「はい、おっしゃいました」

 凡人凡才なレイシアだが、力のない子爵家の娘でありながらそれでもなんとか学園でやってこれたのは、これまでつちかってきた処世術のおかげだ。

 とはいっても、手の平の上でころころ転がせるようなものではなく、ほんの少しやりすごせる程度のものではあるが。


 図書室からの帰り、どこぞの令嬢に足を引っかけられ無様に転んでも、レイシアは反抗しなかった。


「ずいぶんと汚らしいものが転がっておりますこと」


 向けられる蔑むような視線に、レイシアは腕に抱いた鞄を抱きしめながら唇を噛みしめて震える――どうしてなにも言い返さないのかというと、この手のやからは少しでも反抗すると「生意気だ」と言ってより嗜虐心しぎゃくしんを燃やすことを知っているからだ。

 だからこそ無力な小動物のごとく震えて、相手の嗜虐心を満たすことによって難を逃れるほうが、傷は浅い。


 だがレイシアの取った行動は令嬢の嗜虐心を満たすだけでは飽き足らず、それを目撃した令息の庇護欲ひごよくすらもあおってしまった。


「君たち! なにをしている!」


 颯爽さっそうと助けに入る令息に令嬢が怯み、忌々しげにレイシアを睨みつける――そんな女の戦いが繰り広げられているとは毛ほども思わない、この状況を作り出した元凶は、婚約破棄を突きつけた相手と自分の兄を前にして苛々と組んだ腕を指で叩いていた。


「俺の婚約者でありながら兄上に懸想けそうしていたとはな。お前の忠義とはその程度のものだったか」


 実に偉そうな言葉を吐くレオンに、アルミラはぴくりと体を震わせた。怯えから、ではない。

 あの横暴ぶりで忠義を抱けると思っている、その馬鹿さ加減に一言物申してやろうかと思ったせいだ。

 だが生憎あいにくレオンから顔も見たくないと言われているので、直接なにか言うことはできない。できるのはミハイルに訴えると見せかけてレオンに嫌味を吐くことだけだ。


「ミハイル殿下、どうかあのような暴君から私を守ってくださいませ」

「暴君だと!? 誰が暴君だと言うつもりだ!」


 お前以外の誰がいると言いたいのを必死にこらえ、前に立つミハイルの胴に腕を回し縋りつく。ぎりぎりと胴を締め上げ、ミハイルが顔をしかめるのもお構いなしだ。



「くっ……レオン、ここは私の顔に免じて引いてはくれないか?」


 このままではぽきりと折られてしまいそうなミハイルは、とりあえず自分の命の保身に走った。


「兄上が俺に命令できる立場だと思っているのか? 俺の臣下になるのだから、そこの無礼な女をひっ捕らえるぐらいのことはしてもらわなくてはな」

「そうしたいのは山々だけどね、でもほら……女の子に乱暴なことはできないだろう? 彼女は今怯えているようだから、また日を改めて、皆が冷静なときに話し合おうじゃないか」


 さらに自分が女の子に力で負けていることを伏せて、レオンの説得に精を出す。ミハイルはことなかれ主義の日和見主義だが、それでもほんの少しだけとはいえ守りたい矜持きょうじがある。

 優秀だとされている自分が、まさか女の子に脅されているなどと口にすることはできなかった。そして自分の命も惜しかった。


「怯える……? そいつが怯えるほど殊勝しゅしょうなはずがないだろう。本当に怯えているのなら、その滑稽こっけいな顔を俺に晒してもらおうか」

「いいえ、それはできません」


 顔をミハイルに押しつけたまま首が横に振られる。そのこそばゆさにミハイルが体をよじろうとしたが、完全に拘束されて動けなかった。漏れそうになる笑い声を必死にこらえ、頬をひきつかせながら真剣な表情を保ち続ける。


「顔を見たくないと、そうおっしゃったのはレオン殿下でございます。あなたからいただいた最後の命令に背くことはできません」

「……言ったか? そんなこと」


 首を傾げるレオンの姿がアルミラに見えているわけではないだろう。だが聞こえてきた間抜けな声に、思わずといった風に胴を抱える腕に力がこもった。ミハイルの口からわずかに呻き声が漏れるが、それを気にする者はこの場にはいなかった。



 忘れてはいけないのは、レオンが癇癪持ちだということだ。ちょっとしたことで苛立っては怒りをぶつける。そんなのは日常茶飯事で、レオンにとっては些細ささいな出来事にすぎず、レオンの頭には残らない。


 さすがに婚約破棄を叩きつけていることは覚えているだろうが、その前後までは記憶しない――大概たいがいのことを些末さまつだと切り捨てる気まぐれな男。それがレオンだ。


「はい、おっしゃいました」

「ならば再度命じる。俺にお前の情けない顔を見せろ」

「一度受けた命令に背くことはなりません。気分でころころと命じたことを変えるのは混乱のもとでございます。ゆえに私は最初に受けた命令を遵守じゅんしゅする所存でございます」


 かつかつかつかつと荒い靴音が聞こえてくる。さては力技にでるつもりだなと察したアルミラは、よりいっそう腕に力をこめることにした。

 レオンに引き剥がされるほどアルミラの体は軟弱にはできていない。だが渾身こんしんの力をこめてミハイルを固定していることがばれたら、少し状況が悪くなる。


「レオン、あまり近づかないでくれるかな」


 だからここは、自分の命が大切なミハイルを利用するに限る。

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