第3話 恐惶

寝て起きたら戻ってるかもな、なんて期待はたんぽぽの綿毛みたいに儚くてすぐどこかに消えてしまった。

今日は母さんから弁当を受け取って、同じようにナイキの踵を潰しながら毎朝迎えに来てくれる一等に良い奴と登校。俺の適応力がなかなか高いのか沙良が人の懐に入るのがうまいのか、朝から数学の宿題を見せあった。沙良は座学に滅法弱くて、やっとこいつの弱点を見つけられたなんてちょっと嬉しかったり。



体育のために久し振りに履いた半ズボンはコスプレみたいで恥ずかしかったけれど、側から見れば十四歳が十四歳らしい格好をしているだけだっただろう。二十六歳にとって学ランを着るのはギリギリ、本当にギリギリで耐えられたがこんな風の子ルックは無理ゾーンの中でも相当無理に入っている。やめてくれ。


「じゃあみんな、二人一組になって」


体育の佐藤先生がそう言ってホイッスルを吹く。俺は迷わず悠太に駆け寄って、ふと犬みたいだと自嘲しかけた。


「悠太、組もうぜ」

「いいよ」


よし、これで誰とも組めずに皆が座っている中を立ち彷徨って先生と組まされる、または無理矢理三人組にねじ込まれるような恥ずかしい思いはしなくて済む。一度だけ悠太が熱で休んだ時俺がそれになったが、男の尊厳を大きく傷つけられた記憶が鮮明に残っているのだ。中学二年生男の尊厳とは何なのかわからないが。


ふと、それになりそうな彼ー沙良のことを視線で探した。ミントグリーンの屋根の下、長い手足を窮屈そうに折り曲げて涼んでいる。


「沙良、見学?」

「うん。なに、わざわざ走ってこなくていいのに」

「気になるだろ」

「そう?いつもだよ?」

「なにかいてんの」

「見学者用のレポート。めんどくさい」

「じゃなくて、横のやつ」

「ああ。ねこと、にんにく」


長い前髪は真っ直ぐ切りそろえられているとは言え邪魔だろうに。太腿の傾斜に置かれた用紙に視線を落とす沙良の表情が見えなくて、その雰囲気と相まってまるで遠く遠くの人かのように思えた。なんとなく、生きているのが不思議なような。


風が木々の濃い緑を梳いて、慈しむ様に俺たちの肌に触れる。沙良は見学者の特権である上ジャージのチャックを首まで閉めると、露出した骨と皮だけの脚をおもむろに撫でた。



中学生なんだからもっと元気に遊べよ、なんて何様目線なことも言えず、そっかと言って悠太の元へ戻った。興味なさげな声音はわざとじゃない。忘れた頃に戻ってきた違和感は所在無さげにじっとりと足首を掴んでいた。


「沙良、なんかあった?」

「にんにくの絵描いてた」

「えっ?なにそれ」


俺も知らないよ。何も知らない。転がり込んできたくせに自分のことは何も喋らない彼のことなんて。そう、十四歳の俺の記憶は二十六歳の俺にもしっかりと刻まれていて、その中に彼はいなかったんだ。居なかった。確かに居なかった。悠太、十四歳じゃない、二十六歳の悠太。あいつに聞いてもきっと同じことを言うだろう。モリサキサラって誰だよって。


「痛え」

「あ?」

「押しすぎ。股痛い」

「あー、ごめん」

「いいよ。やり返すから」


ぐるぐると考え事をしながらするストレッチほど身にならないものはない、ともう使わないだろう教訓を得た。佐藤先生がドッヂボールの白線を急いで引いてる。あの先生って確か俺たちが卒業するときに結婚して同窓会の頃には子供産んでるんだっけ。






「どう思う?」

「えっ、何が」

「沙良のこの食事。健太郎からも言ってやれよ」

「べつにいいじゃん!迷惑かけてないし」

「そうじゃなくてさぁ、心配なんだよ」


今日も沙良は添加物まみれの昼食だった。三人きょうだいの長男である悠太は所謂お母さん属性って奴で、昔から危なっかしい奴に甲斐甲斐しく世話を焼く質だ。だからか女子にはあんまりモテないけど。


