(望んだことなんてないわよ)
その日コゼットは王都にある雑木林でベンチに座り、ぼんやりと木々の合間から見える空を眺めていた。
怪我は治りきっておらず、痛むのを我慢してここまで来たはいいが、これからどうすればいいのかわからずただ途方に暮れている。
(私はなにをしているのかしら)
城で業務をこなさないといけない。そう思いながらも、なぜか体はその場から動こうとしてくれない。
大切だと思っていたわけではない。ただ目の届かないところで勝手に幸せになって勝手に死ねばいいと思っていた相手だった。
それが自分が役割をこなさなかったばかりに側妃として召し上げられ、彼女のためを思っての行動は裏目に出て、自分の産んだ子によってまともな葬儀すら挙げさせることができなかった。
その事実はいともたやすくコゼットの心にひびを入れた。
天気のよい日だというのに視界はもやがかかったように霞み、自分が今なにをしているのかすらも定かではない。
コゼットの頭にあるのは、マリエンヌとミハイルのために正妃としての役割を全うしなければいけないということだけだ。
壊れかけた心を守るためか、あの日の出来事はコゼットにとってどこか遠く――まるで夢のようにぼんやりとしていた。
「おねーさん。いやなことでもあったの?」
そんなときだった。
どこか明るい声が下から聞こえ、コゼットが緩慢な動きで視線を下げると目の前に幼い子供が立っていた。
「はい、これあげる!」
そして差し出された手には、どこにでも咲いているような小さな白い花が握られていた。
コゼットが驚いたように凝視していると、子供は不思議そうに首を傾げた。
「あれ、お花きらいだった? 私の従兄が女性にはお花がいいって言ってたけど、ちがった?」
「いえ、そうではないけど……あなたは?」
「私? 私はお花はどっちでもいーや」
「そうじゃなくて……あなたは誰?」
「私はアルミラだよ!」
コゼットはマリエンヌにべったりのミハイルか、我儘放題のレオンと孤児院で忙しなく動く子供たちくらいしか知らない。
だが目の前にいる子供はそのどれとも違うように見えた。
「いやなことがあったなら、お話聞いてあげるよ?」
コゼットの膝の上に白い花を置くと、アルミラはベンチの空いている部分に座りにこにこと笑った。
邪気のないその笑顔に、コゼットの押し込められた鬱憤が堰を切ったかのように流れ出た。
ハロルドに対する愚痴やこれまでされた所業――マリエンヌに関することだけを除いて――を話しきってようやく、コゼットは我に返った。
(……なにをしているのかしら)
こんな幼い子供になにを言っているのかと自嘲し、忘れてほしいと撤回しようと思いアルミラのほうを向いた瞬間、ふんわりとした温もりに包まれる。
「おねーさん、えらいねー、がんばったねー」
小さな腕を目一杯広げ頭を抱えるアルミラに、コゼットの目がぱちくりと瞬いた。
「……信じてくれるの?」
「んー? そのハロ、なんとかって人はよくわからないけど、おねーさんが悲しそうなのはわかるよ。がんばった人はね、いいこいいこってしないといけないんだよ」
小さな手に乱雑に頭を撫でられたコゼットは目頭が熱くなるのを感じ、顔を伏せた。
そしてアルミラはコゼットが顔を上げるまで、撫で続けた。
もしもコゼットがアルミラに出会っていなければ、彼女の心は完全に押しつぶされていただろう。
だがそれでもひびが入った状態を維持するのがやっとで、マリエンヌが死んだという事実をしっかりと受け止めるにはコゼットの心は疲弊しきっていた。
ぼんやりと正妃としての業務をこなし、たまに雑木林でアルミラに愚痴を言い――気づけば二年が経っていた。
レオンとアルミラが婚約したという話を聞いたコゼットはその日の晩、寝所でハロルドに詰め寄った。
「レオンに婚約者なんて早すぎるわ」
