魏志倭人伝とは

 前節において述べたように、魏志倭人伝とは「三国志」と呼ばれる一連の歴史書の一節です。

 著者は陳寿。非常にレベルの高い歴史書編纂者と評価されてます。

 彼が編纂した「三国志」のうち、魏の歴史を記した「魏書」に、周辺諸国の事情を詳述した巻があります。そのうちの一つが、第30巻「烏桓鮮卑うがんせんぴ東夷とうい伝」です。


 さらにそのうちの一節が、「倭人伝」です。通称「魏志倭人伝」と呼称されます。

 文字数にして2,000字弱。

「たったそれだけかよ」

 と思われるかもしれませんが、漢文の2,000字弱ですから結構な情報量だと言えます。


 一説によると著者陳寿は、

「倭人伝を書きたかったからこそ、三国志の編纂に着手した」

 という言い伝えがある程、日本の歴史を書くことに意欲を持っていたそうです。


 何故か。――

 我が国の事が大陸の歴史書に記されているのは、紀元前3~4世紀頃の「山海せんがい経」が最初だと言われています。しかしあちらの人々には、もっと以前より我が国の存在が知られていました。

 それも、

「倭国というユートピアに住む、倭人という穏やかな人々」

 というイメージを持っていたようです。


 そのため名君として知られる、紀元前11世紀頃の太伯は、晩年ユートピア日本に憧れ移住した……という伝説があります。

 また紀元前5世紀頃の人、孔子も、倭国即ち日本に憧れていたという話が残っています。孔子は正に、古代日本人をイメージしつつ儒教思想を確立したのかもしれません。


 大陸には昔から「中華思想」というものがあります。

「我が国こそが世界の中心。世界をリードする一等国。その一方で周辺国は全て、未開国に住む野蛮人」

 とみなし、大概「けものへん」付きの国名、民族名で呼称し卑下していました。しかし例外的に日本人だけは、「にんべん」付きの「倭」という文字を当てたのです。


 その理由は、恐らく縄文日本が今日考えられている以上に進歩的で、ユートピアだったからでしょう。

 実際、古代日本人は世界に先駆けて磨製石器や土器を発明し、極めて高度な文明を有していた蓋然性が高いのです。

 考古学的成果から、温暖で食糧が豊富だったため、手間暇のかかる農耕が不要だった。狩猟採集経済だったにもかかわらず、ひとところに何千年も定住出来た……と判明しています。つまりスローライフを謳歌しており、高度な文化が発達したと考えられます。


 また驚くべきことに、戦乱の痕跡が皆無なのです。縄文人骨は日本各地で数千体出土していますが、そこには人同士で争って負傷した痕がありません。そして埋葬状況を見るに、身分差貧富差がなく、男女差もないと判明しています。まさにユートピアです。


 思うに、そういった縄文日本のイメージを大陸人は昔から持っており、陳寿もまた、ユートピア日本に強い興味を持っていたのでしょう。


 では、陳寿は魏志倭人伝において、古代の日本をどうリポートしているのでしょうか。

 それは次章以降、詳しく述べたいと思います。その前に、魏志倭人伝を読み解くための、前提となる諸問題について述べます。

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