p.51 ケルオン城
湿気たかび臭いにおいが充満する。お世辞にも居心地が良いとは思えない暗闇が目の前に広がり、この先に進むことがためらわれる。ルーシャには自分と師匠の手にある魔法の光があまりにも儚く感じられる。
昨晩、ナーダルよりケルオン城に足を踏み入れる必要があること、正面から入れないため不法侵入となること、リーシェルに鉢合わせるリスクとその場合に想定される危険について話を聞いていた。結局ナーダルはルーシャが以前に聞いた〈第二者〉や〈第三者〉というものについて何も教えてはくれず、ルーシャは師匠の覚悟だけを昨晩知ったのだった。
ナーダル曰く、ケルオン城の地下へと続く地下道があるということだったが、そこに降り立ったルーシャは先を歩くナーダルに置いていかれまいと必死だった。
地下道には下水が通っており、汚水が溜まりそこから発せられる臭いが強烈で息をすることすら難しい。衛生環境が劣悪な場所に、田舎育ちのルーシャでさえも身の毛がよだつがナーダルは躊躇うことなく先へ進んでいく。
首都から随分と離れた場所にある森の中に、ぽつんと誰も住んでいない一軒家があった。もはや廃虚と化したそこは、それなりの広さと設備があったであろう小屋のようだった。その家の暖炉の床に地下道へと続く隠し扉があり、ナーダルは躊躇うことなくその中に入り、ルーシャは躊躇いながらも師匠の後についていった。
「こんなところがお城に繋がっているんですね・・・」
緊張が高まっていくのを感じながら、ナーダルの背中に話しかける。腐敗臭の漂う暗闇で沈黙が続くと、より一層恐怖が助長されるため何か話して気を紛らわそうと必死だった。
「随分昔の下水道だよ」
振り向くことなくナーダルは答える。この声がいつもより緊張していることは言うまでもない。
いくつもある曲がり角をナーダルは躊躇うことも迷うこともなく曲がり、進んでいく。まるでその道筋が見えているかのような足取りだった。進みながら取り留めのないことを話してルーシャは何とか沈黙を避けようとしていた。
暗闇はそれだけで簡単に人を恐怖とパニックへと誘う。そこへ見つかって捕まれば殺されるかもしれないという現状が加われば、ルーシャが今までの人生で一番緊張していてもおかしくはない。ナーダルは平静を装っているが、目の前で自分の両親を殺し、命を狙ってきた相手の懐にはいるのになんの迷いも恐怖もないわけではない。
「一度だけ通ったはずなのに不思議と覚えているもんだね」
今まで淡々と前だけを見て進んでいたナーダルがルーシャのほうを振り向き、にこりと笑う。その笑顔にルーシャの胸が強く痛む。
この古い地下道はかつてナーダルが反乱の夜に命からがら城から逃げ出した際に使った道だった。もともとナーダルもレティルトも城にある抜け道などはいくつか把握しており、リーシェルが牙を向いたあの日にその抜け道が役に立っていた。
目の前で裏切られ戦火となった城からナーダルが如何程の思いで、この闇に包まれた道を歩いたのかなど想像もできない。暗闇への恐怖も、追っ手の恐怖も、裏切り者への憎しみもあったであろう。そして、何も出来ずに逃げることしかできない悔しさや、目の前の現実への絶望もあったはず。
「僕と兄さんはね、あの日ひとりの騎士に救われたんだよ」
前後に闇が広がるなか、ナーダルは振り返ることなくルーシャに話しかける。深い暗闇に惑わされないように、そっと優しく語りかけられる声は優しくもどこか切ない。
「裏切りしかなかったあの夜、騎士でもあり友人でもあった彼がいなければ僕も兄さんもここにはいなかったよ」
どれくらい地下道を歩き、角を曲がってきたのかもわからない。暗闇に時間と方向感覚を奪われ、ルーシャは途方もない闇の中にいるような気がしていた。
