ローラン国領内

1話 俺、動けないじゃん。

 ──ふわふわとした浮遊感が、予期せぬ瞬間に突然終わる。


 これが、俺がマンホールの穴に落ちた後に体験した事のすべてだ。


 死ぬほどの激痛!とかそういうものはまったく感じず、凄まじい速度の落下が突然止まったな、くらいの感覚でしかない。直後に板垣いたがきの声が聞こえた様な気がしたのは、俺にまだ息が有ったからなのだろうか。


(絶対死んでるよな……ほとんど紐無しのバンジージャンプみたいな感じだもんな……)


 何であんなトラップの様な形でマンホールの蓋を開けっ放しにするヤツがあるのか。あのままだったら確実に誰かしら落ちる。俺の前方不注意とか注意力散漫とかでは絶対無い、決して無い。……多分。


(板垣……良かったなぁ。お前はまだ若い。死んだのが俺で本当に良かった)


 思い出すのは日頃とんがった突っ込みを入れてくれる長年の相棒と言って良い後輩の事だ。散々俺を天然ボケ呼ばわりしてきたヤツだが、嫌いじゃなかった。路地に入る前に先に行けとからかったが、実際俺が先に行って心底ほっとしている。こんな隕石にぶつかって死んだ!みたいな物笑いの種になりかねない死に方など、目の前でされたら俺は一生軽口を叩けない体になっていただろう。ある意味ありがとう、板垣。


(っていうか俺、死んだんだよな?)


 一生というか、そもそも俺は死んだはずだ。死を体験した事のある人間なんて存在する筈も無いが、間違いなく俺は死んだ。何故なら、こうして目に飛び込んで来る光景が、あのマンホールの奥底の下水道とか病院のベッドの上とか現実的なモノではなく。もっとそう、更に現実的とも言っても良いそんな穏やかな景色だったからだ。


(あは、ははは……ここ、どこ?)


 俺は視界に広がる団欒を見た。団欒?


 言葉通りの団欒だ。


 木造の室内に、簡素なテーブル。これも材質は木か。椅子は四つ設置され、暖炉の炎が右手に見える。敷かれた刺繍の凝ったカーペットが下に有ってテーブルなどはこの上に置かれている様だ。そしてこの俺の左右にソファーの端がちらつくという事は、俺はソファーのど真ん中に座っているという事か。


(そんで……あなた達……誰?)


 暖炉の炎が見えるという事は、もちろんそれを管理する人間がこの場に居るのは必然だろう。暖炉の傍を通る、両手で鍋を持ち運ぶ母親然とした女性と、何やら剣の様なモノを布巾で磨く白髪のオッサン。そして今、この俺にその手を伸ばさんとするのは──


「ウッサー!もうすぐご飯だよ!一緒に食べよ!」


 三つ編みのおさげを二つ揺らしたまだあどけなさの残る少女──だった。


(はっ?えっ?)


 意味不明。少女の手がゆっくりと眼前に迫り、俺は思わず目を瞑ってしまう。


 ──瞑れなかった。


 俺は目が、瞑れなかったのである。というより、そもそも瞬きすらしていない気がする。そして見ず知らずの少女に、顔面、それも目に迫る様に手を伸ばされたら誰でも手を振り払ってしまうだろう。


 だがそんな簡単な事でさえ、何故だか俺には出来なかった。


「かわいいねぇ……」


 むぎゅっ、と顔面を鷲掴みにされた俺は、少女の指が自分の顔の直径の半分にまで食い込んでいる実感を得た。……半分?それ、普通に死ぬ握力じゃないか?どういう筋肉してるのこの子。


「ステラ。お皿を並べてね」


「はぁーーーーい!」


 ステラと呼ばれた少女が、呼ばれてテーブルに振り向いた勢いで俺が一瞬宙を舞う。


(うおっ!?うおっ!!)


 決して魚を指して思っている訳では無かったのだが、その台詞を俺が連呼してしまうのも無理も無かった。何故なら、宙に浮いた俺が、映った窓ガラスの自分と目が合ったのだが。


 その姿は。


「ウッサーはここに居てね」


 むぎゅっと押し込められる様に椅子に座らせられる俺が痛感するその現実。十歳にも満たないであろう少女に簡単に持ち運びされるこの体重。テーブルの上をギリギリ目視出来るだけの身長。そして何より。


 ──俺、動けないじゃん。


 まったく微動だに出来ない体が、窓ガラスに映った俺の姿に確信を与える。そう、マンホールに落ちて意識を失った俺が最初に見たこの世界で、多分俺は……。


「またそのぬいぐるみ?汚れるわよ?」


「大丈夫だもん!気を付けるもん!ね!ウッサー!」


(えっ?ナニソレちよっ、どゆこと?)


