第6話

 ひゅうっ。息を飲む音がした。ビックリしてその方向を見ると、自分の担当のおじいさんに向かったはずのエミさんが、チョコを片手に立ち尽くしているのだった。

 美波里さんは、満足げに枕へ頭を落とした。

「言えたじゃないか。じれったいから、ちょっとイジワルしてやったのさ」

 美波里さんの言葉に、愕然と立ち尽くすクリーニング屋。

 啓二は、ポカンとしている。

 エミさんは、顔が真っ赤になっている。

「あの……」

 エミさんは、手に持ったチョコを、思い切りよく啓二に差し出した。

「施設のチョコだけど……。もらってください!」

 押しつけるように渡すと、エミさんは、パタパタ駆け去って行った。

「――追いかけないのかい?」

 美波里さんが、言った。


 啓二は、エミさんの後をおいかけた。

 走ってはいけない廊下を走ったので、道を行く同僚はきつい目で彼を見送った。

「ちょっと! 走っちゃダメでしょ!」

 介護士のひとりが、止めようとする。啓二はそれを振り払った。


「エミさん! 待って!」

 啓二は、前を駆けていくエミさんに呼びかけた。

 エミさんは、振り返り、足を緩めた。

「あの……」

 追いついた啓二は、それからどう言葉をつむいでいいか、わからなくなった。


「あの、猫のミケなんだけどさ。残念だったね」

 バカ。おれのバカ。手の中にチョコを抱きながら、啓二は自分を蹴飛ばしたくなった。エミさんの瞳の虹彩が動いた。

「啓二さん……。あなたも、ペットを飼ったことがあるんですか?」

 エミさんの声は、少し期待しているようにも聞こえる。

「いや、ない」


 あああああ。おれはバカだ。バカすぎて首をくくりたくなる。

「で、でも、ほら、死んだら嫌だな、ぐらいのことぐらいは想像がつくよ。チョコありがとう」


 啓二は、自分の手の中にあるチョコをチラッと見せた。エミさんは、微笑んだ。

「美味しくないかも」

「キミからもらうんだったら、猫のエサでも喜んで食べる」

 啓二が言うので、エミさんはプッと噴き出した。


「ホライトデーには、ウイスキーをあげるよ」

 刑事の言葉に、エミさんは、

「そんなことより、また遊園地に連れて行って欲しいな。弘さんは抜きで」

 明るい笑顔を見せた。


 これからはじまるなにかを予感して、啓二はチョコをにぎりしめた。

「それ、食べて」

 エミさんは、チョコを示した。ためらいながらも、啓二はひとくちで食べてしまった。

 甘くてちょっとビターな味がした。                了

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バレンタイン――不器用な啓二の不運な恋愛 田島絵里子 @hatoule

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