(下手に動くと落ちるかもしれない)

 見知った相手が現れたことに、ミハイルはほっと胸を撫で下ろした。そして同時に恨まれていなかったことを喜んだ。

 そんなミハイルの胸中にアルミラが気づくはずもなく、穴の中をランタンで灯して中の様子を観察する。


「少々お待ちください」


 そう告げると、アルミラの姿が消えランタンの光が遠ざかった。差し込んだ光がなくなっていくことに、ミハイルの不安がいっそう掻き立てられた。


「アルミラ……!」


 思わず名を叫ぶと、再度光が向けられる。


「ミハイル殿下、縄にできそうなものを探してまいりますので、お待ちください」

「あ、ああ……わかった」


 やんわりとたしなめるように言われ、ミハイルは大人しく頷きその場で待つことにした。さすがにこれでまた呼べば、呆れた視線が向けられそうだ。

 迷子の幼子ではないのだからと自分に言い聞かせるが、どうしてもそわそわと落ち着きがなくなってしまう。


 もしかした戻ってこないかもしれないという不安から、アルミラの名を呼びそうになるのを必死で堪えた。


「……遅いな」


 何度か名を呼びかけ口を閉ざすというのを繰り返したのだが、一向に戻ってこない。実際にはそこまで時間は経っていないのだが、穴の中にいるミハイルでは時間の確かめようがない。暗闇に一人でいるという状況が体感時間を狂わせている。


(賊でもいたか……?)


 ミハイルがここにいた理由はまだわからないが、ここに落とした誰かがいる可能性は高い。本人か協力者かはわからないが、誰かしらいて交戦状態になっていてもおかしくない――不安からくる焦燥により、ミハイルの思考がとんでもない方向に飛びかけている。

 そもそもそこらの賊相手にアルミラが後れを取るはずがないのに、そのことすら失念していた。


「アルミラ、大丈夫か!」


 呆れられたくないからと呼ばなかったのに、心配になり呼んでしまうのだから、ミハイルがいかに混乱しているのかよくわかるだろう。


「……なにがでしょうか」


 ひょい、とアルミラがランタンの光と共に穴の中を覗きこむ。その顔には焦りもなにもない。ただ困惑の色が滲み出ていた。


「いや、賊かなにかいるかもしれないから……」

「その程度問題ではありません。今問題なのはは……蔦とかが見つからないことですね」

「そ、そうか」


 平然とした様子にミハイルは安堵の溜息を零す。


「そこで安心されるのがよくわからないのですが」

「君が大丈夫ならそれでよかったと思って」

「大丈夫じゃないのはミハイル殿下です。ご自身が置かれている状況をよく考えてください」

「あ、ああ……いや、それはわかっているのだけど、君が来てくれたから」

「そういうことは出られてからおっしゃってください」


 ぴしゃりと言い切られ、ミハイルはしゅんと肩を落とした。

 先ほどまで沈みに沈んでいたのだが、一人ではなくなったことでだいぶ心が和らいでいる。


 アルミラはそんな様子のミハイルに苦笑を浮かべると、また「少々お待ちください」と言って穴のふちから遠ざかった。


「ミハイル殿下、男の矜持が守られるのとすぐにそこから出るのでしたら、どちらがよろしいでしょうか」


 そして今度はすぐに戻り、そう問いかけた。

 突拍子もない質問にミハイルは目を丸くし、少しの間考えると「ここから出るに越したことはない」と返す。


 ミハイルにも自尊心はあるが、わずかなものである。土壁に囲まれて過ごすよりは、男の矜持とやらを捨てるほうがマシだと考えた。


「かしこまりました。では少々端に寄っていてください」


 アルミラはランタンを地面に置き、ミハイルが言われるがまま張りつくように土壁に寄るのを確認してから穴の底に飛び降りた。

 三階から飛び降りても平気なミハイルよりも鍛えているアルミラは、なんなく着地してぽかんと呆けた表情をしているミハイルに微笑みかける。


「な、なんで君まで降りてくるんだ!?」


 目の前に立つアルミラにミハイルは完全に動転した。掴みかかる勢いで詰め寄られ、アルミラは小さく首を傾げた。


「出たいと仰せでしたので」

「だからって、君まで来てどうするんだ……」

「もちろん、ミハイル殿下を抱えて出るだけです」


 あっさりと告げられ、ミハイルの顔から表情が抜ける。

 だがアルミラに言われた男の矜持うんぬんを思い出し、抜けた表情がすぐに引きつったものに変わった。


「……さ、さすがにそれは」

「ミハイル殿下、舌を噛まないように口は閉じていてください」


 首を振り全力で固辞しようとするミハイルだったが、アルミラは有無を言わさず膝の裏と背中に手を回し持ち上げた。俗に言うお姫様抱っこである。

 これがレオン相手であればアルミラは遠慮なく襟を掴んでぶら下げたが、さすがにミハイル相手にそれはできなかった。

 あるいは背負うことができるならそちらのほうが安定感があるのだが、いかんせん背丈の問題がある。足を絡めてしがみつくのは嫌だろうとアルミラなりに配慮した。

 つまり、このお姫様抱っこは徹頭徹尾アルミラなりの優しさでできている。


「では、いきますので……しっかりと掴まってくださいね」


 だがいくら優しさゆえとはいえ、羞恥心に襲われるのはどうしようもない。顔を青くさせたり赤くさせたりと忙しかったミハイルだが、アルミラが土壁を蹴って穴の中を駆け上がっていくと、もはや恥ずかしいだなんだとは考えられなくなった。


 それどころか間近にあるアルミラの真剣な表情と密着した体から伝わる熱、そして触れる柔らかな感触に、ミハイルは盛大にときめいていた。

 危機的状況に現れて、救出劇を繰り広げているのだ。これでときめかないはずがない。


 だがもしも、色恋沙汰に詳しいエルマーがここにいれば「それは錯覚だ。状況が見せるまやかしだ。目を覚ませ」と熱弁していたことだろう。


 しかしこの場にエルマーはいない。


(下手に動くと落ちるかもしれない)


 ミハイルは言い訳するように心の中で呟くと、目を瞑りアルミラに体を寄せる。


 色々間違えているとミハイルに言える者がいないせいで、母親譲りの乙女心に火が灯された。

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