(おかしいだろう……どうしてそうなった)

 ミハイルが会場に戻り繋がりを作ろうと話しかけてくる人々に囲まれはじめた頃、アルミラは角を曲がったところで壁に手をついて項垂れていた。


「……嘘だろ」


 漏れ出た小さな声は驚愕に満ちている。壁についていないほうの手で口元を覆い、ぱちぱちと何度も瞬きを繰り返す。


 そして幼少期の思い出が脳裏によみがえる。


 髪を切ったことに驚いたミハイルが落とした本の数に、あんな奴のために頑張るとはすごいな、と感心したことがあった。

 ミハイルは見かけるたびに何冊もの本を持ち歩いており、レオンも見習えばいいのにと思ったこともある。


「君はしっかりしているね」


 と言われたときは、どの口が言うんだと思ったことすらある。


「お義兄様とでもお呼びしましょうか?」


 子供らしい悪戯心からそう言ったときは、曖昧に笑って濁された。

 「鳥肌が立つ」と言ってのけそうなエルマーとの付き合いに慣れていたアルミラにとって、打っても響かないその態度は少々拍子抜けだった。


 ほんの些細なやり取りを、両手指で足りる数しかしたことがない。

 レオンに婚約破棄されてから付き合いが増えたとはいえ、ほんの一月ひとつき程度の関係だ。


 だからこそ、今さっき見たものや聞いたことが信じられなかった。


(ありえない)


 アルミラは自分に女性的な魅力がないことは百も承知している。


 だというのに、ミハイルはアルミラを抱きしめただけでうるさいほどの鼓動を奏で、甘く名前を呼び、熱のこもった眼差しをアルミラに向けた。


 しかも、アルミラはハロルドの悪癖を知っている。

 他人の大切なものにちょっかいをかけて遊ぶハロルドに仕えるフェイが、意味もなくアルミラの名前をミハイル相手に出したとは思えない。


 それらを総合した結果導き出せる答えは、一つしかない。


(ミハイル殿下は、私に恋情を抱いている)


 心の中でとはいえそう呟いてしまえば、自覚するしかない。


 もしもミハイルが会場に戻らずアルミラを追いかけていれば、頬を染めた姿を見ることができただろう。だが生憎なことに、この場にはアルミラしかいなかった。


 アルミラの周りにいる異性といえば、からかいあうだけのエルマーか相性の悪すぎるレオンくらいなものだ。

 ついでに触れれば本当に折れてしまいそうな兄と、自分の身体能力を基準に訓練してくる鬼もいるのだが、なんにせよろくでもない相手しかいない。


 自身の色恋沙汰とは縁がなく、思いを寄せることも寄せられることもないまま十六年間を生きてきた。


 つまり、アルミラの恋愛経験値はほぼないに等しい。


(おかしいだろう……どうしてそうなった)


 アルミラがミハイルにしたことといえば、脅迫だ。自己保身の強さを利用してレオンと対峙させるだけでなく、同情やらなんやらを利用して協力関係にこぎつけた。


(好かれる要素なんて、ないはずだ)


 嫌悪されていないのが不思議なほどしでかしている。

 他にしたことといえばお姫様抱っこや馬の後ろに乗せたりといった、男としては屈辱的なことだけだ。


 男として屈辱なはずの行為が乙女心に火を点けたなどと、たとえ恋愛経験値があったとしてもたどり着けたかどうか。いまだにミハイルの乙女心に気づいている者はいない。


(……いや、そんなことは私には関係ない)


 アルミラはミハイルのことを嫌っているわけではない。むしろ穏やかに過ごせるだけ希少だとすら思っている。


 だから、状況が違えばそれなりに身の振り方を考えただろう。


 しかし今のアルミラはレオンとの婚約がなくなったことにより、正妃にふさわしくないとされた。そのため、ミハイルの正妃になることはできない。

 そして、この先においてすることによって側妃や愛妾にすらなれなくなる。


 だから考えるだけ無駄だと思っているというのに、口元を覆っている手が顔の熱さを教えてくる。


 それを振り払うかのように、ガンと壁に額を打ち付けた。

 ひびが入り、石くずが散る。アルミラは血すら滲んでいない額を壁から離し、頭を振った。


 かつては騎士がお姫様と結ばれるような恋物語に憧れたこともある――もちろん、お姫様のほうにだ。

 だがそんな甘い考えはとうの昔に捨てた。


(私は私のすることをやるだけだ)


 いつものように割り切り、頭を切り替える。

 ハロルドがミハイルの思いを察しているのなら、アルミラにちょっかいをかけてきてもおかしくはないが、王都に戻ってきてからというものその気配はない。


(フェイ様がごまかしたか)


 それならば好都合と、笑みを浮かべる。ハロルドにとって、アルミラは用済みになったレオンの婚約者にすぎないだろう。


 フェイとミハイルとの接触にさえ気をつければ、ある程度自由に動けると確約されたものだ。


(レイシア嬢には悪いが、私はここらで退散するとしよう)


 長く入り浸ればフェイに見つかってしまうかもしれない。

 侵入してきた壁を上り、最後に明かりの漏れる窓を一瞥してから侯爵邸から脱出した。



 それから、アルミラは自分が招待されていない社交場には侍女姿で侵入し、ミハイルが参加しているときには外で待機。

 招待されているものには積極的に参加した。ミハイルとたまに遭遇してしまうことはあったが、あちらはあちらで人に囲まれているため言葉を交わすことはない。


 アルミラも意識してミハイルを避けているので、同じ会場にいながらも顔を合わせないこともあった。



 そうして二週間ほどが過ぎたある日、アルミラは王都にある森林浴のためにだけ用意されたかのようなこじんまりとした雑木林に足を踏み入れる。


「コゼット様」


 ベンチに座る先客に声をかけると、コゼットがゆっくりとアルミラのほうを見た。


「あら、久しぶりね。学園に行く前に会ったきり……だったかしら」

「はい。忙しく中々顔を出せず申し訳ございません」


 一礼し、コゼットの横に腰かける。


「最近はどうなの? あの人に一泡吹かせるようなことをした?」

「いいえ。まだしておりません」

「そう、残念だわ」


 アルミラが王城に赴いていたのはレオンの婚約者だったからだ。その肩書は失われ、王と謁見することもなければコゼットと茶会を楽しむこともない。

 だがコゼットの様子からは、微塵もそのことを感じられなかった。


(……やはり、理解できていないか)


 気づかれないように小さく溜息をつく。レオンが幽閉されたことがコゼットの中でどう処理されているかわからない。

 ならば下手なことは言わないほうがいいだろうと判断する。下手につついてコゼットの世界がこれ以上壊れれば、世界の果てまで追ってきそうな鬼によって叩き潰されることだろう。


「コゼット様」

「なに?」

「先に謝っておこうと思いまして……私は私のために、したいことをします」


 小さく首を傾げていたコゼットの唇が笑みの形に歪む。


「好きになさい」


 コゼットは堂々とした振る舞いと棘のある口振り、そして苛烈な性格から悪女のようだと言われている。

 それは今も昔も変わらない。


「私も私のしたいようにするもの」


 アルミラは正常だったときのコゼットを知らない。

 初めて会ったときから、コゼットは現実と虚構の境目にいた。


(だがきっと、そこまで変わらないのだろうな)


 ありとあらゆるものを嫌い、結果として歪んだ世界に生きることになったというのに、それを感じさせないほどこちらを見据える目は真っ直ぐで、赤い瞳は爛々と輝く炎のようだった。

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