桶狭間にて 前編


―――


「あれ?蝶子。行ってらっしゃいとか言ってくれないの?」

「あんたを見送るのこれでもう三回目だから言い飽きたわ。ま、せいぜい頑張ってね。くれぐれも足手まといにならないように。」

 そっぽを向いてそう言う蝶子に蘭は苦笑する。後ろに控えている市とねねも同じような表情で佇んでいた。


「別れの挨拶は済んだか。」

「あ、信長様。」

 その時、信長が庭の方から現れた。秀吉と光秀を従えている。蘭は背筋を伸ばして信長に向き直って頷いた。


「はい。」

「そうか。それじゃあ出発するか。市、城の方は頼んだぞ。ないとは思うが万が一今川の残党が襲ってくる事も考えられる。そういう時の為に何人かは置いていくが、どうにもならない時はサルを呼べ。全員で末森城に逃げろ。いいな。」

「承知いたしました。お兄様。」

 市が恭しく頭を下げる。残党が襲ってくる可能性があると言われて蝶子は驚いたが、確かにそういう事もありえるのだと思い直した。そして市に倣って頭を下げた後、言った。


「市さんとねねちゃんの事は私に任せて。必ず無事に会わせてあげるから。」

「ふっ……頼んだぞ。帰蝶。」

「はい。」

「あ、あの!」

「どうしたの?ねねさん。」

 突然声を発したねねを不思議そうな顔で見る市。他の者達もねねに注目した。


「御武運をお祈りしております。」

 そう一言言うや否や、庭であるにも関わらずその場に正座した。その頭の向かう先は言わずもがな……

「ありがとう、ねね。必ず戻ってくる。」

 秀吉が前に進み出て、ねねを優しく立ち上がらせる。その顔は蘭と蝶子が初めて見る笑顔だった。


「さてそろそろ参ろうか。時間が無くなる。」

 信長の声が和やかな空気を切り裂く。途端に秀吉の顔がいつもの無表情に戻った。光秀と蘭の顔も引き締まる。


「いざ、出陣!」

 雲一つない青空に凛とした声が響き渡った。




―――


「蘭丸。」

「はい。」

「お前はここから本隊と別れて、サルと一緒に三河軍の本陣である大高城に向かえ。そこで元康が待っている。」

「わかりました。」

「それでは信長様。私達はこれで。」

 蘭と秀吉は信長に挨拶をすると、ちょうど現れた脇道に入って行った。




—――


「蘭丸は、未来とかいうところから来たと信長様に聞いたが本当なのか?」

「え?」

 秀吉が突然そう言った。蘭は思わず立ち止まるが、秀吉は構わず歩き続ける。50メートルくらい差が開いたところでハッと我に返ると慌てて追いかけた。


「本当です。それとお礼を言うのが遅くなりましたが、ねねさんには大変お世話になりました。」

「『念写』の力の事か。ねねも自分が君達の役に立っているという事で毎日楽しそうに過ごしている。お礼を言うのはこちらの方だ。」

 秀吉はそう言って笑った。その表情は今まで見た事のないもので、蘭は再び立ち止まった。


「どうした?先程から。」

「いえ、あの……秀吉さん、いつもと雰囲気が違うなぁ~と……」

「あぁ。自分で言うのも何だが私は元々喜怒哀楽が激しい人間なんだ。でも信長様が『心眼』の力を持っていると知って、なるべく心を殺そうと思ってね。まぁどんなに頑張ってもあの方には視られてしまうのだろうけど。」

「信長様は滅多な事では力を使いませんよ。でも俺は何か、からかいやすいのかわかりやすいのか知りませんが、しょっちゅう視られちゃってますけど。」

 蘭が拗ねたような口調で言うと、秀吉は「ははは。」と明るい声を上げた。


「『瞬間移動』の力を買われて信長様に仕える事になった時、信長様はこんな素性もあやふやな者に対してご自分の力の事も包み隠さず話して下さった。その時誓ったんだ。この人に死ぬまでついていこうと。」

「あの、聞いてもいいですか?」

「何だ?」

「秀吉さんってどこの出身ですか?この尾張ですか?」

 蘭はこの際と思って、ずっと聞きたかった事を聞いてみた。つい先日信長に話した事だが、比叡山の延暦寺の修行僧が秘蔵の酒を飲んだ結果、『瞬間移動』の力を得たという説が頭から離れなかったからだ。

 もし秀吉の先祖がその修行僧だったら……この地に超能力者がいる理由になるのではないのか。蘭は秀吉の横顔を見つめた。

 嫌な顔をされたり断られるのではないかと思ったが、秀吉は意外にもすんなりと答えてくれた。


「そう。この尾張の国の足軽の家に生まれた、らしい。」

「らしい?」

「あぁ。物心ついた時には母はいたが、父親はいなかった。足軽だったからきっと戦で死んだのだろう。でも親戚の誰かから天皇の落胤らくいんではないかという話を聞いた事がある。まぁそれも不確かな噂話に過ぎないし、真実を知るのは母のみという事だ。気づいたら生まれていて、気づいたら信長様に仕える事になっていた。私の半生なんてこんなものだよ。」


(それで気づいたら天下統一していた。……って言うんだろうな。この人だったら。)


 蘭の知っている未来は天下統一するのは信長ではなく、この秀吉である。何となく複雑な気持ちになった蘭は俯いた。


「着いたよ。大高城だ。」

 秀吉の声にハッと顔を上げる。目の前に聳え立つ城を見上げながら、これから自分が為すべき事を思って気を引き締めた。




―――


「じゃあ私は行きますが、蘭丸君はここで待機していて下さいね。もうすぐ今川の軍が来ます。私が信長殿に合図を送ると織田軍が背後から奇襲をかける手筈になっているので。いいですか?君は絶対に飛び出したりしないでここにいるのですよ。君に何かあったら私の責任になって後でどんな罰が下されるかわかりませんからね。」

 必死の形相で捲し立てる元康に引きながらも、蘭はこくこく頷いた。


 ここはまさしく桶狭間。蘭は元康と共に大高城からここに移動してきた。これからこの場所で歴史的に有名な戦が始まる。その事に変な気分になりながらも、目の前の元康の迫力に押されていた。


(言われなくても飛び出るなんてバカな事しないし!でも……俺の役目は信長を守る事。)


 蘭は改めて気合いを入れると、元康に向かって返事をした。


「はい!大丈夫です!」

「いい返事です。あ、それと私は家康と改名しました。今川を出たあの日、憎き義元に一方的に貰った『元』がついた名をついに捨てる事が出来た。信長殿に感謝です。」

「そうですか。良かったですね。」

 蘭が心の底からそう言うと、元康改め家康も笑顔を見せた。


「来ました!今川軍の先頭です。では蘭丸君。頼んだよ。」

「はい。」

 隠れていた茂みの隙間から今川軍を確認すると、家康は足早に出て行った。




落胤らくいん……身分の高い男が正妻以外の身分の低い女に生ませた子。おとしだね。いわゆる隠し子。



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