もう一つの名前


―――


 あれから更に数日が経っていた。イチと二回目の『共鳴』をしてからは、特に何事もないまま時だけが流れていく。それでも向こうの世界と繋がっていると思うと気持ちが楽になった。


 しかもお互いに情報をやり取りしているし、蝶子の父親がタイムマシンを作ってくれるという希望が見えた事で、蘭も蝶子もそして市も肩の荷が少し降りたという状態だった。

 ここで無事に生き残れば帰れる。前からそう思っていたが、現実みが帯びたというところだろう。


 そして毎日一緒にいる蝶子と市は以前にも増して仲良くなり、言葉少なだった市も徐々に自分の事を話すようになっていた。



「あの……濃姫様。」

「なあに?」

「聞いて頂きたい事があるのですが、宜しいですか?」

「え!なに、なに?」

 市が控えめに口を開くと、蝶子が食い気味に前のめりになる。それに苦笑して話し始めた。


「濃姫様と同じでわたしにも密かに心を寄せる方がいるのです。」

「え!?」

 蝶子が思わずと言った感じで口に手を当てる。そしてその瞳にみるみる涙が浮かんだ。


「の、濃姫様?どうなされたのですか!?何処か具合でも悪いのでは?医者を呼びますか?」

 あたふたする市を片手で制して、蝶子は言った。

「大丈夫。ちょっと感動しただけ。」

「感動?」

「だって今までは私の話ばかり聞いてもらってたから。市さんの方から話してくれて、私嬉しくて……」

 ついにはその大きな瞳からポロポロ滴が落ちた。


「泣かないで下さい……わたしどうしたら……」

「ごめんなさい。……よしっ!大丈夫。どうぞ、続きを言って下さい。誰の名前が出ても驚かないわ。」

 ぐいっと涙を拭って何故かファイティングポーズをする。市はそんな蝶子に戸惑いつつも、もう泣いていないとわかると好きな人の名前を告げた。


「光秀です。」


 一瞬の沈黙。そして……


「えぇぇぇぇぇぇ~~!?」


 蝶子の叫び声が響き渡った。




―――


「あぁ~……ビックリした。まさか市さんが光秀さんを……」

「ん?市と光秀がどうしたって?」

「げっ……私、声に出してた?」

 蝶子は焦りながら、前を歩く信長の顔を覗き込んだ。


「いや、全部は聞いていない。名前が耳に入っただけだ。」

「そ、そう。……良かった。」

 聞かれていないと知ってホッとした蝶子だった。

「ところで何の用事?話があるからって言われて来たけど、ここって……」

「あぁ、俺の部屋だ。」

 信長に案内されて着いた所は何と信長の寝所。蝶子は大人しく着いてきた事を若干後悔した。



 夕方になって蘭が市の部屋に来てくれて三人で話をしていた時、信長がやってきて蝶子に話があると呼び出した。

 自分がいない間にイチから連絡がくるかも知れないと断ろうとしたが、気を利かせた蘭に『俺がいるから大丈夫。』と言われて今に至る。


(まったく……蘭の奴!変なところで気が利くんだから……)


