p.41 聖本部

 レティルトは躊躇うことなく宿屋の部屋に敷かれている絨毯を剥がし、どこか年季の感じる木の床を露呈させる。そして、またナーダルの鞄を躊躇うことなく漁りひとつの道具を取り出す。それは何の変哲もないチョークで、魔力を一切感じることのない普通の代物だった。




 魔法や魔術の発動には神語が必須であり、求める効果によってはさらに道具を使って魔力の補充をしなくてはならないことがある。魔力を含む植物や特殊な魔道具なとを使用するケースが多いが、普通の市販のチョークを使うことも多い。神語を書くという行為は慣れれば自分の魔力で行えるが、見習いたちは最初はまずチョークに自分の魔力を練り込みながら実際に書くという行為から始める。そうして魔力の扱いに慣れてから、自分の魔力だけで神語を書くことができるようになる。




 また、それ以外にも制約のある魔法術には陣というものが必要となってくる。レティルトの行っているのはまさにそれで、宿屋の一室に人二人分が入る魔法陣を書き上げる。魔力でその陣を描くだけではなく、だいたいの陣の必要な魔法術には魔力の他に有機物を必要とすることが多い。有機物なら何でも良いのだが、チョークは岩や木々といった多くのものに書くことができる上、失敗した時に消すのも簡単であるため魔法術師たちは好んで使用することが多い。




「じゃ、行くか」




 レティルトが完成させたのは、魔力協会員なら知っている──本部へ繋がる空間を開くためのものだった。魔力協会の本部は、存在そのものが権威であり、敵対組織から狙われやすい。そのため公にどこにあるのかは明示されず、協会員のみが魔法陣を用いて足を踏み入れられることが出来る。さらに魔法陣はセキュリティの観点から定期的に更新される。もちろん、各国の要人たちが本部に行く必要がある時は所定の手続きを行うことで、協会員同行の元足を踏み入れることが出来る。




「行ってきます」




 空間に足を踏み入れる直前にルーシャは振り返り、眠ったままのナーダルと、そのそばでこちらを見送るオールドに言葉をかける。オールドは無言のまま頷き、消えゆくレティルトとルーシャを静かに見送る。








 魔法陣から転移し、足を踏み入れたそこは黒が支配する空間だった。床や天井といった概念が一切なく、ルーシャが立っているそこが床なのか何なのか分からない。ただ、黒い空間にいる──それだけが真実だった。


 平衡感覚が失われるが、ルーシャのその手をレティルトが強く掴み、正しい方向へと導く。




 ナーダルが時折、空間移動を行うことがあり、ルーシャはそれに引っ付いて空間という場所に足を踏み入れることはあった。だが、魔力協会本部へ行くための空間へ来たのは初めてであり、普段の空間移動とは異なる黒い空間に息を呑む。本部を守るためのあらゆる魔法術が空間そのものに施され、何も知らずに来た外敵を阻もうとする。それは、外部の者を阻むだけでなく経験の浅い見習いが師匠に黙って本部へ行かないようにという意味合いも兼ねている。






 レティルトに導かれるがままに黒い空間を進み、ひとつの小さな空間の割れ目へと辿り着く。その割れ目から光が僅かに漏れでており、二人はそこへ足を踏み入れる。徐々に眩くなる光をくぐり抜ける。


 暗闇に慣れた目は光を受け入れるには時間を要した。光を痛いと感じながらも目を開けたルーシャの眼前には言葉を失う世界が広がっていた。溜息をつきたくなるほど爽快な青空が広がり、ひと息吸う度に胸に染み渡る空気は澄みきり、ルーシャの足元には眩いほどの緑が広がる。広大な草原には可憐ながらも色とりどりの花が咲き誇る。秘境にでも足を踏み入れたのかと思うほど、目の前の世界は澄みきり輝いている。




 周囲を見渡すルーシャは、大きく伸びをするレティルトの背後に見える建物に息を呑む。美しい世界に自然と溶け込む建造物は、自然のひとつのように見えるほど美しい。高くそびえ立つ円形状の建物の壁は白く、汚れなど見受けられないほど美しく太陽の光を反射して光っているかのようにさえ見える。




「あれが世界最大の大図書館だ」




 目の前の建物に目を奪われるルーシャに対し、レティルトは獲物を捉えたかのような瞳でそれを見据える。




 聖本部は、別名「知恵を司る場」と呼ばれるほど世界中のあらゆる知識が集まる場所だった。それは世界一の蔵書数を誇る大図書館があるから──というわけだけではない。聖本部には医術、生物学、化学、地学、天文学、薬学・・・あらゆる分野の研究所が立ち並ぶ研究街と呼ばれる一角がある。多才な人間が集まり、それぞれの分野の研究を行い、またその成果を近くで垣間見る機会も多く他分野の研究を間近で感じられる。一見、なんの関係もないような分野であっても、それぞれに繋がりはあり、研究者同士が繋がり会うことの出来る環境──それがあるおかげでそれぞれの研究は進んでいる。




