(あのときは死ぬかと思ったなぁ)

  レイシアはその日、上機嫌だった。朝から待ちぼうけを食らいはしたが、初めて友達になれそうな子と出会い、授業の合間にある休憩時間も悪意の視線は向けられてもなにかされることはなく、平穏に過ごしていた。


 待ちに待った昼休憩で、レイシアは浮足立ちながら食堂に向かった。レイチェルとはクラスが違ったので、食堂で待ち合わせることになったからだ。


(そういえばレイチェルはどこの教室なのかな)


 レイシアの学年は三つのクラスしかない。一つはレイシアがいるクラス、もう一つはアルミラのいるクラス、最後の一つがレオンのいるクラスだ。

 レイチェルがアルミラとレオンと同じクラスだったとして、レイシアの噂を聞かないなんてことがあるのだろうかと疑問に思いかけていたのだが、食堂の前で待つレイチェルを見つけた瞬間、レイシアの疑問は吹き飛んだ。


「来てくれてよかった」


 親しい友人に対するような柔らかな笑みに、レイシアは表現しがたいこそばゆさを感じた。

 学園に入る前、実家にいたときにはある程度親しく話す間柄の者はいたが、学園に入ってからというものこうして親しく話してかけてくる相手はレオンくらいしかいなかった。


 入学した当初は話しかけてくれる女性もいたが、レイシアが男性と話すたびに少しずつ数を減らしていった。

 レイシアに直接苦言を漏らす者もいたのだが、なぜだかいつも間に男性が割って入り、逆に苦言を漏らした相手を責め立てた。


 親切心で教えてあげているというのに責められてはそれ以上関わる気がなくなるのも当然だろう。しかもレイシアは責める男性を止めることもせず、背に守られながら不安そうにしているだけだ。

 無論、レイシアにも言い分はある。レイシアに苦言を漏らした相手も間に入ってきた男性も、レイシアにとっては高位貴族の子息息女であり、二人の間に繰り広げられる舌戦に参加することがレイシアにはできなかった。


 そうこうしている間にレイシアに話しかけてくる女性はいなくなり、代わりとばかりに男性が世話を焼いた。


(そういえば、そのくらいかな。レオン様に会ったの)


 ある日、授業でもらったプリントが風に舞い、窓の外に飛んでいった。窓から少し離れた木に引っかかったのをなんとか取ろうと身を乗り出したのだが、どうにも届かない。

 またもらえばいいと思いながらも、どうにか取れないだろうかと意地になってさらに身を乗り出したところで、手が滑り――落下した。


 そしてそこを、真下にいたレオンに助けられたのが、レイシアとレオンの出会いだった。


(あのときは死ぬかと思ったなぁ)


 落下したこともそうだが、暴君で知られているレオンを目の前にしたときも、レイシアは死を悟った。

 地面に這いつくばり「お手をわずらわせてしまい申し訳ございません」と誠心誠意謝罪するレイシアにレオンは――


「ねえ、なに食べる?」

「ん、んー、食堂のメニューにあまり詳しくないの……お勧めはある?」


 レイチェルに話しかけられ、思い出に浸りそうになっていた意識が戻る。食堂に来たのは久しぶりのことだった。

 レオンと知り合ってからというもの、昼休憩は毎日のようにレオンと過ごしていた。


「そうね……嫌いな食材はあるかしら」

「特には……あ、でも辛いものは少し苦手かも」


 食堂のメニューはそこまで数が多いわけではないが、どれもおいしいと評判だ。季節の食材に合わせてメニューも変わるので、最初の一ヶ月しか食堂を利用していないレイシアにとっては、どのメニューもまだ味わっていないものばかりだった。

 そのため、目移りしながらもレイチェルとああでもないこうでもないと話しながら選ぶことになったのだが、そんな気安いやり取りすらも楽しくてレイシアの顔に自然と笑みが浮かぶ。

 レイチェルが同じ子爵家の生まれで敬語はいらないと言われているのも関係しているのだろう。この二ヶ月あまりを気を張り続けないといけないレオンと一緒に過ごしていたのだからなおさらだ。


 メニューを選び終わると、空いている席に座り食事が運ばれてくるのを待つだけになった。

 顔を突き合わせてなにを話そうかと悩むレイシアだったが、口火を切ったのはレイチェルのほうだった。


「そういえば、アルミラ様とレオン殿下の噂はご存じ?」


 選ばれた話題に、レイシアの顔が引きつる。どくどくとうるさくなる鼓動に、レイシアはわずかに顔を伏せた。


「なんでもレオン殿下に好意を寄せる女性ができたそうだけど、どんな方なのか……あなたは知ってる?」

「え……ええ、と、少し、なら」


 小首を傾げるレイチェルに、レイシアは目を瞬かせ言いよどむ。アルミラとレオンの噂を知っていながら、レイシアのことは知らない。そんなことがありえるはずがないのに、このときのレイシアは先ほどの衝撃もあり正常な判断を下せない状態だった。

 知られていなくてよかったと、純粋に喜んでしまったのだ。


「アルミラ様に対抗しようだなんて、ずいぶんと思いあがった方なのかしら」

「いや、それは……違う、なんてこともあるんじゃないかな……?」

「あら、なにが違うの?」


 今は知られていなくても、いつかは知られてしまうかもしれない。そのときにレイチェルから向けられる視線を想像し、レイシアは思わず弁護するようなことを口走ってしまった。


