第4話 盲信
昨日の厭わしく崇高な光景は目を閉じる度抽象的な感情となって俺に襲い掛かってきた。例えそれが昨晩のベットの中であっても、退屈な授業中であっても。左の当人は恐ろしいほどにいつも通りで、今日もまた机の左フックに見慣れた茶色いビニール袋を下げていた。
コツコツ小気味いい音を立てて炭酸カルシウムの無駄遣いをする衛田先生は二年後未成年淫行で逮捕される。
また昼休みになって、当たり前のように三人で各々の弁当や惣菜を取り出す。悠太はまた委員会がどうと忙しそうで甘い卵焼きを一口で頬張った。
「森崎くん、いますか?」
教室の引き戸から目元だけ覗かせていた彼女がとうとうクラスの中へ声を掛けてきた。どこかで見たことがあるような雰囲気の─上履きの色から恐らく先輩である─彼女は、沙良を見つけると見る間にはちきらせんばかりの笑顔を輝かせた。
「ああ、先輩」
「森崎くん!良かった」
悠太が咀嚼しきった白いご飯を飲み込んで、俺に擦り寄って小さな声で話す。
「なあ、いいのかよ」
「何が?」
「何がって、ほら、先輩、小林先輩。沙良が小林先輩から弁当貰ってるけど」
「うん、いや、別になあ」
思い出というのはやはり年月と共に美化されていくもののようで、昔は絶世の美女だと思っていたはずの小林先輩はそこそこよりかわいいぐらいの普通の中学三年生だった。でもやっぱり料理上手なのはポイント高いな、なんて結婚相手への条件が頭に浮かぶのは二十六歳の習性である。十五歳相手に何をという話だが。
こうして教室で弁当を食べている頃は何をしていても頭の中の小林先輩とのエトセトラに想いを馳せていたにもかかわらず、パイン飴みたいな感情が年月と共にすっかり風化してしまった。アメリカかぶれの彼女のために苦手な英語まで練習したのに。
何か言いたげな悠太は俺にそれ以上がないことを察したのか、渋々二切れのニンジンだけになった弁当に向き直る。長い付き合いってのは良いもんだな。
「ただいまぁ」
「おっ、おかえり」
「はぁ、つかれた!なんであんなにしゃべること、でてくるんだろう?」
「そう言うなよ。先輩だって気になるさ……今日の分は貰わなかったの?」
「うん。昨日のからだけ返したよ。あじどうだったー、とか、またつくってこようかー、とか、なにかすきなおかずあったー、とかさ、そんなに気になる?」
「気になるんじゃねえの、好きな人だろ」
「いいや、けっきょくさ、なにも見てないんだよねぇ。ぼくのことなんてぼくにもわからないのにさあ」
「それでも知りたくなるんだって、恋ってそういうもん」
「そんなものかな?」
「そんなもんだよ」
ふぅん。会話への集中力なんてものはもうとっくに沙良には無く、俺の弁当箱からひとつブロッコリーをつまみ食いした。緑の色彩がひとつ失われただけで随分殺風景になるものだ、と俺は残された容器を俯瞰してすこし感心した。
図書委員の仕事が長引くだろうから先に帰ってて、と悠太に言われて、ぼく日直だから全員帰るまで残ってなきゃだぁ、と沙良に言われて。俺は沙良を待つことを選んだ。クラス委員長が机の列をひとつひとつ丁寧に揃えるのを眺めながら、明後日で終業式か、とひとりごちた。
「そうだねぇ」
隣で学級日誌にペンを走らせる沙良が答える。
ていうか聞いてたのかよ。
「咲くかな、桜」
「まだじゃね。せめて梅だろ」
「梅ってこんな時期なの?」
「だいたい?」
軋む椅子から立ち上がって校門の横に聳える桜の木を眺める。焦茶色だけの彼だってもう一月もすればみんなのアイドルで、それが過ぎればただの木。人間も大して変わらないよな。
「──じゃあ、森崎くん。私先に帰るね。」
「うん、ありがと委員長。またあした」
委員長は赤いメガネを中指で掛け直しながら帰っていった。校庭から響くサッカー部の声と、カーボンのすり減る音だけが世界に残る。
日誌に向かっている彼の大きな瞳が瞬くたび、それを縁取る睫毛がぱちん、と音を立てている。そう感じるほど俺は彼そのものにのめり込んでいて、そこに何の不安もなく、ただ胸から込み上げる三七.五度に体を包み込まれているようだった。