そんななか、ふたりの手に持つ魔法の光がひとつのものを照らし出す。
「ここだよ」
地上へと続く古びて錆だらけの梯子はしごが目の前に現れた。錆がこびりつき、体重をかけただけでポキッと折れてしまいそうな何とも頼りないそれをナーダルは躊躇いなく登る。ルーシャは少し距離を取ってから意を決して梯子を昇る。両手が移動に取られるため、ルーシャは自分の周りにいくつか魔法で光を生み出しそれで周囲を照らす。
少し登ったところでナーダルは天井にある扉に手をやり、躊躇うようなどなく軽く叩く。敵の牙城に乗り込むというのに思ったよりも大胆な師匠の行動にルーシャのほうが冷や汗をかく。
少しして扉が躊躇いもなく開かれ、地上の光が暗い地下道に差し込む。ルーシャはその明るさに目を細め、ナーダルは開かれた扉に向かって進んでいく。
扉をくぐって地上へ立ち、ルーシャは思わず辺りを見回す。あたりは優しく外の光が入り込んだ、とても静かな場所だった。いくつかの木製の長椅子が同じ方向に向かって並べられており、それらの向いている先には祭壇があった。どうやら聖堂のようで、ルーシャはとんでもないところが城と外界を結んでいたのだと驚く。
ナーダルとルーシャはちょうど、祭壇の下あたりにあった隠し扉から地上に出ていた。祭壇の床には重厚な敷物がしかれ、聖書の一場面を織り込んだようなデザインで、それが普段は隠し扉を隠していたのだと分かった。
「お久しぶりでございます」
ひとりの修道女がナーダルに向かって頭を下げて挨拶をしていた。
「こちらこそ。この時間ならあなたがここにいると踏んで正解だったね」
ナーダルも頭を軽く下げ会釈をし、周囲を見渡しながら言葉を発する。にこりと笑い修道女を見つめる姿に、ルーシャはいつものではない、王子としてのナーダルの側面を垣間みる。
「ナーセルト王子が帰城なさること、この二年ほどお待ちしておりました」
真っ直ぐとナーダルを見つめる修道女の瞳は強い光を宿している。
「あのまま逃げて帰ってこないとは思わなかったんだね」
修道女の言葉にナーダルは軽く笑いながら、真意を尋ねるように言葉を返す。
「王子には友から託されたものがありますでしょう?」
ふっと修道女は笑って何かを見透かすかのようにそう言い、目の前のナーダルに笑いかける。
「神職者はほんと怖いね」
笑ってそう答えたナーダルは目の前の修道女を真剣な瞳で捉える。
「ここには迷惑をかけないようにするよ」
談笑時には見せなかったナーダルのその瞳を修道女は正面から受け止める。どこか決意に満ちたような言葉の端には、昔を映すかのようななんとも言えないナーダルの感情が込められる。ナーダルと修道女のやりとりや、話す態度から互いに顔見知りであること、反乱のあの日にも関わりがあったことがルーシャでも容易に想像が着いた。
「いくらリーシェルとは言え簡単に神域を侵すことはしないけど、あの人なら必要とあらば神でさえも殺しかねないしね」
「そうなれば、あの方はご自分を取るに足らない人間であると忘れた愚か者ということでしょう」
ナーダルの冗談交じりの言葉に修道女は笑みを浮かべたまま扉の外へ目をやり、この場にいない国の支配者を思い浮かべる。確かにリーシェルは反乱のあの日、聖堂がナーダルを一時的に匿ったこと、そしてそのせいでナーダルを取り逃してしまったことを分かっていたが聖堂を攻撃することなどなかった。反乱が終わってからも聖堂への予算や扱いは変わらず、神域を下手に侵す気配などはない。だが、力と恐怖で人々を掌握した最強の女騎士が何をしでかすかはわかったものではない。
リーシェルがその気になれば神域を侵すことなど容易い。聖堂を破壊し、神職者を惨殺することなど雑作もなく行い、そして世間への見せしめにさえもするだろう。自分に逆らえば神をも恐れることなく殺すと・・・。
