第5話

 翌日からずっと、啓二はエミさんに避けられていると感じた。

「おはよう」

 返事はない。

 啓二は美波里さんの姿勢を動かし始めた。なにかを忘れようとするかのようだった。

 弘さんは、美波里さんの面倒を見る啓二の隣の席で、雑誌を開いている。

 美波里さんは、もの問いたげな目で啓二と弘さんを見比べている。


「エミと啓二くん、どうなってるの」

 ベッドの上で、もごもご言った。弘さんは、肩をすくめた。

「この頃の若い者は、押しが弱いからいけない」

「啓二くんにはふさわしいのは、わたしのほうさ」


 美波里さんは、うまくやってみせると言わんばかりの、得意そうな顔になった。弘さんは、雑誌を投げ捨てた。表情が硬くなった。

「キミには、俺がいるじゃないか」

「なに言うんだい。めったに見舞いにも来ないくせに。他人に妻の面倒を見てもらって、平気でいるじゃないか」


 美波里さんは、ピシャリとはねつける。

「上げ膳据え膳が夢だったんだろ。毎日のように通ってくる人がいれば、ほかの人に自慢できるもんな」

 弘さんは、ケンカ腰だ。

「あんたのほうが、我が儘じゃないか!」


「おまえの言い分は、鼻につく!」

 二人は、激しい口論になった。啓二は、アタフタするばかりであった。




 美波里さんとケンカした後、弘さんは、まったく見舞いに来なくなった。

 美波里さんは、平気そうな顔をしている。

「やっぱり、将来のある若者のほうが、大事なのさ」

 なんだかよくわからないことを、つぶやいていた。

 数日後、施設で啓二が、美波里さんの姿勢を変えていると、クリーニング屋がやってきた。

 シーツの交換のためである。忘れもしない、あのクリーニング屋は、底意地の悪そうな表情で、エミさんと話をしている。

「美波里おばあちゃんは、わたしにとっても、大切な人なの。啓二さんが、しっかり面倒を見てくださってるから、わたし、とってもうれしい」


 エミさんは、むじゃきな調子で、言った。

 クリーニング屋は、エミさんと美波里さんと啓二を見比べている。

「こんな不運な男の、どこがいいんだか」

 エミさんは、カッとしたように声を張り上げた。

「出てってください!」


「ふっふ。せいぜい巻き込まれないようにするんだな」

 言い捨てると、クリーニング屋は、すさまじい目つきで啓二を見つめて出て行った。

「今日は、バレンタインだね」

 できるだけ、感情のこもらない声で、啓二が言った。

「あら、モテる男はつらいわねえ!」

 キャラキャラと、エミさんは、笑い転げた。


 啓二は仕事に戻った。期待しているのは、エミさんからのチョコなのだ。そう言いたかった。叫びたかった。絶叫したかった。

 だが、できなかった。自分の勇気のなさが、情けなくて涙が出てきた

「エミのことを、どう思ってるんだね? わたしの方が、先にあんたを見込んだんだよ?」

 ベッドに近づいていくと、美波里さんは、試すような目で言った。


 啓二は、唇を噛みしめた。屈辱だ、と彼は思った。ほんとうに想いが届いて欲しい人には届かなくて、どうでもいい人からは想いを寄せられる。年寄りが嫌いというわけではない。自分も老いたら、と思うと、むげにはできない。だが、エミさんについて、からかわれるのは、辛抱できなかった。


「ほっといてください」

 自分でも、強い口調になってしまったが、啓二は怒りに青ざめた顔で、美波里さんに言った。

「あなたには関係ないでしょう」


「そうはいかないね。あの子は、わたしの大切な姪なんだ。生半可な気持でいてもらっちゃ、死んでも死にきれない」

「――死ぬなんて、縁起でもない」

 啓二は、思わず口走った。自分が、ひそかにそれを望んでいることに、はじめて気づいてしまった。それを、美波里さんに言い当てられてしまった気がする。


 啓二は、頭に血が上り、理性が失われていくのを感じた。美波里さんは、言った。

「わたしは、もう長くない。弘さんからも、見放された。この上、エミさんまで奪われたら、化けて出てやる」

 にたあ。しわだらけの唇がつりあがった。そうか。いままで矛盾だらけの言行だったのは、いやがらせのつもりだったのだ。このやろう。


 そこへ、またあのクリーニング屋が顔を出した。啓二の声を聞きつけたらしい。

「おまえは、エミさんにふさわしくない!」

 クリーニング屋の、憎々しい目。コイツも、エミさんが好きなんだ。

 負けてたまるか!

「だけどぼくは、エミさんが、好きなんだ!」

 啓二は、大声で、どなるように言い放った。

 

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