「壁から脱出できますよ」
失われた気力はまだ戻っていないのだろう。レオンが緩慢な動きで顔を上げる。そして、扉の前に立つミハイルを認めて顔をしかめた。
「……兄上」
よばれ、ミハイルの肩がぴくりと跳ねる。
「あ、ああ、すまない。邪魔をして、しまったのだろう? いや、でも、ここは私の執務室で……だから、節度を守ってもらえればと、思わなくもないわけで……」
所在なさげに瞳を揺らし、震える声で言葉を紡いでいる。その様子にアルミラとレオンは顔を見合わせ、同時にミハイルのほうを向いた。
「ミハイル陛下――」
そしてアルミラが呼ぶと、バタンと扉が閉まった。
戻ってきたはずの部屋の主が扉の向こうに消え、アルミラとレオンはぱちくりと目を瞬かせた。
「……なんだ?」
最初に疑問を口にしたのはレオンのほうだ。アルミラはミハイルの様子と現状を照らし合わせていた。
アルミラは恋愛に対する経験値は低いが、他人からどう見られるかは熟知している。
考え、出た結論はレオンとアルミラの関係を勘違いしたのだろうというものだ。
「私とレオン殿下が睦まじくしていると思ったのでしょう」
「どこをどう見たらそうなるんだ」
「もしもレイシア嬢が他の男性と近距離で接していたらどうしますか?」
「その男を殺してくれと懇願するまでいたぶるが、それがどうした」
悪びれもなく言い切るレオンに、アルミラの頬が引きつる。
そこまで過激な答えは求めていなかったが、レオンならばやりかねないとすぐに気を取り直した。
「つまり、そういうことですよ。すぐに戻ってくるでしょうし、書類をまとめてしまいましょう」
机の上には整理し終わっていない書類が広げられている。ミハイルがどのくらいで戻ってくるかわからないが、冷静になれば戻ってくるだろう。
さすがに書類を放置して泣かせにかかるわけにもいかず、アルミラは長椅子に座って書類の仕分けに入った。
だがいくら待っても、ミハイルは戻ってこなかった。夕食の準備が整ったとレオンを呼びにきた侍女が、アルミラの姿を見つけて不思議そうに首を傾げる。
「陛下を探されていないのですか?」
「……それは、どういうことでしょうか」
騎士団総出でミハイルを探している最中だと侍女は語った。
ミハイルは用事を済ませて執務室に戻ったが、すぐに出てきて護衛についていた騎士を撒き、姿をくらませた。執務室にレオンがいるのは皆知っていたので、誰も近づこうとはせず、アルミラにだけ情報が伝わっていなかったようだ。
「わかりました。それでは、私も捜索に加わりましょう」
「夕食を終えても見つかっていなかったら、俺も手伝おう」
書類を執務机にしまい、夕食に行くために身支度を整えていたレオンが、おざなりではあるが協力の意思を見せる。
「城外に出ていれば門番が見ているだろうからな。城内にいるのならば、すぐに見つけられるだろう」
「壁から脱出できますよ」
「そんなことをするのはお前くらいだ」
舌打ち交じりではあるがどこか気安いやり取りに、侍女はぽかんと目を瞬かせている。
レオンの気性の荒さは有名だ。ミハイルが姿をくらませたのにレオンに伝えなかったのは、どうせ手伝わないだろうと思ったのもあるが、誰を贄にするのか決まらなかったからでもある。
レオンはいまだに、機嫌を損ねたらなにをしでかすかわからない爆弾として扱われている。
ぽかんとしていた侍女にレオンを託し、アルミラは執務室を出る。そしてすぐに、ミハイルを捜索している騎士の一人を捕まえた。
ミハイルが執務室に来たのは今から一時間ほど前だ。その間にどこを探して、どこを探していないのかの情報を共有する必要がある。
「城内はくまなく探しましたが、今のところはどこにも……」
ミハイルは城で育った身だ。城については誰よりも詳しいだろう。しかも城自体それなりの広さがある。
どこかに抜けがあり、探していない場所があることも視野に入れたほうがいいだろう。
(……血眼になって探している、という風ではないな)
目の前にいる騎士は息の一つも切れていない。もしかしたら、国で三番目に強い――フェイが抜けたので今は国で二番目に強い――ミハイルを相手に、自分が見つけられるはずがないと諦めてしまっているのかもしれない。
「皆さんに伝達をお願いします」
騎士団には、二度と受けたくないと言われている訓練がある。
それは人外のような男が自分を基準にして組み立てた訓練で、彼がいた頃は気まぐれに実施されていた。
だが考案者である彼がいなくなってからは、誰も実施しようとはしていない。
「本日中にミハイル陛下を捕獲できなかった場合、先代騎士団長考案の訓練を実施する、と」