 全長にしておよそ30cm。


 淡いピンクとつぶらな黒い瞳。


 短めのうさ耳をこれでもかと携えた、


(……俺、ぬいぐるみになってる──)


 愛らしいうさぎの、ぬいぐるみになっていたのであった。



────────────────────



(待て、待て待て。落ち着け俺。こりゃ夢だ。実はまだ死んでなくて、俺は意識混濁状態の中──にいるんだ。動けないなんて夢の中の話しだろ……)


 椅子にちょこんと座らせられている俺、もとい『うさぎのぬいぐるみウッサー』は、微動だにしないその体で、思考回路をぐるぐるぶん回す。マンホールに落ちて、地面に激突して、目覚めたらこのぬいぐるみの体。


(しかし見に覚えも無いやつらだ……この家もそうだし……リアルティは無駄に高いな)


 食事時なのか、真ん中に鍋を置いたテーブルを挟む様に椅子が二つずつ。


 俺の座る隣には先ほど俺を鷲掴みにした三つ編みの少女が、美味しそうに口をベトベトにしながら鍋の中身であろうシチューのような物を食べている。よくよく見るとその髪色は桜のような薄いピンク色で、普通の日本人なら地肌の肌色との兼ね合いで下手なコスプレ染みた違和感を感じるモノだが、色白な少女にはむしろフィギュアの様な、二次元のイラストの様な、どこか現実味の無い印象を与えて来る。そして俺(ぬいぐるみ)を汚さないとか言っていた気がするが、あまり気にしているような素振りは無い。


 そして俺の真向かいには黙々とパンを口に運ぶ、少し歳のとった白髪の男が居た。痩せぎすのその男は、鋭い目付きを湛えた険しい顔付きであり、先ほどから一言も発言していない。時たま俺にちらりと目をやるが、正直少し怖いし威圧感がある。普段の俺ならこんな時ボケた会話でのらりくらりとやりすごすのだが、動けない俺の目線は常に白髪の男の方向に固定されてしまっている。何この拷問。


 最後に三つ編みの少女を心配そうに眺め、手に持ったスプーンを途中で止めているのはおそらく少女の母親であろう女性だ。母親と言っても年齢的には俺よりはるかに若い様に見え、腰まで伸ばした栗毛色の長髪と柔和な顔の造りからしてかなり俺のストライクゾーンにストレート。可愛い。結構可愛い。何で動けないの、俺……。


 とまぁそんな俺の脳内分析もお構い無しに汚ならしく食を進める少女がピクリ!とそのスプーンを口に運ぶ手前で止まった。


「お母さん、そろそろ全部アレ捨ててね」


「えっ?ああ、そうね。でもコレも駄目になるかもしれないから、終わったら捨てるね」


「…………うん!」


 一瞬、少女の声音が低く低く落ちたのは幻聴じゃないだろう。まったく話しの意味が理解出来ないが、おねしょでもして変色したシーツを捨てて、とか言っているのだろう。いやどんだけおしっこ黄色いんだよ。その歳で病気ですか貴女。


 正直相方が居てナンボのボケを一人で突っ込んでみても面白くもなんともない。というかそもそも喋っている訳でも無くすべて思考内独り言に過ぎないのでますます虚しい。ちょっとそろそろ、発言出来る様になっても良いと思いますけど、俺。これが夢なら叶って!


「──たす、げでぇ」


 叶った!


