「はい、あーん」

「はい、あーん」


 眼前に差し出されたフォークと、その先についている肉にミハイルは眉間に皺を寄せる。

 昨日さくじつレオンの前から逃亡し、寮でアルミラと別れるまではよかった。そして今日の昼まで問題なく授業を受け、なにもない一日を過ごすとばかり思っていた。

 だというのに、なぜか今は中庭でアルミラと昼食を囲んでいる。どうしてこうなったのかを語るのは簡単だ。

 昼食時に押しかけてきたアルミラに無理矢理に連れ出された、それだけの話である。


 心の傷を癒す間もなく襲来され、ミハイルは断ることもできず昼食を共にすることになった。

 そして仲睦まじい男女のごとく、食事を差し出されている。


「……君はレオンにもそうしていたのかな?」


 だがミハイルにもわずかだが自尊心がある。せめて嫌味の一つでも言ってやろうと、穏やかな笑みを張り付けてアルミラの逆鱗に触れそうなことを口にした。


「まあご冗談を。レオン殿下と昼食を共にしたことはございません」

「……ん? そうすると、君はどうしていたんだい?」


 アルミラが授業が終わり次第昼食の準備に出て、レオンを迎えに行っていたことは有名だ。仲のよろしくない二人とはいえ、一応は婚約者という間柄なのだから昼食を一緒にするぐらいのことはしていただろうとミハイルは予想していたのだが、にこやかに笑うアルミラに一蹴いっしゅうされる。


「昼食を届けた後に速やかに食堂に戻り、友人と一緒に食べていました」

「……それで、レオンは一人で昼食を?」

「いいえ。噂によるとレイシア嬢とご一緒されていたそうです」


 ミハイルは頭を抱えて聞かなければよかったと後悔した。レオンがレイシアと親密だという噂は聞いていたが、どう親密なのかとかは聞いていないし、実際に見たこともない。


 レオンがミハイルを嫌っているのは周知の事実だったため、これまでミハイルは必要以上にレオンに近づこうとはしなかった。下手に近づいて苦言の一つでも漏らせば、レオンの機嫌が悪くなると知っていたからだ。


「ですので、殿方と昼食を共にするのはミハイル殿下が初めて……というわけではございませんね。昼食会などには参加したことがございますので」

「ん、うん、まあそうだろうね」


 アルミラの言葉にぎょっとしかけたミハイルだったが、すぐに否定され、思わず肩を落としかける。

 昼食を共にしたからなんだという話だが、ミハイルは女性の初めてを貰い受けるという、表現だけなら背徳的な響きに思わず動揺しかけていた。

 顔もよく、能力もあり、王子という立場のミハイルだが「ちょっと男性としては頼りないのよね。それに弟があれじゃねぇ」という至極真っ当な評価により火遊びを好む女性は寄りつかず、堅実な女性は「王族のお嫁さんとか無理でしょ。それに弟が、ねぇ……」と最初から候補に加えなかった。


 つまりミハイルはこれまで女性に言い寄られたことはなく、表現だけでうろたえるほどの、初心うぶな男性だということだ。


「まあでも、殿方と二人だけでいただくのは本日が初めてです」


 それを知ってか知らずか、アルミラは微笑みを浮かべながら「初めて」という言葉を口にする。

 ミハイルはその響きにそっと視線を外した。もはや初心を通り越してただのむっつりである。


 つい昨日愛の言葉を受けたときにはうろたえなかったのに、どうして今はうろたえているのか――それはあの愛の言葉がまがいものだとわかっていたからだ。だがしかし本日用意された昼食はアルミラの手作りであり、しかも昼食という日常の一幕、さらに中庭という見慣れたスポットなのがミハイルの精神に影響を及ぼしていた。

 いつもと同じ日常に入りこんだ異物に、どうしても意識を向けてしまう。しかも女性の手作りという、貴族としてはいかがなものかと思えるような代物ですら、初心なミハイルには超弩級ちょうどきゅうの攻撃と化している。


