高校2年生、分数の足し算にチャレンジ
苦悶の表情でうなり続ける杏子に対し、真正面から向き合う稲穂。
「この問題の何がわからないの?」
「あえて言うなら、初手からわからない。あえてね」
「敗北後のコメントみたいのはいいから。まずはやる気!」
その様子を少しだけ離れた位置で眺めていた波濤は、別に今言わなくてもいいことを、驚きを示す甲高い声ではっきりと言った。
「大須賀さん、よくその有様で入学できたね」
「今、それを言う必要ある?」
「いやその、あまりにもあんまりだから、つい」
思ったままをそのまま口に出しただけであり、悪気はない。自覚なく杏子の心を踏みにじった波濤は、さらに無意識に追い打ちをかけた。
「あ、種田さん、もう帰った方がいいよ。多分今日は何もできないと思うから、うるさくて」
窓際で鉢植えに水を上げていたあやめはその言葉に首を振り、杏子にエールを送る。
「センパイ、頑張ってください。応援してます、ファイトですガッツです、気持ちがあればなんとかなりますよ!」
「あやめちゃんはいい子だね……。そういえばさっき何書いてたの?」
「逃げるな。あやめ、甘やかすな」
稲穂は杏子の眼前に教科書を突きつけた。意を決した杏子は、再び問題に取り組み、眉間にしわを寄せたままの固形物となる。静かに近寄った波濤は教科書をななめ読みしつつ、
「かっこの扱いに戸惑ってる?」
と判断。
「細かく切り離して、少しずつ考えた方がいい。大きく見すぎなんだと思う」
「ふむむむ……」
「ただ単にかっこ付きの掛け算にするだけだから。複雑に考えすぎ」
「けど私は分数の足し算すらおぼつかなく……」
少し考えた波濤は思いつきを言葉にした。
「映画だってゾンビものと亡霊もの、どっちが怖いか比べられないよね」
「うん」
「けどホラーって共通項、最小公倍数に当てはめれば比較できるじゃない」
分数の問題をいくつか提示したところ、杏子はホラー、ホラーとつぶやきながらするすると解いていった。
「ぜんぜんよくわかんないけど、わたし、なんか、わかった。すうじが、わたしに、ちかづいてきた。きがする」
「まあ、今大須賀さんが解いたのは小学生の問題だけどね。じゃあ中学一年の数学でいうと……」
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
波濤の指導は18時まで続き、内容としては中学3年の数学にまで進んでいた。机にうつ伏せている杏子の頭上で、賞賛の言葉が行き交う。
「杏子、やればできるじゃん。明日は高校に入学できるといいな」
「中学2年から3年に上がる時は正直感動しました。けど、水里さんの教え方が上手だったってのもありますね」
「そうだな。水里、超エラい。今後はセンセイと呼ばせてもらうわ」
稲穂は、センセイの、セン、の部分にアクセントを置いて発音した。
「なんでここまでやったのに、無能の代名詞的な蔑称で呼ぶ気なのか」
すかさず波濤、遺憾の意を表明。同時に今後の方針を発表。
「けどまだ中学3年だからね、大須賀さんの学力は。明日からもっとペース上げないと」
「何卒一つ、今後とも大センセイのお力添えを……」
むくりと机から顔を上げた杏子が、無能の北極星とでもいうべき蔑称で波濤を讃えた。ノートを見返し、満足げにため息をつく。
「ふふっ。文芸部があるのに、なんで因数分解部はないのかな。分かれば楽しいのに」
「中学生がいい気になりやがって」
稲穂が笑顔で五寸釘を差した。首をひねったあやめも体重の乗ったストレートを放つ。
「なんでまだ中学も卒業できてないのに、そんなにセンパイは調子に乗ってるんですか?」
まあまあ、と後を継いだ波濤が二人をなだめる。
「大須賀さんにはまだ、アレを教えてなかった。自力で気づくかな、と思ったけど、とても重要なことだから今日中に教えておく」
「あれ、なにか見落としてた?」
「見落としたというか知らなかったというか」
「なんだろう?」
波濤は真顔で正論の弾丸を打ち込んだ。
「身の程」
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