青褪めた騎士は「どうしてそれを……」と声を震わせた。
それに馬鹿正直に返す義理もないので、これといって答えることなく、背を向ける。
「伝達漏れがあった場合、あなただけ二日連続で行ってもらいます」
背後から息を呑む音が聞こえたが、それに構うことなくミハイルを探すために歩を進めた。
アルミラは護衛騎士ではあるが、騎士団長ではない。訓練内容を決める権限はないが、新しく騎士団長になった男を叩きのめし、無理矢理にでも実施させればいい。
(……恨みを買いすぎることはしたくないが、しかたないな)
死に物狂いで探さないとミハイルは見つからないだろう。知識も力も最たる者には届かないが、優秀と呼ばれるだけのものは持っている。
それからはちらほらと目撃報告が上がるようになったが、決死の鬼ごっこはどれもミハイルに軍配が上がったようだ。
見つけたと思ったら窓から逃げられた。囲むのに成功したが打ち負けた――そんな情報をすれ違う騎士から集めつつ、アルミラは痛みそうになる頭を抱えた。
(……どうしてそこまでして逃げる……)
ミハイルが力業で逃げてからは、騎士たちには模擬剣の使用許可が降りた。だがそれでも、剣でミハイルに勝てる騎士はおらず、逃げられ続けている。
アルミラならば勝てるが、肝心のミハイルと遭遇できていなかった。
「アルミラ様!」
「見つかったか?」
そうして頭を抱えていたら、聞き慣れた声が二つ聞こえ、アルミラの顔が上がる。
そこにはいつもどおり仏頂面のレオンと、レオンに抱えられて心配そうに瞳を潤ませているレイシアがいた。
「レイシア嬢? 本日はもう帰られたのでは?」
「ミハイル陛下がいなくなったからと、連れ戻されました」
今日は用事があるからと半日勤務の約束だったにもかかわらず、緊急事態だからとレオンに転移魔法で連れてこられたようだ。
アルミラは責めるようにレオンを見るが、仮面に隠れているせいか、あるいはレオンの性格ゆえか、レオンは気にも留めていないようだ。
「兄上がどうしていなくなったのか、レイシアに聞けばわかると思っただけだ」
「……そんな無茶苦茶な」
呆れた声がアルミラから漏れる。
「あ、あの! お力になれるかわかりませんが、どうなっているのか教えていただければ、頑張って考えます」
力強く言うレイシアに、アルミラは少しとまどいながらも現状がどうなっているのかを話した。
どうしても捕まりたくないのか、剣を使ってでも逃げているという話に、レイシアは眉をひそめる。
それからしばらくして、考えがまとまったのかゆっくりと口を開いた。
「……えーと、騎士の皆さんは訓練が嫌で、ミハイル陛下を捕まえようと躍起になっているんですよね?」
騎士としてはどうなのかという話だが、ごまかすわけにもいかず頷いて返す。
「私だったら、皆さんが必死な様子で追いかけてきたら……思わず逃げちゃいます」
「……しかし、ミハイル陛下は王で、それなりに強い。騎士に追われたからと逃げる必要はないだろう?」
「でも荒事の経験って少ないですよね? 大勢に追いかけられたら、怖いと思ってもしかたないんじゃないかなぁって……」
ミハイルは剣術を独学で学んだ身だ。騎士の訓練に加わったことはなく、人と打ち合った回数もたかが知れているだろう。
しかも、日和見でことなかれ主義だ。危険のあることは極力避けてきたことだろう。
(……それを考えると、レイシア嬢の言うことも一理あるか)
死に物狂いで探させたのが裏目に出たようだが、あのままなあなあで探していても見つからなかったかもしれない。
過ぎたものはしかたないと思考を切り替え、ならばどうするかを考える。
(騎士服だからと条件反射で逃げている可能性もある)
それならば、単独行動をしているアルミラがミハイルと遭遇できていなくても不思議ではない。
「……色々試してみることにするよ。ありがとう」
レイシアにお礼を言い、次にレオンに視線を向ける。
「レイシア嬢を無事に送り届けて、そのままお茶でもしてきてください」
騎士服を脱ぐ場合、仮面も外さなくてはいけない。城に、しかもこの時間にいる者は限られている。
別の衣服をまとったとしても、仮面をつけたままではアルミラだと色々な人に気づかれるだろう。
だが仮面を外したまま城内を歩けば、レオンに顔を見られるかもしれない。
「いいだろう。そうしてやる」
レイシアの名が出たことで、レオンは即座に頷いてその場から消えた。
別れの挨拶すらさせない性急さに、アルミラは苦笑を零した。
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