悠太の仕事はまだ終わらないだろう。部活がある日だって委員会と重なればろくに参加できないとボヤいていたし、今日も最終下校時刻のチャイムが鳴るまで図書室か情報室に篭りきりか。
「──ねぇ、けんちゃん」
日誌を閉じて、沙良はゆっくり口を開いた。整った歯列すら夕日に照らされる。
「何」
「恋、って、なんだろうね?」
昨日の捨て台詞をなぞる沙良の指先は相変わらず青白い。
「そりゃ、お前」
「うん」
「そりゃ──あれだろ。……大切な人ができるってこと」
「たいせつなひと」
沙良は俺の言葉をそのまま返す。伝わっていないのか噛み砕いて反芻しようとしているのか、真夜中を切り取った双眸からは何もわからない。
「それで生きるのが楽しくなって──なんでもできるような気持ちになって──喜んだり悲しんだりして──」
「うん」
「それで、成長していくんだよ。大人になった時に、真っ当に人を愛せるように」
「ひとを、あいせるように。」
ぽつり、また彼は呟いた。
我ながら相当しっくりくる答えが出せたのではないだろうか。傷だらけになりながらこの年まで生きてきたのだ。悠太だって、たくさん恋して失恋して、それでああなったんだろう。俺もいつかはそうなるんだと思うし、なりたいと思うし。
「そんなにいいものかな」
「え?」
「恋ってさ、──そんなにいいものかな?」
眉毛を下げて自嘲的な微笑みを浮かべながら、彼は机の天板を人差し指でコツコツと叩く。衛田先生の真似事。ずれた横髪をひとつ掻き上げて、机を叩くその指を左手で撫でた。
「恋ってなんだろうね?」
「だから、」
「わからないなあ」
「恋ってさ、結局ぜんぶ、──」
彼はまたハレの日の服を選ぶように、視線をスライドさせた。俺の足元ぐらいはその網膜に写っているかもしれない。また、まっすぐ下を向く。
「──ぜんぶ、じぶんじゃん」
「──ぜんぶ、自分をひとになすりつけてるだけじゃないの」
「こうしたらああしたらって、理想的観測ばっかでばかみたい。こうあってほしいって押し付けて、自分が受け入れられなかったら勝手に幻滅して、怒って、泣いて。」
「────ぼくは、ぼくなのに」
少しだけ、ほんの少しだけ彼の声音が揺れる。未だ自身の手元だけを写す瞳は、濡れているのだろうか。
「────なんで、そんなに、」
口をひとつふたつ、音を伴わずに開けて、閉じて。長い前髪からは表情が見えなくて。必死に紡ぐべき次の句を探す脳は、果たして本当にその制服と釣り合っているのだろうか。
「─────なんでそんなに、独り善がりで」
「本当の、ぼくなんて。──本当の君すら」
「ほんとうの君すら、恋のために、死んでしまうのに」
「──ああ、なんだろうなぁ。なんだろうね」
彼の呼ぶ"君"に、俺がいるような気がした。
恋のために死んでしまう、俺。意中の先輩のために変わろうとした俺。きっと変わってしまった俺。そんな俺をずっと横で見てきたのかもしれない。この男の顔を、この儚い夢を見る前の記憶から呼び起こすことは叶わないけど。もしかしたら、お前の本当の顔すら思い出せていないのかもしれないけれど。
きっと──ずっとそばで俺を見届けていた彼が、お前が、心の底から美しいと思った。信心にも似た、彼のすべてへの肯定が溢れる。自分の心臓が休まず存在を主張する。生の実感とは、得てして不思議なものだ。
数日前、中学生の自分のベッドで目覚める前の白がフラッシュバックする。白、白、白。左腕に埋め込まれたカテーテル。半分も開かない目蓋と心細い電子音。最後の夢は、きっと俺の青春のやり直し。長く美しい一瞬の走馬灯。こんな人間の最期をも審判するのが神だというのならば、
かみさまっていうのは、きみのことだろう。
Epilogue 隣人の猫 @rinjinno_neko
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