 じゃない。俺は喋って無い。というか『たすけて』?なんて思っても無い。まるでそんな、死にかけの人間が最期の希望に縋る、懇願とでも言うような苦し紛れの掠れ声なんて──


「……だから、捨ててって言ってるのに」


 空気が、変わった。


 それはもうただそこに座り込んでいる可愛いらしいうさぎのぬいぐるみの俺だけがファンシーな色気を振り撒く中、俺の半径30cm以降の雰囲気がビギリと凍り付く様な。目の前の白髪の男も表情を変えないまま、限界まで眼球だけを左の端に寄せてある一点に視線を集める。パンを咀嚼する口の動きが止まっているのは言うまでも無い。


「たすぅたすぅけでぇ……」


 はっきりした。部屋の中だ。この食卓は のあるダイニングに面した部屋の一つ、俺から見て右手の視界に入る木の引戸の部屋の中。そこからこの誰かの声音が聞こえた。……いや、最初と二度目の声の主は別人の様に思えた。だとしたら誰か達、だが。


「す、すみません!すみません……」


「もういい。茶番は終わり。……ったく」


 勢い良く乱暴に立ち上がった三つ編みの少女は、ガシガシと頭を掻きながらその誰か達の声がする部屋へと向かっていく。そんな少女は豹変した態度に栗毛色の女性は、冷や汗を浮かばせながらおろおろと口に手をやり、白髪に男は詰まった物を吐き出す様に鼻から息をついた。


「まったく……何度も言ってるでしょ。コイツらにはもう何かを考える頭なんて残っちゃいないし、言ってる事なんて全部、壊れたオルゴールのリピートみたいなもんだって。あんたはいちいち考え過ぎ、フェリシア」


「すみませんすみません……」


 ペコペコとあかべこの様に頭を下げるフェリシアと呼ばれた女性は、もはや少女の母親としての威厳も包容力の欠片も残っていなかった。まるで少女の方が姉でフェリシアは妹、とでもいうような鮮やかな立場の逆転。一体何が起こっているのだろうか。所詮動けず話せもしない俺にはこの状況におもんばかる事しか出来ない。


「はぁ。まぁいいよ。とりあえずコレは」


 桜色の髪色の少女がその部屋の扉に手を掛ける。


「アタシが」


 開く、開く。低く呻く様な声音で助けを求めていたその者達が、現れる。このガラリと変わった空気感の元凶であろう、存在。怪我でもしているのだろうか、病に伏せているのだろうか。


 ──コイツら、コレ、捨てて。


 薄っすらと少女の台詞を思い出した俺は、その意味が者を指す言葉遣いではなく、物を指すモノだと何となく思い浮かべた時、ゴロリとそれらは扉の隙間から転がり出して来た。


「……うわっ溜まってた!気持ち悪!」


 その転がり出て来た物達は。


(は?ぬいぐるみ?……動いて、る?)


 様々な動物をモチーフにしたファンシーなぬいぐるみ達だった。中には俺と似たようなうさぎのぬいぐるみも数体いる。折り重なる様に部屋から雪崩て来たぬいぐるみ達の数は俺の動かない眼球の視界に入る限りは二、三十体は居るだろう。そしてそれが全部、微妙に小さく蠢いているのだ。


 それはまるで死にきれなかったゴキブリの様な動き。ビクビクと小刻みに震えながら地味に這い寄るぬいぐるみ達の中の一体が、顔を上げて俺を見た。多分亀をモチーフにした物だろう。短い手を縋る様に俺に伸ばして、痙攣させる布の体を限界まで張り詰める。


「いだぃよぉおがぁさ」


 ──ああ、あああ。


 コレは、このぬいぐるみ達は?


 物、なのだろうか。誰、なのだろうか。


 この声は?この、人間が魂から捻り出したかのような怨念染みた言葉の重みは、本物だ。


 コレは、このぬいぐるみ達は、


(──人間?)


 俺の脳が壮絶な違和感と戸惑い、嫌悪感に激しく動揺する。ここは、どこで、俺は、誰だ、と。夢じゃない。少なくとも、目の前の光景は果てしなく現実感を与える絶望にも似た地獄絵図に見えた。


「……勝手に動くな」


 ムギュリ!と、少女が亀のぬいぐるみを踏みつけたのを見て、俺は確信した。このぬいぐるみ達は、俺だ。俺の先駆者達だと。つまるところ、俺もこのゾンビの様に蠢く彼らの様になるという事なのか。やばい。逃げなければ。一刻も早く。これは夢じゃない。現実だ!


 亀をつまみ上げて部屋の中へ放り投げる少女を横目に、心だけはもうこの家を飛び出していた俺は、かけない冷や汗をかいた様な気になった。今の俺の心情を一言で表すならば、『蛇に睨まれた蛙』と言ったところだ。なんて、冗談じゃない。何故なら俺はそもそも、やっぱり。



──だから俺、動けないじゃん……。



 このうさぎのぬいぐるみの体で、一ミリも動けないままなのであった。

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