 また、研究者に最適な環境を提供できるよう、本部周囲には豊かな自然を守った森や山が数多くあり、自然科学分野ではフィールドワークが気軽に行える。研究に相応しい環境や設備、そして人を育てるのに必要な人と関わる機会──それらが備わった場所こそが「知恵を司る」と呼ばれるに相応しい。




 魔力協会は創設時から、あらゆる分野の探求に貪欲だった。それが魔力に関与するかどうかなど関係なく、世界を統べる組織として世界の仕組みを解明すべきだと初代会長・イツカが提言したからだという。その影響か、魔力協会が発足してからのこの七百年あまりの文明の発展は著しい。聖本部はまさに魔力協会の活動を代表するもののひとつであった。








 大図書館に足を踏み入れたルーシャはレティルトとともに数多あるジャンルから、呪学に関する書籍が集められている九階へ足を運ぶ。大図書館の受付には本の貸し借りに関する司書や、図書館の案内を請け負う協会員、警備に目を光らせる警備員などが数多く存在していた。さらに地下から地上まである大図書館の案内図や、図書のトピックスなどを知らせる掲示物にあふれ、初めて訪れたルーシャは思わずどれも見て回りたくなる。だが、ここへ来たのは単なる好奇心からではない。




(マスターを助けなきゃ)




 不運にも呪いを受けた師匠を助けるため、その手がかりを得るために来た。目的の階へ向かうエレベーターのなか、隣に立つレティルトの横顔は引き締まり表情はかたい。情報通であり、それなりの知識と技術を有するレティルトだが、彼は魔法術師であり魔導士でも呪術師でもない。呪いという複雑な構造をもつものに対しては素人のようなものだった。




(・・・なんでバレないんだろう?)




 ふと、レティルトの横顔を見ていてルーシャは不思議に思う。レティルトは誰よりも王たる資質があるといわれた元王子様で、文武両道かつ品位方正、そして何よりも顔立ちが整っていることで有名だった。絵本に出てくるような完璧な白馬の王子様──ルーシャの勝手なイメージではそんな人物だった。そんなレティルトがふらふらと魔力協会の本部に足を踏み入れているというのに、誰も彼に気づいている様子はない。




 魔力協会の人間はレティルトが魔力協会の施設に足を踏み入れていることなど珍しくもないのだろうかと思ったが、慎重派のレティルトが魔力協会を信用するとも思えない。案外オーラがないのだろうか──などと考えているあいだに目的の九階へ辿り着き、ルーシャはそこに広がる本の世界へ身を投じる。




 レティルトの言う通り、呪術の本は内容が難しくルーシャはすぐに頭が痛くなる。基礎的なことですら難解な数式のような神語の羅列で、それらひとつですらルーシャには訳がわからない。せめてと思い、様々な呪いに使う記号が記された本を開きナーダルの腕に刻みつけられていた記号と類似したものはないかと探す。全く一緒でなくても似ているものがあれば、それに派生した呪いだと考えられる。




 レティルトはレティルトで、何か考えがあるのかいくつかの系統の専門書を片っ端から漁っているようだった。




「ルーシャ?」




 名前を呼ばれルーシャはその声の主を探す。魔力協会で知り合いなど片手で数えるほどしかおらず、聞き間違いかと思った。だが、その声は間違うことなく自分の名前を呼んでいる。




「・・・ケイディさん?!」




 その姿を見てルーシャは思わず叫び、はっと自分の口を手で覆う。静かな図書館に響く静寂をやぶり、周囲の人間はルーシャのほうに冷たい視線を突き刺す。




 目の前に飛び込んで来たのは息を呑むほどの美女で、その姿はかつてセルドルフ王城で目にしたことがあった。ルーシャが魔力協会にはじめて関わり、ナーダルと出会うきっかけとなった王冠失踪事件に居合せた魔法術師の一人だった。




「久しぶりね」




「はい。ケイディさん、ご結婚おめでとうございます」




 再会に喜びながらも、ルーシャはケイディに祝いの言葉を述べる。


 魔力協会には、月に一度発行される協会誌というものがある。魔力協会を取り巻く最新ニュース、セミナーのお知らせ、コラム、そして新たに公認された師弟について載せられている。ナーダルが定期購読しているためルーシャも協会誌を見る機会が多く、少し前の協会誌で魔力薬師最高責任者・ケイディと魔力協会軍部将軍・ストイルが入籍したというニュースがトップ記事として扱われていたのを思い出す。




 二人が出会ったのはセルドルフ王国で、その時から仲は良さそうだなとルーシャは勝手に思っていた。どういう経緯で結婚となったのかは分からないが、スピード婚だという認識が強い。春あたりには結婚の記事を見たため、二人の出会いからすると二、三ヶ月でゴールインということになる。




「ナーダルさんは?」




 きょろきょろと周囲を見渡すケイディも、おそらく協会誌からルーシャがナーダルの弟子となったことを知ったのだろう。ルーシャは何を切り出すべきか悩む。呪いの件を伝えれば、何故そうなったのかと問い詰められるだろう。ナーダルの個人情報は死守しなければならないし、何より今はリーシェルから逃げ続けているレティルトも一緒だ。彼のこともバレるわけにはいかない。




