ソーイング!~脱サラリーマン、ぬいぐるみになる~

YU+KI

プロローグ マンホールに落ちるなんて……もう突っ込みきれないですよ、俺

「今日は疲れたなぁ」


「何言ってんですか、ひいらぎさん何もやってないじゃないですか」


「いーんだよー。どーせ幹部は俺の事ぜんぜん気にもしてないだろーし。せめて『疲れた』くらい言わせろー」


「……こんな先輩には絶対なりたくない」


「ん?」


「いえ」


 時刻は午後の八時程。自社を背に帰宅の途につくどこからどう見ても平凡なサラリーマンが二人、並んで夜の雑踏を歩いていた。


「あ、そうだ。お前知ってる?この前見付けたんだけどさ。そこの中華料理屋の脇の道入ると、駅までかなり時短出来る」


 およそ三十代には見えない少し平均より高めの身長の男がこの俺、柊柊人ひいらぎしゅうとだ。隣を少し遅れて付いて来るのは後輩の板垣いたがき。彼が入社した時からの付き合いになり、もう五、六年はその顔をほぼ毎日拝んでいる。いい加減その細長の猫みたいな目付きにも見飽きた。……転職しようかな。


「えー本当ですか?先輩そうやってこの前も『この店の定食のクーポン券持ってる!』とか言って、いざ行ってみたらクーポン券の期限一年前に切れてたじゃないですか。しかも適用範囲一名様だし」


「……俺はお前の分まで持ってるとは一言も言ってない」


「うわ、その開き直りは僕達の仲だからこそ通じるヤツですよ?マジで知らない人にやらないでくださいね。……もうやりまくってるとは思いますけど」


「人を、子供扱いするんじゃない!俺はちょっとおっちょこちょいなだけ⭐️な、真っ当な社会人だぞ」


「……はいはい。そーですねー」


 そう言って、それでも中華料理屋に爪先を向けた俺に、板垣はしぶしぶ付いて来てくれる。健気な後輩だ。今度財布に入ってたコンビニのコーヒー引換券をやろう。……クジ当たったの、何時だったっけ?


 下らない会話を交わしながら、俺と板垣は中華料理屋の脇、青いゴミ箱とホウキが並ぶ大人二、三人が並んで歩いたらもうそれで一杯な幅の路地についた。路地の先にはT字の分かれ道が見える。方向的に駅は、左手の方だからそちらに曲がれば良い。


「スーツに何か付いたら嫌だな。お前先行って」


「んな事言われて行く訳ないでしょ。先輩が言い出しっぺなんですから、先行って下さいよ」


「まったくしょうがないヤツだなお前は」


「何で俺がそんな事言われなきゃ!?」


 とまぁ、何時ものお約束の様なおふざけを後輩とかまし、俺はズンズンとその路地へと突き進んで行く。感覚的には会社からこのルートでビル群を突っ切れば、駅まで大分ショートカットになるはずだ。


「待てよ。帰りの道で通勤が時短になるなら、出勤にも使えるんじゃないのか?この道」


「当たり前でしょ。先輩、もうどこからがうけ狙いのボケだか天然のボケだか、本当にわからないですよ」


「ボケ?俺はまだ二十九だぞ」


「天然だった!」


 何て後輩をからかって遊んでいると、分かれ道に辿り着いた。もちろんここは左に曲がる。鋭角に道が折れているからその先はまったく見る事が出来ないが、関係ない。まさか曲がり角に障害物を置くような真似を誰かがする筈も無いだろう。


 何の不安も無くスピードを緩めず勢い良くくるりと革靴を鳴らしてターン!した俺は、


「おひょっ」


 スカッと。


「は?」


 後輩の間の抜けた台詞と共に。


「ふわぁ」


 あるはずの地面が何の感触も靴裏に与えない事実を、ぶわっと沸き上がる冷や汗と共に理解したが、情けない声音を上げ、視界に迫り来る路地にポッカリと開いた円形の空洞の意味を俺は理解出来なかった。


「おっ、おちるぅーーーーーーー!!」


「せ、先輩!」


 唐突な浮遊感の後、俺を待っていたのは急速な重力の落下感だった。穴に落ちながらそこかしこを、擦り付け打ち付けながら俺は悟った。


(あ、コレ死ぬヤツだ)


 これが何らかのドッキリだとか、サプライズだとか、至極平和的な結果が待つ出来事だとは到底思えない。だって痛いのだ、速いのだ、落ちる速さがとんでもなく。


(誰だよ……一寸先は闇とか言ったヤツ……上手いじゃあねぇか)


 もう思考停止状態の俺は、日常あり得ない速度の落下体験と、次の瞬間訪れる激突の惨状やらを考える事すらストップ。心だけが穴に落ちる寸前の自分へとタイムリープしていた。


「せーーーんぱーーーーーい!!」


 聞こえた板垣の叫び声に、瞬間的に正気に戻った俺は、思い出した。


「板垣!コーヒーの引換券、ありゃやっぱ期限切れだ!」


 それが、この世界最期の俺の言葉になった。





「こ、コーヒー……?何言ってんですか先輩」


 駆け寄った板垣はワナワナと肩を震わせ、深く底の見えない穴の奥に横たわる俺の死体があるだろう方を見詰めて、呆れた様な泣き声の様な何とも言えない嗚咽混じりの台詞を吐く。


「マンホールに落ちるなんて……もう突っ込みきれないですよ、俺」


 もうボケる事の出来なかった俺は、ボタボタと落ちてくる熱い水の感触だけは、良くわかった。


 

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