「嘘をついて私にどんな得が?」

 ミハイルの目が壁を走る亀裂に向くのを見て、アルミラは力を入れすぎたと反省する。

 壁を修繕するために手配する業者と、それにかかる費用を頭の中で弾きだしながら、顔を青くさせているミハイルを見上げた。


「どうして逃げたのか、納得のいく説明をお願いいたします」


 アルミラはミハイルに逃げられないように騎士服を脱ぎ、代わりに侍女服を着た。侍女相手ならば油断するだろうと思ってのことだ。

 だがミハイルはアルミラと認識してすぐに、逃げ出した。


「それは……」


 ミハイルは視線を逸らし、口ごもっている。つまり、言いたくない。あるいは言えない理由があるのだろう。


「……私とレオンは元婚約者という間柄で、それ以上でも以下でもありません」


 その様子に、アルミラは執務室での一件を引きずっているのかもしれないと考えた。

 どこをどう間違えたのか、ミハイルはアルミラがレオンに恋情を抱いていると誤解したことがある。

 同じようなことがまた起きたと考えるのが妥当だろう。


「言ったはずです。邪推されるのは非常に不愉快です、と」


 厳しい声でそう言うと、ミハイルの視線がアルミラに落ちると同時に唇が引き結ばれた。

 アルミラは青い瞳を見つめ返して小さく笑みを作る。多少なりとも緊張を和らげてやろうという配慮だ。


「……それは、わかっているよ。でも、君たちは互いのことをよく知っているから、たまに不安になるんだ」


 配慮が功を成したのか、眉を下げながらもミハイルは静かに言葉を紡ぐ。哀愁の漂う独白に、アルミラは首を傾げかけた。


「互いの趣味も好物も知りませんが……」


 婚約者ならば知っていてもおかしくないことを、レオンとアルミラは知らない。

 そういった、たわいない雑談を楽しんだことがないからだ。どちらがやり込められるかを競い合うだけの関係だった。


(……今のあいつの好きなものは想像がつくが、それは言わなくていいか)


 好きなものも趣味もレイシアの名を出せば当たるだろう。これまではなにをしていても楽しそうではなかったレオンだが、レイシアといるときだけは機嫌よく過ごしている。


「それに、あいつのことですから今の私を見ても侍女がいる、ぐらいにしか思いませんよ」

「……可愛いくらいは思うんじゃないかな」

「あいつにとって大抵の人は有象無象です。それにあいつ曰く、私は女をやめているそうですから」


 レオンがアルミラを女性扱いしたことはほとんどない。言葉の上では何度も女としての慎みやらなんやらを説いてはいたが、それだけだ。


「……私は、君を女性だと思っているよ」

「ええ、それは存じております」

「だから、今の君の恰好も可愛いと思うし、いつもの君も可愛く思っている」


 血の気を失って青ざめていたミハイルの頬に、いつの間にやら赤みが戻っている。射抜くような眼差しに、自然とアルミラは拳を握ろうとして、壁を抉りかけた。

 ぱらぱらと落ちる破片にミハイルの頬が引きつるが、亀裂が入った以上の衝撃にはならなかったのか青ざめてはいない。


(ミハイル陛下の可愛いの基準は一体……?)


 いつもの姿――仮面を被った騎士に可愛い要素などあるわけがない。顔は仮面で覆われ、肢体は騎士服に覆われている。しかも騎士としての職務を全うしているため、女性らしさを出したことすらない。

 一体普段のどこを見て可愛いと思ったのか――


 そう考えかけたところで、兄の発した「あそこまで慕ってくれる相手はいないだろう」という言葉を思い出してしまった。

 

「え、ええ、まあ、そうですね。存じております」


 つまり、複雑なことはなにもなく、アルミラだから可愛く見えているのだろう。

 その結論に達した結果、アルミラの顔もミハイル同様赤く染まる。


(兄様の言うとおりか……)


 確かにここまでアルミラを慕ってくれる者は珍しい。友情やら敬意やらを抱いてくれたとしても、仮面の騎士を可愛いと称する者はいないだろう。

 男装しかしていなかった時期も、可愛いとは言われなかった。


「……君は可愛いから、ありえないとわかっていても、不安になってしまうんだよ。とくに私は……あまり、男らしくはないだろうから」


 アルミラの顔が赤くなったことに勢いづいたのか、ミハイルが言い募ってくる。


「でも君が私を意識してくれているのなら、少しは期待してもいいのかな」


 問われ、アルミラは顔を強張らせた。

 ここで回答を誤れば、取り返しのつかないことになる。


(……国のためを思うのなら、ミハイル陛下に条件のいい女性を娶ってもらうべきだ)


