(皆嫌い、嫌い嫌い嫌い)
コゼットがハロルドと出会ったのはまだ年端もいかない頃だった。コゼットの生家である侯爵家は王家とも縁が深く、遊び相手になるように言われたのがはじまりだ。
それはもしかしたら、そのうち婚約者にするためだったのかもしれない。だがそのときのコゼットは幼く、なにも知らず友達ができたことを喜んでいた。
同い年とは思えないくらい落ち着いていて、穏やかに笑うハロルドにコゼットはすぐに気を許し、他愛もない話をして過ごしたり、たまにハロルドの両親――王と正妃とお茶をしたりと充実した毎日を送っていた。
それが壊れたのは、ハロルドからもらった小鳥がいなくなったときだ。心配そうにしている顔の奥に愉悦を見つけ、コゼットはそれからハロルドを避けるようになった。
幼かったコゼットは上手にごまかすということができず、誘われても具合が悪いと言い張ったり、どうしても顔を合わせないといけないときはそっぽを向いたりととあからさまだった。
それがハロルドには面白くなかったのだろう。それからというもの、コゼットが大切にしてきたものが壊されるようになった。
小鳥の一件があってからというもの、大切なものを増やさなくなったコゼットだったが、それ以前から手元にあったものに抱いていた思いは消せない。
たとえばそれは母親から貰った装飾品だったり、誕生日に貰ったぬいぐるみだったりと、どれもこれも思い出が詰まっているものばかりだった。
ハロルドが壊したという証拠はなく、むしろコゼットが不注意で壊したと思われかねない状況を作られたこともあった。
それでも「ハロルドがやった」とコゼットが言い張ると、ハロルドは困ったような顔をして微笑んだ。
コゼットの両親は王家に忠実に仕える臣だった。誕生日になにが欲しいか聞いても「なにもいらない」と言い、それ以外でも度々癇癪を起すようになった娘と、心から仕えている王族。どちらを信じるかは明白だった。
両親から叱られ、大切なものが少しずつ失われていくのを見ているしかできないまま、コゼットの世界には嫌いなものしか残らなかった。
ハロルドが婚約者になると決まったとき、コゼットは両親の制止を振り切って王との面会を願い出た。
婚約者になりたくないと乞うコゼットに、王はハロルドと交わした約束を教えた。
それは、コゼットが妻になるなら王にはならないというものだ。
「それなら、今すぐ他の方を王太子に指名してください」
約束したというのなら、それを守らせるためにハロルドが王にはならないと周知させるべきだ。
そう詰め寄るコゼットに、王はこれまた困ったように眉を下げた。
「君が妻になるまでは継承権を捨てる気はないと言われてしまってね」
王は際立った容姿こそあるが、凡庸な人間だった。
ハロルドを王にしないのも、自身の才能の限界を感じた王が次は優秀な者を王にしたいと考えているからだ。
そしてハロルドの下には優秀な弟妹が多い。
そのすべてをコゼットに語ったわけではないが、王は「穏便に済むならそれに越したことはない」と話した。
ハロルドの異常性を王すら知らなかったことに、コゼットは言葉を失った。
(あいつの性格が悪いからだと思ってたのに)
ならば、コゼットがいくら訴えようと信じてはくれないだろう。
両親すら信じてくれないのに、他の誰が信じてくれるだろうか。
コゼットは諦め、そして結局ハロルド以外の王族はいなくなり、ハロルドが王になった。
(皆嫌い、嫌い嫌い嫌い)
ハロルドに壊されたと言っても信じてくれなかった両親。ハロルドが嫌いだと言ったのに、王にしないと公言しろと言ったのに聞き入れてくれなかった王。
(ぜんぶ滅んでなくなればいいんだわ)
そんな思いのままハロルドに嫁いだわけだが、妻としての仕事を果たす気には到底なれなかった。
周囲がうるさいから寝所だけは一緒だが、指一本触れさせなかった。
そしてハロルドが無理強いすることもなかった。
「おやすみ」