「後ろ盾を付けたほうがレオンのためになると思ったけど……君が言うならやめようか?」
決定権を委ねられたコゼットはなにも言えず、ただ俯いた。
(どうしてかしら……どうして、なにかを決めるのがこんなに怖いの)
指先が冷え、視線がさまよう。
それがどうしてなのかわからないまま黙りこむコゼットの頭上に、溜息が落ちてきた。
「意見がないならこのままでいいよね?」
それにもなにも言えずにいると、ハロルドの手が肩に置かれ寝台に押し倒される。
これからくる恥辱も屈辱も、すべてマリエンヌとミハイルのためだと固く目を瞑り、コゼットはただやり過ごすことにだけ専念した。
ハロルドの横に並ぶのは嫌だったが、正妃として振る舞っている間はなにも考えずに済んだ。
ただ与えられた役割をこなし、以前ほど頻繁に会えなくなったアルミラとたまに愚痴を言い合ったりしているうちに、さらに月日は流れる。
コゼットが最初に違和を感じたのは、アルミラの笑顔だった。
明るく朗らかに笑っていたはずなのに、いつの間にか作ったような笑みしか浮かべなくなっていた。
マリエンヌがどこでなにをしているのかと、昔から仕えてくれている者に聞いても、
ミハイルと偶然出くわしても彼の横には誰もいない。
レオンの癇癪による訴状は毎日のように届く。
(これが、私のしたかったことなのかしら)
ただお飾りの妃でいればいいと思っていたはずなのに、コゼットの周りには心の底から笑う者はいなくなっている。
ハロルドを愛おしそうに見つめ柔らかな笑みを浮かべていたマリエンヌも、どこにも見つからない。
そんなある日のことだ。久しぶりにアルミラと二人きりの茶会を開き、コゼットはいつものように愚痴を零していた。
「私は彼女の息子を王にしたくないのよ」
王になるということは、ハロルドが滅茶苦茶にした国を立て直さないといけなくなる。
そんな役割を背負わせず、ただ自由に生きてほしいと、そう昔から願っていた。
「それほどまでにお嫌いですか」
「ええ、嫌いよ。あんなに愚かな子、そうそういないわ」
小さく微笑むアルミラにコゼットはつんとすました顔で悪態を吐く。
「私はお会いしたことはございませんが、慈善活動にも力を入れていたので民から慕われていたとお聞きしております」
「だから嫌いなのよ」
レオンの婚約者であるアルミラが側妃とはいえ王の妃に会ったことがない。そのおかしさと、アルミラが過去形で語っていることに違和感を抱くことすらできない。
コゼットの世界はマリエンヌが生きていると思うことで、保たれていた。
だがそんな不安定な世界がいつまでも続くわけはなかった。
(あれから何年……十年、いえ十一年かしら)
爆発音が響き、城中が騒然としている中をコゼットはただゆっくりと歩いている。
コゼットは嫌われ者だ。この異常事態に
そもそも、王家に心からの忠誠を捧げている者はどれくらい残っているだろうか。国を思い忠言した者はどこかに消えた。
(私はなにをしていたの)
自分のせいだと思いたくなくて目を背け、蓋をした。いっそ完全に壊れてしまえばよかったのに中途半端な状態で放置したせいで、事態はよりいっそう悪くなっている。
「あなたたち、なにをしているの。早く皆を避難させなさい」
大きな扉の前で困惑しながらも突っ立っている騎士二人に、コゼットは厳しい声で命令した。
だが騎士たちは互いに顔を見合わせ「しかし」と渋るように言う。
「……あの人は私が誘導するわ。私が言えば聞くでしょうから」
ハロルドに仕えているのは誰か、あるいはなにかを人質に取られている者がほとんどだ。命を賭けてまで仕えている者は少ない。
口うるさい騎士はハロルドの側近から外され、別の場所に送られた。天涯孤独の身の上の者も同様に。
より口うるさかった者は、危険地帯に送られ命を落としたと言われている。