「対抗しようとか、そんなこと考えてない……なんて可能性もあるかなぁって」

「じゃああなたは、その人はどういうつもりなのだと思うの?」


 肩を持ちすぎて怪しまれるのも嫌で必死に言葉を選ぶレイシアは、観察するような目でレイチェルが見ていることに気がつかなかった。


 どういうつもりか――そう聞かれて、どう答えればいいのかレイシアにはわからなかった。レオンが勝手にそばにいるだけ、と言うにはついこの間レオンを訪ねてしまったし、レオンのせいにだけするのは気が引けたからだ。


 空気は読まないし傍若無人だが、命の恩人でもある。ついでに下手なことを言ってレオンの耳に入るのも怖かった。


 言葉に窮しているレイシアをレイチェルはただ見つめながら、回答を待っている。


「な、なんででしょう……?」

「あなたにもわからないの?」


 沈黙に耐え切れずレイシアが首を傾げると、くすりと笑いながらレイチェルも同じように首を傾げた。


「レオン殿下はあのとおりの性格でしょう? 王族と繋がりがほしいなら穏和なミハイル殿下のほうが狙い目よね。横暴な人といて利があるとは、あまり思えないのよねぇ……まさか正妃の座を狙ってる、なんてことはないでしょうし」

「いえ、でも……そこまで悪い人ではないんじゃないかなぁって……」


 そうであってほしいという願いが多少含まれているとはいえ、話に聞いていたほど悪い人にはレイシアには思えなかった。


(確かに扱いに困る人だけど……)


 噂にうといレイシアではあるが、レオンの評判だけは学園に入る前から知っていた。


 権力を笠に着ての我儘放題。婚約者である公爵令嬢を顎で使っている、などなど。

 実際学園に来てからも、アルミラを小間使いのように使っている現場が目撃されたため、噂は真実であると瞬く間に広がった。


 だからこそレイシアは、窓から落ちたときに青ざめ命だけはと懇願するために這いつくばった。


「あら――」


 レイチェルの言葉はそれ以上続かなかった。

 怒りに満ちたレイシアの名前を呼ぶ声が食堂に響いたからだ。


「なにをしている」


 不機嫌そうに眉をひそめたレオンが一直線にレイチェルとレイシアが座っているテーブルに近づいてくる。

 苛々としたその様子に、レイシアの顔から血の気が失せた。


「ああ、あの、朝待ってたのですが、いらっしゃらなかったので」


 そもそもすでに昼時だ。謝る必要があるのかどうか疑問に思いながらも、レイシアは必死に言い訳を口にする。

 だがレオンはレイシアを一瞥すると、すぐにレイチェルに視線を移した。


「どういうつもりだ」

「レオン殿下、ご機嫌麗しゅう」


 椅子から立ち上がり綺麗な礼をするレイチェルに、レオンの瞳が鋭くなる。射抜くような視線にレイチェルが困ったように眉を下げた。


「俺はなにをしているのかと聞いたのだが」

「レイシア様と昼食をご一緒させていただいております」

「アルミラの差し金か」

「残念ながら、私はアルミラ様と親交はございません」


 二人のやり取りにレイシアがおろおろと視線をさまよわせた。なぜだかわからないが、レオンの怒りがレイチェルに向いている。

 まさかレイシアがレオン以外と昼食を一緒にしたから――ということではないだろう。そこまで執着されるような心当たりがレイシアにはなかった。


 だが放っておけば、レオンは怒りのままレイチェルを断じるだろう。

 友達になれそうな相手がレオンに叱責させるのが嫌で、レイシアはレオンの手を握った。


「あの、レオン殿下。注目を集めておりますので、その、できればどうか穏便に」


 ここでしなを作って誘惑の一つでもできれば立派な悪女になれるのだが、残念ながらレイシアにその素質はなかった。

 レイシアは悪人というわけではない――かといって、善人というわけでもないのだが――そのため、誘惑しようと思って誰かを誘惑したことがこれまで一度もなかった。


「……行くぞ」


 握られた手を握り返して乱暴にレイシアを立たせると、レオンは再度レイチェルを睨みつけてから食堂を出ようと足を進めた。

 頼んだ食事が食べられないのは心残りではあったが、このままここを立ち去ればレイチェルに害が及ぶことはなくなる。安心すればいいのか悲しめばいいのかわからない心境に、レイシアはなにも言えずただレオンの後をついていく。


(悪い人ではない、と思うけど……どうなんだろ)


 揺らぎかける思いに、レイシアは後ろを振り返りレイチェルの様子を窺う。両手を胸の前で組み心配そうにこちらを見るレイチェルを少しでも安心させようと、笑みを浮かべて空いた手でばいばいと手を振った。


「レオン殿下」


 だがそこでレオンの足が止まる。


「女性にはもう少し優しくしたほうがいいのでは?」


 優男風の風貌に、レイシアは彼が誰なのか記憶をあさる。少なくとも、レイシアと同じクラスの人ではない。

 だがどこかで見たことのある顔だ。


(確か……一度話したことあったような。名前は……ええと、エルマー様、だったかな)


 侯爵家の息子で、アルミラの従兄だと名乗っていた気がする。

 そこまで思い出して、レイシアはレオンを見上げた。


「お前には関係のないことだ」

「さすがに無理矢理連れていくのは見過ごせませんよ」

「あいつになにか言われたか」

「いえ、個人的に気になっただけです」


 レオンの冷たい瞳とぴりぴりとした空気に、レイシアは身を縮めた。

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