 睦言むつごとや男女のあれこれや色恋などといったものは、ミハイルにとって他者から聞く噂話か、精々が読み物に出てくるものにすぎない。

 その中には女性が思いをこめた手作りの品を男性に贈るものもあったが、まさかそのような境遇に自分が置かれるなどと、これまで想像すらしてこなかった。


 

 たとえ目の前にいるのが男装していて、しかも弟の婚約者で、自分の命を刈り取ろうとした相手だとしても、甘やかな雰囲気にミハイルは呑まれかけていた。


(いや、冷静になれ。これはそういうのじゃない。彼女はただレオンをやりこめたくて私を利用しているだけにすぎない)


 小さくかぶりを振り、自分の中に思わず芽生えかけたときめきを追い払う。見た目に似合わず純情な男であるミハイルは、地位や能力にそぐわず恋愛に夢を見ていた。


 さて、そんな昼食を過ごしているミハイルとアルミラなわけだが、毎日のように昼食を用意させていたレオンがどうしているかというと、腕を組み椅子の上にふんぞり返っていた。


 さすがに昨日の今日で昼食を持ってくるだろうと考えるほど、レオンも馬鹿ではない。身に染みついた習慣から呼びにくる可能性をかすかに考えてはいるが、昨日のように時間ギリギリまで待って、我慢の限界と共にアルミラの教室に乗りこむような真似はしない。


 ではどうするのかというと、レオンがいつもしていることを普段どおりに行うだけである。


「そこの貴様、食堂に行きぜんを運んで来い」


 実に偉そうに、同級生の一人に命令する。声をかけられたのは伯爵家の嫡男であり、一端いっぱしの自尊心の持ち主でもある人物だった。

 それなのに名前も呼ばれず、ただ命令されるだけに彼は強く握りこんだ手を震わせた。


 だが相手は我儘傲慢横暴の三重苦で知られている王子だ。抱いた怒りを抑えこみ「かしこまりました」と震える声で紡ごうとしたそのとき、明るい声が教室に飛びこんできた。


「レオン様!」


 彼の名前を気安く呼べる者はこの学園において一人しかいない。レオンは聞こえた声にぴくりと眉を跳ねさせると視線を巡らせた。

 そこには赤い布に包まれた荷物を抱えた、小動物のように愛らしいレイシアが立っていた。

 レイシアは教室を支配する緊迫した空気に一瞬怯んだが、すぐに明るい笑顔を浮かべてレオンに歩み寄る。


「お昼を作ってきましたので、一緒にいかがですか?」

「作る……? お前がか?」

「はい! あ、でも……手作りの品なんて、レオン様はお嫌でしたか?」


 しゅんと肩を落とし、眉を下げる姿はまさに小動物。愛くるしい所作にレオンは口元をほころばせると、先ほどまで命令していた伯爵家の嫡男には目もくれずに立ち上がった。


「お前の作ったものなら別だ」

「本当ですか? ありがとうございます。嬉しいです!」


 にこにこと笑うレイシアの肩を抱くレオンの頭には、今の今まで下していた命令は残されていなかった。


「これは、用意しなくてもいいということか……?」


 二人の背中を見送り、ようやく緊張の解けた教室で伯爵家の嫡男はひとりごちる。



 これはレオンのあずかり知らぬことだが、彼の昼食は毎回アルミラの手作りだった。レオンの要求は留まるところを知らず、食堂の厨房を預かるシェフから「王子様だがなんだか知らないが、この忙しい時間に一人分だけ豪勢なもんつくれるか!」と不満の声が上がった。

 そのため、アルミラは休憩時間を利用して仕込みを行い、昼時になると仕上げに入り、レオンのもとに運んでいた。


 そうしてつちかってきた料理の腕前にミハイルが少しほだされかけているのは、まったくもって余談である。

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