第2話 融解
一時限から四時限まで、俺たちの時間は呆気なく過ぎていった。俺が時折欠伸をする左の異物に抱いた違和感を薄めていくように、希釈に希釈を重ねた一時間が繰り返されるだけだった。
「健太郎、昼」
丁寧に紺色の風呂敷に包まれた弁当をサブバックから取り出して、健太郎が隣の机に来た。気付けば他のクラスメイトも母親から預かった生暖かいそれを手に持ったまま思い思いに席移動をしている。
「あー、メシ、いっか朝ので」
「なに、足りんの?」
「普通に貰い忘れたし。なんとかなるべ」
俺も同じようにアルミホイルで包まれたおにぎりを二つ取り出して机の上に置いた。育ち盛りには少ないがまあしょうがない。
健太郎もこう見えて良く食べる男だし、特に好きなハンバーグについては一回も分けてもらえた試しがないから今日も多分──嫌いなおかずでも入っていない限りは──無理だろう。
「お前もこっちで食べなよ、沙良」
「えー、ゆーちゃんいいの?じゃあお邪魔しようかなあ」
良くはない。俺が。知らない奴とこの至近距離で飯を食べるなんて仕事でもない限り嫌だ。普通そういうものだろう。
でも、当然、悠太にとって森崎沙良は知らない奴ではない、どころかかなり親密な関係に見える。
ゆーちゃんなんて奥さんにも妹にも呼ばせたことないだろ。ああくそ、色気付いてコンタクトなんかしやがって。
左隣から頼りない椅子だけ俺に向けて、薄茶色のビニール袋からよく見る円形のトレーと惣菜パンを取り出す。俺の机の左三分の一ぐらいをそれで占拠してまた器用に個包装のスプーンを開けていた。
「沙良お前またそれか。ヒョロヒョロなんだからもっと食べなよ」
「えーだって、めんどくさいじゃん」
「そんなんじゃ背も伸びないって」
「伸びてるよ?今だってもう一六〇センチある」
「不健康。将来ハゲる」
「想像つく?」
「つかない」
でしょお。へらり。そう言って脂肪の塊の様なドリアを頬張る森崎の指は青白く骨張っていて女の子みたいに整った顔とちぐはぐだった。
俺の方が異質なんじゃないかと思ってしまうほど森崎はクラスに馴染んでいて、例えばその綺麗な横顔をチラチラ眺める内気な女子だとか、名前の順で後ろの方にいる彼の掲示物に銀の長方形が貼られていたりとか。対して俺には何の折り紙も付いていないし、熱っぽい視線なんて感じない。あーあ、何なんだこの男は。
「けんちゃん?おにぎりいらないならもらっていーい?」
空のトレーにプラスチックの蓋を嵌め直しながら首を傾げる仕草が妙にキマっていて、ついうるせーなと声に出た。森崎はまた笑って、悠太は旨そうなハンバーグを最後の一口にしていて。焦って口に詰め込んだ鮭の小骨が喉に引っかかって。しばらくはその違和感に悩まされた。
「けんちゃん、ゆーちゃん、いっしょに帰ろ!」
恐らくもう三月も半ばであるというのに首元をもこもこにした森崎は冷え性らしい。悠太がいいよと言うから、俺もしぶしぶいいよと言った。
俺と悠太は野球部なのもあり体格には恵まれている。三人並んでいると森崎だけ少し凹んでいるのが面白いくらいには。俺がピッチャーで悠太は三塁、そんなに仲がいいのにバッテリーではないんだなと何回も揶揄されたけど、二人が揃えば調子は倍増、いや乗増の名コンビだった。
「きょうのけんちゃんどうしたの?なんかぼーっとしてない?…まさか、好きな人でもできたとか?」
「あぁ、ありうる。最近三年生の方よく見てるし。特に三組」
「はあ!?いや、ないない、ないって!違うし」
悠太が言っているのは多分昨日までここにいた十四歳の健太郎くんのことで、彼が三年三組の小林先輩に恋していたのは事実だがそれを二十六歳の健太郎さんに言われても。思わず大否定してしまった。すまん、十四歳の俺。
「ええ、ほんとかな」
「いや違うから!そういうっ、森崎はどうなんだよ」
森崎の名前を呼ぶのは自然のはずなのにどう呼べばいいかわからなくて、思わずひとつ空気を飲み込んでしまった。良く似た感覚をちょうど二十歳の時の成人式で味わった記憶があり、ぎこちない言葉の響きにどうにも嫌悪を抱いてしまう。
「もりさき?」
あー。不正解。ブブー、と頭の中であの音が鳴る。ぐりんと体ごとこっちに向けて、大きな猫目が俺を射抜いた。ネズミみたいに動けなくなって一瞬だけ血が止まったみたいだけれど何もなさげに歩く悠太を足だけは見習っていた。
「も・り・さ・き?」
「あー、はいはい、沙良」
「さら?」
「え?」
沙良、だろう。森崎じゃなかったら。悠太もそう呼んでるじゃないか。ひどく間抜けな母音が口をついて出た。ヤバい、またやらかした?朝と同じような不安がまた駆け巡る。元の世界に戻れんのかな、いや醒めたら真っ暗闇でしたとか?前世の記憶を持ってるサンプルとしてどっかに連れてかれるかも。うわ、あ、どうしよう。
「ふっ、うふふ」
「ははっ、なんだよその声」
「あはは!ゆーちゃん聞いた?ヤバくない?」
「はぁ!?なんだよ、沙良で合ってんのかよ」
「そりゃ、っふ、あははは!むり、まって」
こっちの気持ちなんて知らないで笑い出す二人を見るとなんだか全部の気が抜けてしまった。森崎──沙良に感じていた言いようの無い不安なんてもう抜け落ちてしまって、目の前のつむじすら愛おしく思える。沙良、ともう一度呼ぶと長い睫毛が涙できらきらと光っていて、もう笑うなと脇腹を小突いた。
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