 ぐるぐると言い訳を考えているルーシャの隣にいたレティルトと、返答を待つケイディの目が一瞬合う。




「あら、あなた・・・どこかで」




 ルーシャのすぐ隣にいたレティルトを見てケイディは何かを考え出す。




「こんな美人さんと出会える機会なんて俺にはそうそう・・・」




 レティルトは作り笑顔でそう言うと、静かにルーシャを手招きする。その瞳は「逃げるぞ」と言っており、ルーシャもせっかくの再会だがレティルトの命令に従う他ない。だが、ルーシャたちが動くよりも先にケイディが動く。




「つれないわね、レティルト王子」




 にこりと笑うその顔は美しくも怖く、その細い腕で信じられないほど強い力でレティルトの腕を掴む。まるで獲物を捉えたかのようなケイディに、レティルトは参ったように項垂れる。




「お久しぶりです、ケイディ女史」




「本当にね」




 腕を組んでこちらを見るケイディは勝ち誇ったようにこちらを見ている。


 レティルト曰く、今は魔力薬師最高責任者として名を馳せているケイディだが、かつては天才美人薬師として有名だった。若くして難度の高い調合を数々こなし、学会では画期的な意見や研究結果を発表しては薬学の発展に寄与していた。そんな天才薬師はもちろん地位も名誉も手にしていき、一国の王城の薬室を簡単に視察でき伝統的な技術を学ぶのも容易な立場にあった。有名人のケイディは、かつてロータル王国に訪れ、まだ王子だった頃のレティルトと軽く面識があった。




 ケイディの経歴に、ルーシャは「神様は二物を与えることもあるんだ・・・」と神様を少し恨む。美人かつ天才など、神様にどれほど愛されて才能を与えられているのだろうか。




 レティルトは周囲に気を配りながらも掻い摘んで今までの経緯を、ナーダルのことを小声で話す。呪術師ではないが天才薬師のケイディならば、呪いの治療に携わることもある。呪いの解除は基本的に呪い構造を壊す必要があるが、種類によっては薬によって呪いを受けたものが体内から相殺することもできるという知識も本から得ていた。




「呪いを貰い受ける人には見えないのにね」




 黙ってレティルトの話を聞いていたケイディは率直な感想を述べる。そして、いくつかの呪いに関する質問をレティルトにぶつけ、その表情はどんどん厳しくなっていく。投薬で治せる呪いは非常に限られており、ナーダルの呪いがそれである可能性は奇跡に近い。




「残念ながら薬師の私には、その手のことはさっぱりね」




 静かに瞳を伏せそう告げる瞳に、ルーシャとレティルトは何も言えなくなる。ケイディが呪術に精通しているものではないとは分かっていたが、何も期待せずにはいられなかった。肩を落とす二人に対し、ケイディは申し訳なさそうながらもひとつの提案をする。






「でも、少し待ってなさい。私名義で封書庫の鍵をあけてあげるわ」






 そう言いケイディは一旦この場を去る。封書庫とは一般閲覧が禁止された本が保管されている特別な書庫であり、特別な権限がなければそれらを閲覧することは許されない。禁書は危険な思想や術について記されているものだが、封書庫にあるものは危険も伴うが必要となる術等についての書物ばかりだった。




 ケイディが去ったあともルーシャとレティルトは何冊か本を読み漁るが、なにせ知識一つ一つが難しく内容が今ひとつ入ってこない。少しして戻ってきたケイディはルーシャたちを地下にある封書庫へと導く。そこへ行くまでにはいくつものセキュリティがあり、何度もそこで手続きを求められ身体検査を受ける。本来ならば限られた人間が限られた条件でしか行くことの許されない場所だが、ルーシャとレティルトはケイディの助手という名目でそこへ足を踏み入れられる。




 封書庫に入るやいなや、ケイディはすぐにそこにあった椅子に腰掛ける。ケイディは特にここで閲覧したい書物もなければ得たい情報もなく、二人の要件が終わるのをただ待つのみだった。彼女の時間を奪って申し訳ない──そう思う二人はさっそく本の海へ足を踏み出そうと動く。




「そうそう、あなたとは別の意味での情報通がココにいるみたいよ」




「・・・?」




「たぶん古代術の書架にいるはず」




 どこか意味深なケイディの発言にレティルトは首をかしげながらも、示唆された書庫へと足を運び、ルーシャもそれに続くのだった。










──────────



マスターの呪いをなんとかするため、レティルトさんと聖本部の大図書館に来ました。ものすごい蔵書数!


普通に通いたいレベル!


状況が状況なだけゆっくりは出来ないけど、次はゆっくり見たいと思うくらいすごい。


呪術の本は難しすぎてさっぱり・・・。


ケイディさんとまさかの再開をしたけど、まさかレティルトさんと知り合いだったとは。どっちも顔が広いなぁ。


封書庫で何か手がかりが得られるといいんだけど・・・。本読んで分かるのかなぁ、呪いのことなんて。


あと、情報通って・・・誰なんだろう。

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