「デートのお誘いとでも思っていただければ」
「……どうして仮面を?」
下校時間になり帰ろうとしていたミハイルだったが、一足遅くアルミラに捕まってしまった。仮面を着けた男装した女性が迫ってきて、思わずぎょっとしてしまったのが敗因だろう。
それがなければ逃げきれていたかもしれない。
「レオン殿下と顔を合わせないためです」
「私の前では外してもいいのでは……?」
「どこから現れるかわかりませんので」
仮面のせいでくぐもった声に、ミハイルは苦笑を浮かべる。
昼休みは色々な意味で危なかったが、さすがに仮面相手にときめくこともないだろうと少しだけ安堵していた。
「ですが、ミハイル殿下がどうしてもとおっしゃるのでしたら……あなたの前でだけ外すのもやぶさかではありません」
囁くような柔らかな声色に、ミハイルはじっと仮面を見つめた。
(これは仮面だ。仮面を付けた相手にときめくなど、そんなことあるはずがない。だって仮面だぞ、しかも顔全体を覆う白塗りの。それにときめくほうがどうかしている)
あなただけ、という特別な響きに思わずときめきかけたミハイルは、必死に自己暗示をかけていた。
男子寮はもはや目と鼻の先、振り切って逃げることもできる距離だが、ミハイルは捕まってしまったからしかたないと諦めていた。
そう、諦めただけで、わずかに抱きかけたときめきのせいで逃げることをやめたわけではない。
「仮面についてはこの際置いておくとして……わざわざ声をかけてきたということは、なにか用があってのことかな?」
昨日の放課後は王にならないかと言われ、昼には昼食に誘われ、そしてまた放課後に呼び止められた。
まさかただの雑談、ということはないだろう。
「昨日の話なら受けるつもりはないよ」
昼食を共にした理由はわからないが、アルミラがレオンを押しのけてミハイルを王にしたいということはわかっている。
だがどれだけ命の危機にさらされようと、その話を受けることだけはできない。
ミハイルではなくレオンを次期王に定めたのは彼の父親だ。王である父の命に背くことを、ミハイルはよしとしていなかった。
「その話は追々いたしましょう。それはそれとして、明日のご予定をお伺いしてもよろしいでしょうか」
「明日?」
「はい、明日です」
明日は休暇日だ。普段のミハイルは部屋で過ごすか、学園の周りにある市場に出かけて人々の営みを眺めたりと、一人で過ごすことが多かった。そのため、予定らしい予定を組んだことがない。
「いや、とくには……」
「では明日、私と一緒に出かけませんか?」
ミハイルはこれまで目まぐるしく変わる情勢の中で生きてきた。王になると言われたかと思えば、王にならなくていいと言われ、次期王の友人として見繕われた相手はそのままレオンの友人に変わった。
その友人たちはレオンの我儘に耐えきれず逃げ出したのだが、だからといってまたミハイルの友人になったわけではない。
むしろレオンが嫌っているミハイルと親しくして、レオンに目を付けられたくないと避けられた。
女性関係もさることながら友人関係にも乏しいミハイルは、休暇日を家族や使用人以外と過ごした経験が少ない。
「デートのお誘いとでも思っていただければ」
しかもデートともなれば、経験すらしたことがない。
仮面の奥ではにかんだように笑うアルミラを想像し、ミハイルは硬直した。初心すぎる男の妄想力はときに現実以上の効力を発揮する。
「なにもおっしゃらないのでしたら、肯定と受け取りますがよろしいですか?」
実に都合のいい理屈で話を進めようとするアルミラに、ミハイルは慌てて首を横に振った。
放心している場合ではないと気を取り直し、毅然とした態度で立ち向かおうと小さく息を吐く。
「駄目だ。君はレオンの婚約者だから、一緒に出かけることはできない」
「すでに見限られている婚約者でも、ですか?」
「正式に認められていないなら、君の立場は変わらないよ」
政略的な婚約に当人同士の感情は関係ない。互いに想う相手がいたのに引き離され、想わない相手と結婚した例なんてごまんとある。
好きとか嫌いとか、そんな感情でどうこうできるようなものではない。
貴族にとって子は道具であり、王子もまた王に仕える臣であると同時に道具である。道具がごちゃごちゃ言ったところで、多少使い方を変えることはあっても自由を与えるようなことはしないだろう。