「まあ、実際に凡人ではないけどね」
苦笑いしながらナーダルはポツリと呟く。非凡な人間であることは間違いはないし、それは望んでも誰もが手に入れられる才能でもない。リーシェルがいたからこそ、ロータル王国の平和が保たれ諸国とのいざこざは解決出来ていたのは間違いがないことだった。若くして将軍までかけ登った女騎士が築き上げた経歴は彼女の実力そのものを示していた。
「お気をつけて、王子とお連れの方」
修道女に見送られて二人はそっと、聖堂の扉を開けて外へ出る。ナーダル曰く、反乱の時にこの聖堂に逃げ込んだおかげで外へ脱出でき、生き延びることが出来たのだった。そして、ここは城の敷地内でも南東のはずれに位置しており、リーシェルがいるであろうケルオン城までは距離がある。
ケルオン城は広い敷地を持っている。中央に城が存在し、南東には聖堂が、北側エリアには小さな森と植物園や薬事に関わる施設があった。西側は主に軍部施設があり、王国軍の宿舎や訓練所、武器庫などがある。聖堂よりやや北にあたる東エリアには侍女や料理人といった城で働く人間のための宿舎がある。
聖堂を出た二人はナーダルの記憶を頼りに、まずは東エリアに向かう。ここで何らかの職業の服を拝借する算段だった。さすがに今の格好で城内をうろつくのはリスクが高すぎるし、何かあっても魔力協会の人間でまかりは通らない。協会の人間だと知られれば、リーシェルへの客人だと思われ彼女の元へ誘導されるなり、存在が耳に入ってしまいかねない。
慎重に聖堂から東エリアに続く渡り廊下を歩んでいく。周りは木々や植物で覆われており、今のところ人目に付く様子はない。さらに聖堂は普段から人が通うことなどもあまりないため、聖堂へと続く廊下で人とすれ違うことすらもない。人が行かない聖堂というのも、信仰の面で心配なところではあったが今は誰ともすれ違わず、ルーシャはラッキーだと捉えていた。
それなりに身なりを整えているとはいえ、下っ端の者ならともかく肩書きある役職の人間に出くわしてしまったなら、変に勘ぐられてしまう可能性もある。さらにここにはナーダルのことをよく知る人間も多数いており、ナーダルの雲隠れの魔術の効力が発揮されない可能性が非常に高い。とにかく潜入するためには早急に東エリアにたどり着かなくてはいけない。
緊張感をひた隠しながら、ふたりは何食わぬ顔でここにいることがさも当たり前かのような雰囲気を醸し出しながら敵の領域を進んでいく。
──────────
つ、ついにロータル国の要・ケルオン城に来た!
城に辿り着くまでのあの地下道がもう暗すぎて、汚すぎて、怖すぎた。マスターが反乱のあの時、たった一人で殺される恐怖も抱えながらあそこを通ったんだと思うと・・・。
怖いとか、つらいとか、悲しいとか、やりきれないとか・・・きっと、そんな言葉なんかじゃ言いきれない気持ちだったんだろうな。
マスターが昔のこととか言うことが滅多に今までなかったから、地下道で話してくれた反乱の日に助けてくれた人って、本当にマスターとレティルトさんにとってかけがえのないもの存在だったんだなー。
そう言えば、ハッシャール雪原でマスターとレティルトさんが再開した時、誰かのことを聞いてたけど・・・きっと、その人のことだったんだ。
正直、リーシェルさんの超お膝元ってだけでも怖い。マスター見つかれば殺されるかもしれないし、お城に不法侵入してるから私も殺されるかもしれないし。
そこまでリスクを冒してまで、マスターのやらないといけないことって何なんだろう?
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