と柔らかな声で就寝の挨拶をコゼットにしてから寝台に潜りこむ。
コゼットはそれになにも返さず、だんまりを決め込んだまま眠りについた。
そうして日々を繰り返していたある日、ハロルドはマリエンヌを側妃に迎え入れた。
「なに考えてるのよ! どうしてあんな子を側妃になんて……!」
いつも就寝の挨拶をするだけの寝所で、コゼットはハロルドに詰め寄った。いつになく近い距離に、ハロルドは苦笑浮かべた。
「王家の血を絶やすわけにはいかないだろう? 君が子を宿してくれるならいらなかったけど、その気はなさそうだからね。他で補うのはしかたないと思わないかい?」
善人ぶった顔で、すべてコゼットが悪いのだと諭すように言う。
妃でありながら一番大切な仕事を放棄している自覚のあるコゼットは、歯噛みハロルドを睨みつけた。
「心変わりしたのなら今すぐにでも撤回しようか?」
コゼットの脳裏をよぎったのは、登城しハロルドの横に並んで嬉しそうに笑っていたマリエンヌの姿だ。
学園にいたときからずっとハロルドを目で追い、コゼットが妃になったにも関わらず思い続けている恋する少女。
「……あなたなんて嫌いよ」
いつの間にか黒い髪をいじっていた手を払い、唸るように言うとハロルドは肩をすくめた。
「残念だな。僕は君を結構気に入っているのに」
「どうして私なのよ」
「君と遊ぶのが楽しかったから、かな」
「私と、じゃなくて私で、の間違いでしょう」
それにハロルドは微笑み、答える代わりに「おやすみ」と言ってコゼットの肩を押し寝台に潜りこんだ。
それからしばらくは平穏なものだった。マリエンヌはハロルドのそばにいられるのが心底嬉しいようで、いつも楽しそうに笑っていた。
(……そうよね。あの子が満足なら、私はお飾りの妃をしていればいいだけだわ)
正妃の仕事は苦ではない。問題があるとすれば、ミハイルが産まれてからハロルドがマリエンヌの寝所を訪ねなくなったことだろう。
執務室に併設されている休憩用の部屋で過ごしていると知ったコゼットは、その日の晩にハロルドに詰め寄った。
「なんで執務室になんて行ってるのよ!」
「毎晩来てほしいならそうするよ」
「そんなこと言ってないわよ! あの子がいるんだからそっちに行けばいいでしょ!」
どさくさに紛れて肩に置かれた手を払いながら、困ったように微笑むハロルドを睨みつける。
「彼女は……そうだね。ミハイルもいるし、もういらないかな」
感慨もなく呟かれた言葉にコゼットは顔色を失った。
「なに、言ってるのよ。いらないって……だって、あの子はあんなにあなたのことを思ってるのに」
見ているだけの生活ではなくなってもマリエンヌはハロルドを慕い続けている。
ハロルドのどこがいいのかコゼットにはまったく理解できなかったが、その強い思いだけは理解していた。
「子供は一人いれば十分だからね。もしも死んでも、また補充すればいい」
昔ほどは取り繕わなくなった心ない言葉にコゼットの顔が歪む。泣きそうで、それでいて怒りそうな複雑な表情にハロルドは不思議そうに首を傾げる。
「言っただろう? 彼女は君の代わりに側妃にしたって。役目は終わったんだから、元あったところに戻すのが一番いいと思わないかい?」
「思わないわよ! 馬鹿なのあなた! あんなに幸せそうで、あの子の子供だってあなたに似なくて可愛いし、それなのに母親を奪うような――」
口をついたように出てくる言葉を慌てて手で押さえるが、遅かった。
ハロルドが楽しそうに笑うのを見て、これまで壊されてきたものが頭を掠める。
「ねえ、お願い。なにもしないで、お願いだから、お願い……」
みっともなく、それでも意地でも涙だけは流さないように、コゼットは必死で懇願した。
これまで壊されてきた装飾品や玩具とはわけが違う。思い出すのは、血のついた鳥籠だ。
「そうだなぁ」
穏やかな声と笑みにコゼットの顔が引きつった。
「僕は子供は一人いれば十分だと思うけど、もう一人いるのも悪くないかもね。君はどう思う?」