唯一の例外が、この学園だ。道具だとしても、心のある道具だと理解されているからか、この学園にいる間はある程度の自由が与えられている。つまりこの学園は学びの場であると同時に、発散の場でもあるということだ。
そのため、王命に背くような発言をしたレオンの婚約破棄宣言も大事にはなっておらず、婚約もいまだ維持された状態だ。
(さすがに命を脅かすようなことがあれば別だろうけど)
だが幸い、レオンとアルミラの間にそのような兆候は見られない。ミハイルがアルミラに抱きつぶされそうになったことは、ミハイルの恩情によりなかったことにされている。
間違っても報復が怖かったわけではない。
「下手な噂が立つと将来困るのは君だ。レオンのそばに居続けることになるから、私とはあまり関わらないほうがいい」
そしてレオンが誰よりも嫌っている相手に懸想していたとなれば、結婚したあとの生活は苦しいものになるだろう。
レオンと関わりができそうな者とは付き合わない。それがミハイルがこれまでに培ってきた処世術であり、相手を考慮した方法でもあった。
「さすがにその心配は今さらではないでしょうか」
「まだ取り返しがつくかもしれないだろう。幸いレオンは今レイシア嬢に夢中だ。今後付き合いがなければ忘れてくれるかもしれない」
突き放すように言うと、アルミラは黙り静かに顔を伏せた。
肩を落とし消沈しているかのような素振りに、ミハイルは良心が痛むのを感じながらも、ここで屈してはいけないと自分を鼓舞する。
「ではミハイル殿下は、私がレオンの下僕のままでいればいいと……そうおっしゃるのですか?」
「……それは」
レオンのアルミラに対する態度がひどいことは、ミハイルの耳にも届いている。
女性らしさの象徴でもある髪を切らせ、女性らしい肢体を覆い隠すように紳士服を纏わせ、小間使いのようにあれこれと命令し、果ては別の女性と懇意になり婚約の破棄を言い渡した。
少々事実とは違っている噂を思い出し、ミハイルは口ごもった。
「ミハイル殿下、どうか私を助けると思って付き合ってはくれませんか? あなただけが私の救いです」
手を握られながら懇願するように言われ、ミハイルは完全に動揺した。仮面の奥で涙で潤んだ瞳を見たような気すらしていた。
初心な男の妄想力は中々のものである。
「ミハイル殿下に責が及ぶようなことはいたしません。ただ婚約がなくなるまで、私にお付き合いいただけたらと……そう思っているだけなのです」
ミハイルは固く目を瞑り、思い描いたアルミラの姿を追い払おうと必死になる。だが彼が見ているのは妄想。目を瞑ったところで消えるわけがない。
むしろ目の前にいる仮面の男装の令嬢が見えなくなった分、手から伝わる柔らかな感触やぬくもりがより顕著になっただけだ。
「いや、しかし……そもそも、婚約者がいる身で他の男に懸想していたとなれば、君の醜聞に」
レオンは側妃や愛妾を持つことが認められているが、アルミラは違う。婚約中の不貞により向けられる非難の目はレオンの比ではないだろう。
「今さら醜聞など気にしません。レオン殿下との婚約がなくなるのであればその程度……どうでもよいことです」
冷たい響きを持つ声と、手から伝わる痛みにミハイルは目を開け、目の前に立つアルミラを見下ろす。
「……君はなにを狙っているんだ?」
「レオン殿下の望みどおり、婚約の破棄を」
その含みのある言い方に、ミハイルは眉をひそめた。抱いていたときめきはすでに消えうせている。
仮面の穴から見える真剣な色を灯した瞳に、ミハイルは繋がれた手を外しながらゆっくりと口を開く。
「それをして君はなにを得られる」
「私の欲しいものが得られます」
「……それで婚約破棄を?」
「それがお望みのようなので」
ちり、と焼けつくような痛みを胸に覚え、ミハイルは長く大きな溜息をついた。
「……わかった。私が断ったところで、君は諦めそうにない。ただし、私にとって不利な状況になりそうだったらすぐにやめてもらうよ」
「ありがとうございます」
仮面の奥で冷たく微笑むアルミラの姿を見て、ミハイルは口を引き結んだ。
それが妄想によるものなのか実際にそうなのかは、仮面に覆われ確かめようがない。
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