Epilogue

隣人の猫

第1話 再生

俺は馴染みのある、現実味の無い場所で目を覚ました。


メッキの剥がれかかった目覚まし時計を手探りで止める。この音を聴いたのはいつぶりだろうか。

社会人になってからはスマホでアラームをかけていたはずで、ことこの真っ白な一室に生活を移してからはそんなものを気にすることもなかった。右手から射す柔らかな日差しと、管を通る透明を替えにくる物音、で、十分だったから。しかし今階下からは母と妹の話し声がするし、壁にかけてある学ランは確かに俺のものだ。それも、十二年も前の。

最近マンネリ化したラノベの書き出しみたいだな、と空白の目立つ脳味噌で考える。あまりにも自分の予想からかけ離れた事象が起こると人間は一度思考を止めて俯瞰的になるのだとか。そんなことをネットニュースで読んだな。


「健太郎!早く起きなさい!悠太くん来てるわよ!」

「わ、わかった!もう出るから!」


未だまともに動かない右脳と左脳を置き去りにして、身体を縛り付ける針を忘れた身体を起こし素早く壁にかかっていたそれに袖を通す。悲しいかなサイズはぴったりで、俺がもう俺では無いことをひしひしと感じさせた。学校の退屈さをそのまま詰めたサブバックは肩に重くのしかかったが、中学生の身体はものともしない。ナイキの踵を潰したまま朝食のおにぎりを受け取って外に出た。



「おはよう、健太郎。」

「あ、あぁ、おはよう、悠太。」


そこにはつい先月にも会った親友の姿が、十年前のままにあった。ツンツンと立った黒い髪の毛、整えられていない眉毛。今ではその四、五倍も金をかけて美容室に行っている悠太に、この頃の写真を見せたらなんと言うのだろうか。あの綺麗な奥さんには見せたがらないだろうな。


俺は悠太に、俺が今いつにいるのか聞き出そうとしたけれど、麻を口の中いっぱいに詰め込まれたようにうまく言葉が出なかった。悠太のことを信用していないわけではない。俺が頓珍漢で素っ頓狂でも、悠太はちょっと眉を顰めて、それで何もなかったかのように笑ってくれるはずだった。俺はそういう奴だったし、悠太もそういう奴だったから。


でも、今立っているここがいつのどこだか知ってしまったら、その瞬間に全部消えてしまう気がした。俺の立っている場所から落雁のように頼りなく崩れ落ちて、悠太が悠太だったものになって、俺の身体も曲がって、揺らいで、溶けていってしまうような。その恐怖を日常で上書きするように、コンクリートの壁を曲がって、ジャングルジムを脇に見ながら変わらぬ歩幅で変わらぬ通学路を歩く。あの頃と何も変わらない、少しだけ焼けた親友とともに。何も変わらない、少しだけ新しくなったような上里台中学校へ。




中学校特有のあの匂いは何なのだろう。

ワックスの匂いか、ニスの匂いか。それとも給食室からゆっくり染み出るトマトの匂いか。肺にそれらを詰め込んだ俺は覚悟をして、悠太の後に続いた。

お前このクラスじゃ無いだろ、とは言われなかった。座席表をちらと見て、右から二列目一番後ろの席に座る。右前には悠太がいて少し安心した。


時間割通りに教科書とノートと資料集を机の中へ押し込む。国語、理科、社会、総合、英語。昨日までカテーテルに繋がれていた俺は昨日までここにいた十四歳の俺を信じきってか、はたまたすっかりそんな習慣は抜け落ちていたのか、授業中に宿題について回答させられ、赤っ恥をかくことになるのだけれど。そんなことを知らずに、朝の十分たらずを使ってどうやって元の世界に戻ろうかと考えあぐねた。もちろん、答えなんて出るはずもない。




「おはよ、けんちゃん。」


不意に、しかし予感していたかのように、それは降ってきた。堕ちず空中を揺蕩って、鼻腔と鼓膜をくすぐるその声は、中学二年生四十人の喧騒の中でまるで自分だけが特別かのように振る舞っていた。


声の主は俺の左隣、教室一番端の席で、双眸と唇で弧を描きながら、こちらを見据えている。今朝悠太と会った時と同じように挨拶を返せばいいはずなのに、違和感で遮られた。俺の記憶と、現実のような架空との、細やかで大きな差異である。


「誰だ?」


お前は。俺は間違いなくこの上里台中学校で三年間を過ごしたはずだ。三年間のうちこんなに近くで生活していて、よもやけんちゃんなどと呼ぶような仲の人間を、そう簡単に忘れるはずがない。たとえ十二年経ったとしても。


「ええ、けんちゃん、ひどいなあ。ぼくのこと、しらんぷりするなんて」


彼から吐き出されたハスキーなその二十七文字は、俺の目の前で止まった。

知らない人間がいる時点で、ここは俺の知っている上里台中学校ではないのかもしれない。

俺はタイムスリップしているのだと思っていたが、こんなことがあってはタイムパラドックスどころじゃないだろう。では何か。俺の夢か。度が過ぎたリアルは残酷だ。


彼は俺の様子を見て少し残念がって、ひらひらと胸につけた名札を見せた。森崎沙良、と細い字で書かれていた。沙良、沙良、さら。ダメだ。記憶の一片にすら引っかからない。

男にしては伸びた真っ黒い髪の、目にかかったのを薬指と小指で払い除けると彼はまた笑った。今度は溌剌と年相応に。それが余計に俺の不安を煽って、なぜだかまた泣きそうになるのだ。

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