それの意味するところがわからないほど、コゼットは馬鹿ではない。嫌悪感を露わにしないように堪え、震えそうになる手を握りしめた。
「わかった、わかったわ。だから、なにもしないで」
「コゼット、僕は無理強いはしたくないんだよ。だから君のしたいようにさせてあげていたつもりなんだけど?」
ハロルドが困ったような苦笑いを浮かべるのを見て、今度こそコゼットの顔が嫌悪感で歪む。
屈辱と怒りの混じる顔を見られないようにと伏せ、呪詛を唱えそうになるのを抑えて、心にもない言葉を絞り出す。
「……私に、あなたの子を産ませてください」
震える声でそう言い切ると、ハロルドの指が顎に添えられ上を向かせられる。そして楽しそうに微笑む顔をコゼットはこれでもかと睨みつけた。
「そこまでお願いされたら、叶えてあげないとね」
間近に迫る顔と触れる唇に、コゼットは全身に鳥肌が立つのを感じながらもいつものようには振り払えなかった。
そしてミハイルが二歳の年にレオンが産まれた。
産まれたばかりのレオンを見てコゼットが最初に抱いたのは安堵だ。
もしもハロルドと同じ色合いの目と髪を持っていたら、抱きしめることすらできなかったかもしれない。
コゼットはマリエンヌの人生を歪めてしまったことを悔い、せめてその息子のミハイルは自由に生きてほしいとレオンに「あなたが王になるのよ」と言い聞かせた。
だがそれ以外ではほとんど話すことはなく、家族らしい時間を過ごすこともなかった。
ハロルドは家族を全員葬るような男だ。もしもその面影をレオンの中に見つけてしまったら――そう思えば思うほど、コゼットはレオンと関われなくなった。
そんな生活はコゼットを少しずつ蝕み、決壊したのがレオンが魔法の才を発現させた日だ。
(あの子を、レオンを、なんとかしないと)
また誰かを傷つける前に、自分の手でどうにかしないといけない。傷によって出てきた熱にうなされながら、ずっとそのことばかりを考えていた。
「まだ寝てるのかな?」
朦朧としながらも聞こえてきた声にコゼットはうっすらと目を開け、睨みつけた。
「ああよかった、起きてたんだね。なにか飲む?」
喋る気にもならず、コゼットは小さく首を横に振った。
「彼女のことは残念だったね。まさか飛び降りるとは思わなかったよ」
「……な、に」
喉が掠れ、うまく言葉が紡げず顔をしかめるコゼットの頬を、ハロルドの指が這う。
コゼットがなにを言いたいのか察したのだろう。頬を撫でながらハロルドの顔に穏やかな笑みが刻まれた。
「最近、彼女の家がうるさくてね。冷遇するなら帰せって……だけど、君が彼女をここに置いておくように言っただろう? だから間を取って彼女に聞くことにしたんだよ」
「あ、あなた、なんで、だって、なにもしないって」
「僕はなにもしていないよ。ああもしかして、話すのも駄目だった? でもそれなら、もっと早く教えてほしかったな。一応側妃だからね、言葉を交わすことは何度もあったよ」
悪びれない態度にコゼットの頭が真っ白になる。
コゼットの呼吸が少しずつ荒くなっているのは、熱のせいだけではないだろう。
「話すのは大丈夫だと思ったから、正直に話しただけだよ。側妃にしたのはコゼットの代わりが必要だったから。それからも置いておいたのはコゼットに言われたからだけど、僕は別にいらないって正直にね」
ハロルドはいつだって、コゼットが一番嫌がることをしてきた。
そのたびに心配そうにしながら、楽しそうにコゼットの反応を見ていた。
だがもう何年も一緒にいるせいだろう。心ない発言は増え、今もハロルドはいつものような穏やかな笑みを浮かべていない。
「あのとき、君に従わず帰していればこうはならなかったのかな?」
ただ楽しそうに、コゼットがすべて悪いのだと、笑いながら言った。
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