目に見えないものを互いに理解するのは難しい
前節に続き、今度は目に見える固有名詞ではなく、目に見えない(形を為さない)「抽象概念」について考えましょう。
例えば「国」という抽象語句について、倭人と魏朝の人々の間で、はたして本当にイメージが一致していたのでしょうか。
魏志倭人伝には、対海国(対馬)、一大国(壱岐島)、末盧国、伊都国、奴国……等々の国名が挙がっています。表記は全て「国」です。
ですがその規模はそれぞれ、千余戸、三千許家、四千余戸、千余戸、二万余戸……とバラバラです。
本当にその全てが、倭人即ち卑弥呼邪馬台国における行政単位「国」だったのでしょうか。
これは非常に怪しいと言わざるを得ません。
千余戸しか無い伊都国が、本当に「国」だったのでしょうか。卑弥呼邪馬台国は魏志倭人伝に伊都国と書かれている重要拠点を、実際に国とみなしていたのでしょうか。
実は、そこに何ら確証はありません。
その一方で、二万余戸規模の奴国は、確かに「国」だったかもしれませんね。千戸そこらの集落も、二万戸オーバーの集落も、卑弥呼サマ達がどちらも「国」とみなしたかどうか、疑わしいところです。
ですが語学テキストも辞書も存在しない当時、双方が不充分なコミュニケーションを重ねる中で、魏朝の人々が倭国に点在する大小の集落を
何故なら西洋もそうですが古代中国大陸もまた、治安が極めて悪かったせいで、国といえば城壁に囲まれた狭いエリアを指すからです。
そういった常識の中で暮らす魏朝の人々から見れば、倭国の集落はどれもこれも広々としていて、その威容をことごとく「国」と認識したかもしれません。一部の公的施設や首長クラスの住まいがちょっとした環濠に囲まれていますが、その周囲には住居や田畑が見渡す限りどこまでも続いているわけですから。
ですが他方、卑弥呼邪馬台国の人々に言わせれば、奴国以外は国より小さい「里」だとか「郷」といった行政単位だった可能性があります。
そういった齟齬は、異文化コミュニケーションにおいて頻繁に発生するもの……と考えておくべきでしょう。抽象概念、抽象語句ほど、双方のイメージや認識がちゃんと一致しているという保証が無いのです。
「そんな細かいコト、どっちだってイイじゃん。魏志倭人伝謎解きには関係ないっしょ(ワラ」
と思われる方も、いらっしゃるかもしれません。
いえいえ、決してそんな事はないんですよ。
卑弥呼邪馬台国に関する記録は、我が国の歴史書には一切存在しません。だから全て、魏志倭人伝を始めとする大陸の歴史書に依存します。
ですからその読み方、解釈を誤ると、当時の我が国の歴史観が大きく狂ってしまうのです。
そしてその結果、詳しくは後述しますが学者先生方の諸説、諸解説本において「政治力学的視点」というものが完全に欠落しています。
その原因のひとつは、最初の章で指摘したように、
「ある種の思惑があって、我が国の古代史を歪めたいがため」
でもあるのですが、もうひとつの原因が正に、歴史観が大きく狂っているためだと思われるのです。
魏志倭人伝が千戸そこらの小集落さえも「国」と表現している点に引き摺られ、学者先生方は卑弥呼邪馬台国時代を、
「弱小国、弱小勢力が多数集まった『邪馬台国連合体』の時代」
と、歴史観を矮小化している……と幸田は考えます。
ですが古事記や日本書紀を読むと、実際の九州は筑紫、肥、豊、日向の四カ国(プラス、「熊襲」……大和朝廷支配の及ばない国)だったと判ります。
そういう具合に、九州のみならず当時の倭国全体の政治、行政に目を向けると、そこには自ずと「政治力学的視点」が必要になってきます。しかし諸説においてはそれが欠落している、と言わざるを得ません。
というわけで、異文化コミュニケーションとはどういうものなのか、どんな性質がありどんな問題が生じるものなのか……という点に留意すべきだと幸田は考えます。
目に見えない概念を身振り手振りで一生懸命説明しても、それがストレートに相手へ伝わるとは限りません。往々にして勘違いやすれ違いが生じるものなのです。
もうひとつ、例を挙げるとすれば、「鬼道」という言葉でしょうか。これまた抽象概念です。
魏志倭人伝には、
「……一女子を共立して王と為す。名は卑弥呼と曰う。
という記述があります。
この「鬼道」という文字を見るなり、知識豊富な人が早速、
「なるほど。んじゃ卑弥呼サマは大陸の五斗米道(道教系の宗教集団)と関係があるんやな。……まさか卑弥呼サマは大陸ルーツの人なのか!?」
などという事を言い出すわけです。
いやいやいや(笑)。違いますよ。
それは思考の飛躍というものです。論理的に、そんな繋がりは成り立ちません。
この鬼道という言葉こそが、異文化コミュニケーションにおける問題を象徴しているんですね。
倭人は卑弥呼の役割やスキル――いわゆる古神道シャーマニズム――について、おそらく身振り手振りを交えながら一生懸命、魏朝の人々に語ったと思うのです。
それを見聞きした魏朝の人々は、自らの知識からイメージし、
「なるほど。つまり、鬼道か!!」
と誤解してそう報告書に記したわけです。決して、卑弥呼が(彼らの言う)鬼道を業としていたわけではありません。それとは似て非なる「我が国独自の巫術」だ、と現代の我々は解釈すべきなのです。
なにしろ我が国には、太古よりオリジナルの古神道が存在するわけですから。
異文化コミュニケーションは、ただでさえ非常に難しいです。何度も繰り返しますが、当時は辞書や語学テキストすら無いわけですから、尚更困難だったことでしょう。
そういう視点があれば、魏志倭人伝の読み方も変わってくるというものです。
魏志倭人伝研究は既にやり尽くしたかのように思われています。考古学上の新たな進展などが無い限り、これ以上何も判らないのではと思われています。
いえいえ、決してそんな事はありません。もう少し科学的論理的に眺めれば、まだまだあちこちに再考の余地があるのです。そこを突き詰めれば、珍説奇説の根拠が消え、諸説の整理統合が進むのです。
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