒読み。お前、彼氏とかいたことないだろ」
「いるもん。毎日一緒だもん」
「犬とか猫とかじゃないよな」
杏子、沈黙。それを肯定と受け取った稲穂は、杏子を背中から抱きしめながら話しかけた。
「しようぜ〜。恋をしようぜ〜」
「好きな人いるの?」
「いないよ〜。いないんだよ〜」
「数学が得意な優良物件が」
「いや、それはない」
杏子の提案を途中で遮り、
「言うな。みなまで言うな。それはない。あれとそれはできない」
強烈な拒否の姿勢を示した。
「恋、ねえ」
杏子がぼそっとつぶやいた時、部室の扉がゆっくりと開き、一呼吸ののち、勢いよく閉じられた。そして、再びそろそろと開いて、やはりピシャンと閉じられたのだった。
「なんだ?」
「ちょっと見てくる」
杏子は稲穂を振りほどき、ポルターガイストのような現象が起きた扉を開け、波濤を招き入れた。
「いや、僕は何も見てないし、ちょうど目を閉じてたところだったから。うん、目が乾いて」
「誤解だから。全て勘違いなので気にしないで」
白百合の楽園に足を踏み入れたと勘違いした波濤は、目をつぶったままだった。その耳に稲穂の切実な悲鳴が届き、事態は悪化の一途を辿る。
「恋がした〜い〜。愛がほし〜い〜」
「ぼ、僕は帰るね」
「大丈夫、大丈夫だから。ただ盛りがついた性欲の大明神がファルスを求めて雨乞いしてるだけだから」
ちょっと
「神って地獄突きで鎮まるんだね」
波濤は奥深いようなそうでもないような、どちらとも取り難い受け取り方をし、杏子は杏子で
「まあ……成り合わぬ処に成り成りたものをぶち込んだっていうか」
とおなじみのフォークロアに則ったトラディショナルな艶笑で応じたのだった。
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