語彙少ない系女子
「センセイは恋とかしたくないの? 高2の夏だよ? 勉強してるだけでいいの? 大丈夫?」
波濤による数学の授業が始まるやいなや、稲穂はクダをグダグダ巻き始めた。
「大須賀さん、どうしたの、高浜さんは。男女交合を理念に据えた、どうしようもない新興宗教の勧誘?」
「媚薬とかシャブとかは使ってないと思うけど、急に性欲に翻弄されだしたんだよ。時期的なものかな」
本人を目の前にして言ってはいけない単語を散りばめた相談は、稲穂に丸聞こえである。
「いやいやいや! 恋がしたいってそんなにおかしいか!? 夏休みだよ!?」
「まずは勉強しないと。水里君も教えに来てくれたんだし」
「そうだね。頼まれてたから来たんだけど、まさか『勉強してるだけでいいの?』って言われるとは思わなかった」
さすがに悪かったと思ったか、口をつぐんだ稲穂はノートに視線を落とし、
「いや、杏子もさあ、なんでそんなに冷めてるのよ?」
と5秒後には再び昂ぶっていた。
「だって」
杏子は全く疑いのない澄んだ目で遠くを見つめながら、歌うように言葉を紡ぐ。
「だって、好きな人って、いつかそのうちなんとなく現れて、その人のことがとても好きになって、なんとなく付き合い出すものだよ。そうだよ」
「なんでよ」
「……おかあさんがそう言ってた……のかな?」
「はーっ」
聞こえよがしに何度もはーっはーっとため息をつきながら、稲穂は宣告した。
「杏子、お前は、嫁に行き遅れる。はーっ。行かず後家確定」
勝手に人生を決めつけられ思わず眉間にしわを寄せた杏子から、頬杖をついて成り行きを見守る波濤に視線を移す。腕を組んであごをしゃくった。
「水里。いつも勉強教えてくれてるから、今日は特別に私が教えてやる」
「何か言い出したけど、どうしよう」
波濤は稲穂を無視して、杏子に助けを求める。
「とりあえず、興奮状態の霊長類とは目を合わせないように気をつけて」
「いいから告白して来い、私に。来いよ。来いと恋をかけている」
「目が座ってるんだけど」
「水里おおぉ、教えてやるよ。失恋ってやつを」
波濤は、今の稲穂に対して少なくとも恋愛感情を抱いてはいない。一言でいうと「何盛ってんだこの女は」で済んでしまうが、それを言うとより状況が悪化することは目に見えている。その為、色々と諦めて素直に従うことにした。
「高浜さん、僕は高浜さんが好きですから僕と高浜さんはつきあうべきです」
「えっマジで来た」
「僕は高浜さんを愛しています。あろうことか、いや、しかしながら、じゃない、ゆえに。そう、ゆえに愛しています。僕が高浜さんを、とても美しいと思っています」
水里君は文章を考えるのが本当に苦手なままなんだな、としみじみ思いながら杏子は二人の三文芝居を見届ける。
「マジかよ、水里……」
稲穂は赤面し、瞳が潤い出す。黙っていれば間違いなく美が付く少女の艶やかな様子に、一瞬波濤の目が伏せられた。
「いや、ウソだけど。全部ウソだけど。なんかごめん」
「お前ふざけんなよ! 水里お前ほんと……ふざけんなお前!」
笑いを堪えるため、杏子は唇を噛み締める。とてもではないが勉強どころではない。語彙が極端に減った稲穂から、これからもう一つ大きな衝撃が放たれることは分かっていた。
「好きな奴がいなかったら恋もしちゃいけないのかよ!」
滅茶苦茶な言葉を叫んだ稲穂はうわっと泣き声を上げながら机に顔を埋め、杏子は耐えきれずにぶふっと息を漏らしながらやはり机に顔を埋めた。机にうつ伏せた二人の泣き声と笑い声が静かに響き続ける。
「えーと、あの……」
所在なさ気な波濤の声が、か細く流れる。
「ちょっとトイレ行ってくるね」
まるで悪いことでもしたように、波濤は忍び足で抜け出す。意思ある者がいなくなった教室には、地響きのような泣き声と笑い声がいつまでも響いていた。
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