「まあ確かに、せめてコンビニ弁当ぐらいにすれば?とは思うけど」

「ほら、健太郎もこう言ってるし。」

「そういえば沙良、今朝先輩から弁当渡されてたよね。あれ食べればいいだろ」

「ええ〜っ、ぼくこれが好きなんだけど」

「ダウト。美味しくはないってよく言ってる」

「えへ、そうだっけ?」


最後の一口を咀嚼し終えて、指で軽く口元を拭う。悠太は食べ終わった後に委員会の集まりがあるとかでさっさとどこかに行ってしまった。こうしていざ二人きりになると、特に話題もないな、なんて。中学生なんて中身のない話ばかりだから、最近流行りのJPOPなんかについて話せばいいものを。浮世離れした沙良の雰囲気に心を奪われてつい口を噤んでしまう。この男は俗っぽいものが極端に似合わないのだ。


「知ってたんだ」

「えっ?」

「ぼくが朝に先輩からおべんとう、貰ったの」

「あー、見てたから。どうしたんだよあれ」


沙良は形のいい大きなつり目を三日月形に光らせて、得意げに鼻を鳴らした後背後のサブバックからひとつ可愛らしい薄ピンクの包みを取り出した。いかにも女子力の塊というそれが俺を威圧する。


「じゃじゃーん!」

「いや、あるんじゃん」

「あるよ?もらったんだもん」


じゃあ食べろよ、とは飯を済ませたこのタイミングでは言いにくかったけれども。普段彼が取り込む工場製のそれらよりはるかに健康的で優しい愛情が真っ白な手の中で居心地悪そうにしていた。


「ね、きて」

「は?、ちょっと、どこ行くんだよ!」

「いいからさ、ほら!」


彼は駆けた。肩に付かないほどの黒く真っ直ぐ細い髪を靡かせて。窓から黄檗色のフィルターがかかった。夢中で追いかけながら、美しいな、と思ってしまった。まるで天使だ。 


「っは、はぁ、どこまで行くんだよ」


沙良が立ち止まったのは校舎の端の男子トイレだった。普段人の出入りが極端に少なくて、ここの掃除当番になった生徒は遊べるからラッキー、なんて思われてたっけ。モップでチャンバラごっこなんかした記憶が薄らと蘇る。


「ここならひともこないからね」


そう言って一際奥の個室に入る。おいでよと言われたから一緒に入ってしまった。


沙良はずっと握りしめていた長方体を無造作に開けて、隅から隅まで行儀良く詰められた中身をーー躊躇なく便器の上でひっくり返した。

ぼちゃぼちゃ水音を立てて誰かの体の一部になるはずだったものたちが生ゴミになっていく。愛情を、手間を、金をかけられてきたそれに何の価値もなくなっていく景色が母親の顔と渡された弁当を思い出させて、思わず吐き気が込み上げた。


「っ、ぅ、おい!何してん、だ」


俺の百面相はひどく滑稽であっただろう。

廊下を颯爽と走っていたさっきまでの幸福に満ち満ちた顔から、酷い不快感と、憤怒と、それから絶句。


この非道を行う彼の顔には何も無かったのだ。否定も肯定も、何も存在せずただ失われていくものを見つめる双眸に、小さな換気窓からミクロの光が差し込んでいた。


俺は彼─森崎沙良という男に対して、叱咤も嫌悪も拒絶も出来なかった。ただ彼のその人間離れした風貌だけが、その行為にも意味があったと語るのみであり。天使か悪魔か、いや、彼は──



「すきなんだって」


数分前まで三人で談笑していたあの頃と寸分変わらぬトーンで彼が呟いた。


「ぼくのこと。なんでって聞いたら、かっこいいからって」


「ぼくに恋してるんだって。だからずっととおくからみてて、いつもコンビニごはんだから、おべんとう、よかったらたべてって」


「家庭科部でね、料理がすっごくうまいって隣の先輩もほめてたなあ。」


便器の中でぐちゃぐちゃに混ぜられた有機物のなかに、綺麗な形の卵焼きが見えた。タコさんウインナーに、アスパラガスのベーコン巻き、パンダ型のおにぎり。



「ねぇ、けんちゃん」


恋って、なんだろうね?


「ぼくにはわかんないや」

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