愛称秘話

 杏子は稲穂と波濤に引きづられるようにして部室前までやってきた。


「前から思ってたんだけどさ」


 稲穂は、やや後ろを歩く杏子に声をかける。


「このTakku Bokkuって、なんだっけ」

「文芸部の愛称。親しみやすく、覚えやすいかな、と」


 言うまでもなく、石川啄木は歌人である。ここが詩作を主にする部活であれば違和感はないのだが、小説創作を主な活動におく部活にふさわしい愛称かというと疑問符がつく。


「ほら、文芸部って近寄りがたいじゃない。なんていうか、すごく良く言うと、上から下まで黒で統一した服装を好む、みたいなイメージというか。近寄りがたい。げに近寄りがたし。だから動画投稿アプリっぽく」

「ポップな感じに」

「そうそう。そうなんだけど」


「文芸部員募集」のポスターを作った時に考案した愛称のTakku Bokkuは、生徒たちの嘲笑や教師の失笑といった最上級の賛辞で迎えられた。具体的にはポスターの上に「啄木は歌人だバーカ!」と書かれ、教師からは「啄木なめすぎ。あと勝手に喋らせるな、入部さすな」などと小言を言われたのである。

 死んでから50年くらい経ったら何してもいいんじゃなかったっけ、程度の知識しか持ち合わせていなかった杏子の認識の甘さが招いた喜劇であった。


「まあ、狙いは当たったね」

「お、おお……」

「普通のポスターなら誰も見てくれなかったと思うし」


 杏子は思い出し笑いを浮かべた。当初は怒りの感情をも節操なく模倣して「一度でも我をあざ笑いし人 みな死ねと 祈りてしこと」と考えたこともあったが、今となっては予定通り目立つことができて良かったと確信している。


「そのアホみたいな強さのメンタルを数学にもい」

「結果として3人も入部してくれたわけで」


 波濤の言葉を杏子は笑顔で遮った。



 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ 



「あ、センパイ、遅かったですね」


 文芸部の部室では、種田あやめがノートに向かっている最中だった。


「うん、ちょっと先生に呼び出されて」

「進路関係ですか?」

「そうだね」


 嘘ではない。進路関係というより退路関係ではあるが、表と裏、陰と陽、サウナと水風呂、そばとうどん、ご飯と納豆のような関係なので嘘はついていないと杏子は自分に言い聞かせた。

 さすがに後輩にバカがバレるのは避けたいところだ。杏子はカバンから「定本 言語にとって美とはなにか1」を取り出し、あやめに手渡した。


「あ、お借りしていいんですか? どうでした?」

「おもしろかった」


 これも嘘ではない。だが正しくは「吉本隆明が何を言っているのか全く分からないので、知識の波に翻弄される自分を客観的に見たら面白いというかこっけいというか」である。内容が面白かったとは言っていないので、やはり嘘はついていないと再び杏子は自分に言い含める。

 そろそろカッコつけで本選ぶのやめようかな、と遠い目をした時、稲穂が「さて」と言いながら数学の教科書を机の上に広げた。


「やるか」

「やろうか」


 波濤は首をぐるりと回した。成り行きを知らないあやめは目をパチパチとしばたきながら稲穂に問う。


「高浜さん、何をやるんですか?」

「そこで『バカがバレた!』って言いたげな顔で口を開けている部長の特訓、数学編」

「センパイ、そんなに数学の成績悪いんですか?」

「大きく逸してるね、常軌ってのを」


 いともたやすく丸裸にされた杏子は、うつむきながらノロノロと机に向かい、


「あやめちゃんごめんね。ダメなセンパイでごめんね。そろそろ窓際の植木に水をやっておいてくれないかな……」


 とか細い声で依頼した。窓際ではカニを飼おうとして諦めた空っぽの水槽が存在を主張している。


「なにその『子供がいない間に済ませて』みたいな演出は。こっちが悪いことしてるみたいじゃん!」


 ひどく下世話でADULTな例えを持ち出した稲穂は、ノートで机を叩いて抗議したのだった。




 ※ポスター画像はツイッターにアップしました。

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