「邪馬台国」即ち「本家ヤマトたる日向国勢力」!!

 歴史とは、バラバラの事実がそれぞれ独立して縦に並んでいるだけではありません。


 一つ一つの事実に因果関係があるのです。何らかの歴史的事実があるからこそ、それを原因として次の歴史的事実が生じるのです。

 それを時系列で並べた時、「歴史観」という概念が生じます。


 多くの邪馬台国諸説には、その歴史観が見えてきません。そこが弱点だと言えます。

 逆に言えば、明確な歴史観が見えると、そこに政治力学という新たな視点も生まれるのです。これもまた、極めて重要です。


 幸田はここで主張します。魏志倭人伝を読み解くという作業は、本来、歴史観の構築なのです。またそこには、政治学的視点も必要なのです。

 それらを構築するためには、

「卑弥呼邪馬台国時代だけ・・を考えてもダメだ」

 とも言えます。3世紀前~中盤の邪馬台国を「点」で捉えるのみならず、縦軸横軸をも考慮すべきなのです。3世紀より前にも遡り、歴史を俯瞰すべきなのです。

 そういう姿勢で望むべきだ、という新たな思考メソッドを提示した上で、さらに考察を進めます。


 神武天皇は紀元前1世紀頃、日向国を出立し、畿内への東征を果たしました。


 何故、紀元前1世紀なのか。――

 日本書紀の記述からすれば、神武東征は紀元前660年頃という計算になります。しかし古代の日本は月読つくよみ暦(通称「春秋暦」)という、春と秋にそれぞれ1年と加算する……つまり現在の1年を「2年」とカウントする「二倍年暦」だったと考えられます。ですのでそれで計算し直すと、実は紀元前660年ではなく、大体紀元前1世紀頃という結果になります。


 これはつい先日若くして亡くなられた、第73代武内宿禰こと竹内睦泰氏もそう唱えています。

 またアマチュア研究家の長浜浩明氏も、神武天皇が上陸した河内地方の神武伝承と、古代大阪湾の海岸線や地形を検証し、同じく紀元前1世紀頃であると著書にて主張されています。

 加えて考古学的根拠もあります。畿内において紀元前1世紀頃の、やじりの出土が急増するのです。これはまさにその当時、突如戦乱が発生した動かぬ証拠です。神武東征のせいでしょう。


 紀元前1世紀頃に東征した神武政権は、その後おそらく畿内地方にて長らく苦戦します。それを本家ヤマトたる、日向国勢力がバックアップします。


 これは、有名な西都原古墳群の考古学的成果から判明します。膨大な遺物から、古代日向国勢力は瀬戸内や畿内と大々的な交流、交易が行われていたと考えられるのです。日向国勢力が強大であったからこそ、他地域の物品が当地に多数集まったわけです。


 日向国勢力は温暖で肥沃な環境、外敵に攻め込まれにくい地形等々幾つもの条件に恵まれ、神武東征後も長く栄えます。

 その証拠に県内全域から、膨大な量の縄文弥生の遺物が出土しています。これは全国有数と言えるのではないでしょうか。おそらく古くから大人口を抱えていたのでしょう。

 また全長100m級の、前方後円型墳丘墓(弥生後期)や初期型前方後円墳(古墳時代初期)をはじめとする、全国有数の「古墳地帯」です。


 つまり神武東征の頃はもとより、卑弥呼邪馬台国時代もそしてその後も、古代日向国には強大な勢力が存在しました。

 それが、いわゆる「本家ヤマト」日向国勢力です。


 前述の通り日向国勢力は、畿内で苦戦する「畿内ヤマト」勢力を、本家ヤマトとして長らくバックアップし続けました。


 日向国の本家ヤマト勢力は、驚くべきことに大量の鉄器生産力を有していました。アマチュア日高祥氏の研究によれば、宮崎平野で膨大な数の「たたら製鉄炉」が見つかっているそうです。

 また記紀伝承をも考慮すると、本家ヤマト勢力は、同じく強大な鉄器生産力を持つ隣国「豊の国」(大分県)をも、配下に収めていたと考えられます。それらの生産力でもって、長らく畿内ヤマト勢力を支援し続けた。これが列島内における他勢力に対する、本家ヤマトと畿内ヤマトのアドバンテージだったのではないでしょうか。


 畿内ヤマトは神武天皇以降約10代、苦難の末ようやく確固たる地盤を築いた。一方本家ヤマトも日向国を中心に長らく栄え続けた。それこそが卑弥呼邪馬台国だ……という幸田の推測に、どこか無理があるでしょうか。

 記紀の記述との兼ね合いからも、実に自然な発想だと言えるのではないでしょうか。


 なお、卑弥呼邪馬台国が宮崎であった根拠については、次章にてさらに詳しく述べますので、いま暫くお待ち下さい。


 ここで先に述べるべきは、魏志倭人伝における、

「女王国より以北、その戸数、道里は略載を得べきも、その余の旁国は遠くして絶へ、詳を得べからず。次に斯馬国有り。次に巳百支国有り。次に伊邪国有り。次に都支国有り。次に弥奴国有り。次に好古都国有り。次に不呼国有り。次に姐奴国有り。次に対蘇国有り。次に蘇奴国有り。次に呼邑国有り。次に華奴蘇奴国有り。次に鬼国有り。次に為吾国有り。次に鬼奴国有り。次に邪馬国有り。次に躬臣国有り。次に巴利国有り。次に支惟国有り。次に烏奴国有り。次に奴國有り。ここは女王の境界尽きる所」

 という記述でしょう。またその後に、

「その南、狗奴国有り。男子が王と為る。その官は狗古智卑狗有り」

 という記述が続きます。


 これはつまり、卑弥呼邪馬台国たる宮崎平野を北上するルート上に、存在する国々(というより都市群)だと思われます。

 九州東部をぐるりと一周するか、もしくは途中高千穂辺りで九州山地を横断し、阿蘇山付近を通過して再び佐賀平野~筑後平野の奴国に戻るルートだろう……と幸田は想像します。呼邑こゆ(児湯)や対蘇とす(鳥栖)、支惟きい(基肄)など、今日の地名を連想させる国名(都市名)が並び、そして奴国に戻るのです。


 その奴国の南に、狗奴国があるのです。即ち熊本平野北部辺りです。

 狗奴国を熊本平野北部とする幸田の考察についても、次章に譲るとして……如何でしょうか。位置関係等々、実にスムーズかつ合理的な解釈だと思いませんか!?

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