 そうは思うのだが、熱を帯びた青い瞳を前にすると、軽々しくそれを口にしてはいけない気がした。

 自分は令嬢になりたくないからと騎士になったのに、ミハイルには完璧な王であることを求めて彼の恋心を打ち砕く。


(それはあまりにも、身勝手すぎるのではないか)


 ミハイルに嫁ぐ方法がないわけではない。多少無茶ではあるが、無理を通せばできる。

 騎士としての功績を上げるのは、アルミラであれば可能だ。

 功績を上げる機会に恵まれなかったとしても、令嬢に戻って嫁ぐこともできる。自由気ままな令嬢でいいのならば、の話ではあるが。


「ミハイル陛下、私は……」


 そこまで言って、再度口を閉ざす。

 義務として答えるのはなにか違うと思ったからだ。


 ミハイルはアルミラの幸せを望んでいた。だから判断をアルミラに委ねてくれている。


(つまり、私がミハイル陛下を……好きだと思うかどうか、という話だ)


 そこまで行き着いて、アルミラの視線が泳いだ。

 アルミラはこれまで恋をしたことがない。ミハイルのことはそれなりに好ましく思ってはいるが、それが恋なのかどうかを考えたことはなかった。


(守ろうとしてくれたことや、可愛いと言ってくれたことは嬉しかったが……それは女性として扱われ慣れていないだけかもしれない)


 恋なのかどうかを知るために、冷静に分析しはじめる。


(ミハイル陛下以外でも嬉しく思うのではないだろうか)


 アルミラのよく知る男性は四人。兄は家族なので外すとして、もしもエルマーに「可愛い」とか「好き」とか言われたとして、どう思うだろうか。

 そして同じことを、レオンとフェイにも照らし合わせてみる。


(……頭に虫でも湧いたとしか思えないな)


 エルマーはそこまでいかないが、ただの冗談として流すだろう。大抵の女性にそういうことを言うような男だ。本気で受け取れるわけがない。

 レオンは魔力により平常心が失われたのか、あるいは頭に虫が寄生したのかと疑うだろう。フェイも似たような結果だ。

 

(ならば、ミハイル陛下だけ、ということか……?)


 その結論に、アルミラは指先にまで鼓動が伝わるような感覚に襲われた。

 ぐっと手に力が入り、よりいっそう壁のひびが広がる。ミハイルが戦々恐々とした表情をしているのは、自分の行く末を案じているからかもしれない。


「私は……あなたのことが好き、なのかもしれません」


 曖昧な言い回しではあるが、それでもミハイルにとっては十分だったのだろう。

 目を見開き、続いて何度も目を瞬かせている。顔を引き締めたかと思えば、口元が綻んだりと忙しない。


「それは、本当に?」

「嘘をついて私にどんな得が?」


 棘のある口振りにもかかわらず、ミハイルの顔には喜色が浮かんでいる。あからさまな様子にアルミラはなにか言おうとして、思い直す。

 代わりに真っ直ぐにミハイルを見つめた後、ゆっくりと目を瞑った。


 言葉にせずとも伝わるだろうと思ったとおり、頬に手が添えられる。


「……ミハイル陛下?」


 だがいくら待っても、その先がない。

 待ちくたびれたとばかりに目を開けると、湯気が出そうなほど顔を真っ赤にさせて硬直しているミハイルがそこにいた。


(……これは、先が長そうだ)


 騎士として爵位を賜るか、令嬢に舞い戻るか、そのどちらにするかはまだ決まっていない。

 だがどちらにせよ、しとねを共にできないことには話にならない。


「少しずつ慣らしていきましょうか」

「あ、ああ、いや、すまない」


 ミハイルが申し訳なさそうに目を伏せて謝るのを見て、アルミラの口から溜息が漏れる。

 それをどう受け取ったのか、ミハイルの顔が不安で彩られた。


「ではとりあえず、このくらいで」


 壁についていた手をミハイルの体に回すと、ゆっくりとではあるが抱きしめ返される。

 アルミラはその手がわずかに震えていたことに気づいたが、なにも言うことなく頭を預け目を瞑った。

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