「これは正妃である私からの命令よ。聞けないと言うのなら、その首が惜しくないと受け取るわ」
顔色を変え、慌てて「かしこまりました」と言って二人ともその場を去る。
(この国は、もう駄目ね)
騎士ですら自分の命を優先させ――正妃の命令があるとはいえ――守るべき王の護衛を放棄する。
そもそも、異常事態だというのに引っ張ってでも連れて行こうとせず、ここに留まっている時点で、王の命よりも命令に逆らうことを怖がっている証拠だ。
大きな扉に手をかけ、押し開ける。赤い絨毯の引かれた大広間の向こう、豪奢な玉座の上にはハロルドがいた。
「やあ、コゼット」
「こんな所にいるなんて非常事態だと知らないのかしら」
「知ってるよ。だから君を待っていたんじゃないか」
肩をすくめるハロルドをコゼットは鋭く睨みつける。
なにが面白いのか、そんなコゼットの様子を見てハロルドは機嫌よく微笑んだ。
「ほら、元気になった姿を僕によく見せて」
「そこからでも十分見れるでしょう。私が今さらあなたに近づくと思ってるの?」
コゼットがつんと顔を背けると、噛み殺したような笑い声がハロルドから漏れた。
「本当に君が元気になってくれてよかったよ。レオンを幽閉した甲斐があったというものだね」
「……そんなことのために、あの子を罪人にしたの」
吐き捨てるようなコゼットの声に、ハロルドの目が不思議そうに瞬く。ゆるく首を傾げる姿にコゼットは怪訝そうな顔で睨みつけた。
「彼が罪人だから捕らえたんだよ。僕のものを壊したんだからその報いは受けてもらわないといけないし、使い勝手の悪い駒はいらないからね」
「そんなの、あなたの勝手じゃない」
「そうかな? 君だって彼のせいでとうなされていたじゃないか。だから君の代わりに彼を罰してあげたんだよ」
それはコゼットが痛みと熱で朦朧としていたときで、ハロルドがなにがあったのかをコゼットに話す前の話だ。
だがそれでもすべてコゼットが悪いと言われ、コゼットの顔が歪む。
「……そう、そうね。私が悪いのよ。だから、私はしなきゃいけないことをするためにここに来たの」
「君に僕は殺せないよ。君は意気地なしで、度胸がない。君なら僕を止められたかもしれないのに、指をくわえて見ているだけでなにもしなかった。君に度胸があれば、誰も死ななくて済んだかもしれないのにね」
慈しむような声色と穏やかな眼差し。それがまたコゼットの神経を逆撫でする。
「だけどね、僕はそんな君のことを可愛く思っているんだよ? だからこれまで大切にしてきたし、壊れても捨てずに取っておいたんだ。いつか直ったときのために、君が大切にしているミハイルもそのままにしてある」
「私はそんなあなたのことが嫌いよ」
「別にそれで構わないよ。こうして僕と遊びに来てくれたんだから」
「生憎だけど、私はあなたと遊ぶ気はないわ」
そもそも一度としてハロルドと遊んでいると思ったことはない。その異常性に気づく前はあったかもしれないが、そんな遠い過去のことは忘却の彼方に捨てた。
コゼットにとってハロルドはこの世で一番嫌いな相手で、それだけだ。
「おかしなことを言わないで欲しいな。君に拒否する権利があるわけないだろう?」
「少なくとも結婚して数年は指一本触らせなかったわ」
「僕は気長だからね。君が望むのを待ってただけだよ」
無理矢理は趣味じゃない、と言いながら穏やかに笑うハロルドをコゼットは忌々しげに見据える。
(望んだことなんてないわよ)
だがそれを言ったところで、喜ばせるだけだろう。
嬉々としてこちらを追い詰めてこようとする姿を想像し、コゼットは出かけた言葉を飲みこんだ。
そして代わりに、これまでずっと考えながらも口には出さなかった言葉を吐き出した。
「あなたなんて死んでしまえばいいんだわ」
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