 心の中で呟いてると、先に部屋に入った信長から急かされた。

「何してる。早く入れ。寒いだろう。」

「あ、はい……」

 躊躇しながらも襖を閉めた。そして信長の言葉を反芻する。


『寒い』

 そう。蘭と蝶子がここに来たのはまだ初夏だった。でも今はめっきり寒くなり、虫の泣く声や寒風が時の流れを感じさせる。確実に半年はこの世界で過ごした事になるのだ。

 そんな風に感慨に耽っていると、後ろから信長の声がした。


帰蝶きちょう。」

「え?」

 聞き慣れない言葉に振り向く。そこには今まで見た事のない悲しそうな、淋しそうな表情の信長がいた。


「帰蝶?」

「蘭丸に聞いた。未来と連絡が取れたって?」

「えぇ。市さんとイチが……あ、イチというのは私の家の家政婦なんですけど、『共鳴』の力を使って繋がる事が出来ました。本当に市さんには感謝してもしきれません。」

「それでお前の父親がタイムマシンとやらを作ってくれるそうだな。もしそれが完成したら……お前は帰るのだろう?」

「当たり前じゃない。それが何?ダメだって言うの?」

「いや、ダメじゃないさ。お前達が元いた世界に帰れるなら、それに越した事はない。」

「じゃあ何で、そんな顔するのよ。調子狂うでしょ。」

 わざと明るく言ってこの重い空気を軽くしようとするが失敗した。信長の表情は依然変わらない。


「お前はいつか帰る。それは運命なのだろう。運命には抗えない。……お前の名は蝶子だったな。」

「え、えぇ……」

「だから帰蝶。いつか帰る蝶。俺がそう命名した。今からお前は濃姫ではなく、帰蝶だ。」

「帰蝶……」

 小さな声で呟く。それがこれからの自分の名前だという。蝶子は変な気持ちになりながらも質問した。


「どうして名前を変えるの?」

「この世界では、女は嫁ぐと名を改めるのが普通だ。本来ならお前もいつまでも『姫』ではないのだが、良い名が浮かばなくてな。先伸ばしになっていた。そんな時、お前達がいつか帰るという現実に直面した。それで一番初めに思いついたのがこの名だ。気にいらないか?」

「ううん。帰蝶って素敵だなって思ってた。ありがとう。」

 満面の笑顔でお礼を言うと、何故か信長が息を飲む。蝶子は不思議そうに首を傾げた。


「……用は済んだ。もう戻っていいぞ。」

 パッと顔を逸らしてまるでハエでも追い払うような仕草をする信長に、蝶子はムッとした。そのまま動かないでいると突然何かが飛んできた。


「キャッ……!」

「早く行けと言ってるだろう!」

 柱に当たって下に落ちたのは扇子だった。さっきとの変わりように驚いた蝶子の足は、ガクガクと震えて止まらない。出て行きたいのに体が動かなかった。


 このままでは殴られるかも知れない。そう思って目を瞑った時、頭に何かが触れた。それは信長の手だった。


「すまん。悪かった。俺が出るからお前は落ち着いたら戻ればいい。」

 そう言うと足早に部屋を出て行った。


「……怖かったぁ~…」

 信長の背中を見送って数秒後、蝶子は座り込んだ。

「帰蝶……か。何だかんだ言って信長も淋しいのかな。」

 ポツリと呟いた。




―――


「帰蝶?今からそれがお前の名前って訳?」

「そう。信長がつけてくれたの。」

 市の部屋に戻ってきた蝶子は、蘭と市に新しい名前を披露した。

 市は素敵な名前だと言ってくれたが、蘭は何故かしっくりこない様子だった。


「なぁ~んか面白くない。」

「はぁ?面白くないって何よ?名前なんだから面白いとか面白くないとか関係ないじゃん。」

「そういう事じゃなくてさ……」

「どういう事よ?」

「まぁまぁ。今日はそのくらいにして下さい。蘭丸は明日も朝早いのですからそろそろお部屋に戻られては?」

 口喧嘩を始めそうな二人を市が止めに入る。言われた蘭はもう夜が遅い事に気づいて、慌てて立ち上がった。


「やばっ!明日は朝稽古だった!じゃあな、蝶子。市様、おやすみなさい。」

「はい。おやすみなさいませ。」

「……たくっ!何なの?あいつは……」


 腕を組んで悪態をつく蝶子を、市は意味ありげな微笑みで見つめていた。


(もしかしたら蘭丸はお兄様に……ふふっ。帰蝶様にはわたしの分まで幸せになってもらいたいものです。)


 市は自分の想い人の事を思い浮かべて密かにため息をついたのだった。



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