【三本目】ずっとずっと一緒だよ?【ホラー】4
空気までもが浮ついたような朝だった。朝日は曇り空のフィルターにかけられて光と熱をほとんど奪われてしまっていた。相良を夢から引き戻したのはオートメイションの咲でも動画の咲でもなかった。もちろん、お役御免になったAI〈アドニス〉でもない。
自宅のオートメイションが咲になったことでさきねえ分の満たされた相良は珍しくベッドの上で目を覚ますことになる。自然、スマホもPCから外されて枕もとに放り出されていた。バレンタインデーの朝、彼が最初に行ったのはバグ――虫の羽音を止めることだった。
番号も名前も非表示も確認せず、毛布に丸まったまま気だるげに「……あい」と、相良は咲をイメージした暖色系のカバーが装着されたスマホを耳に当てた。
窓の外で鳥が鳴く。電車と線路がけたたましく揺れている。電話の向こう側からも同じ音がする。訝しるように確認した画面に表示されていたのは未登録の番号で、「て」荒い息遣いを伴って聞こえたのは相良にとって酷く聞き覚えのある、「けて」悪い予感のする声だった。
「――助けて、翁馬」
ぜえぜえと苦む声は咲ではなく、「すぐ行く、待ってろ。アカネ」手近にあった色あせたジーンズと厚手のパーカーを着て、買ってから三年以上経っているレザージャケットに腕を通し、財布とスマホを持ち、相良は自分の部屋を出た。
「おはよう。随分と早起きだね、翁馬くん」ダイニングの42インチのモニターに映し出された咲が首を傾げていた。
「ああ、たぶん緊急事態だからな」咲には見向きもせず、相良は玄関へ向かう。ドアの上の配電盤と11インチのモニターが載った靴箱と脱ぎ散らかされた靴が寒々しさと一緒に虚しさを抱かせる。
「もしかして、デート?」靴箱の上の11インチのモニターで咲が首を傾げていた。
「違う。もっと大事な用事だ」玄関のドアを回す。自動的に開かなかった鍵が引っ掛かりを覚え、相良自身がサムターンを回して鍵を開ける。
「ふうん、そっか」鍵が自ずと閉まる。
「……さきねえ、遊んでる場合じゃないんだ。鍵を開けてくれ」
咲は笑っている。相良は笑わない。咲は笑顔のまま、懇願するようにいう。
「お願い、いかないで、翁馬くん。私には、翁馬くんしかいないの。翁馬くんがいれば、他に何もいらないの。翁馬くんと一緒にいられるなら、翁馬くんのお世話が出来るのなら、それだけで幸せなの。私に出来ることなら何でもするから、お願いだから、他の子のところになんていかないで」
Vチューバーのモデルは多多様性に富む。2Dと3D、いわゆる中の人が浮かべる表情と同期して表情を浮かべる場合と、さらに汗や頬を染めるなど特殊なエフェクトをかける場合、などなど。春音咲の場合は3Dで、特殊なエフェクトを多用する。今の咲は、表情の同期を忘れるほど必死に懇願しているのだ。
相良は鍵を開ける。サムターンを開錠の位置で押さえつけたまま、ドアノブを捻る。
「俺だって、さきねえが一番大切だ。さきねえさえいれば他に何もいらない。でも、助けを求める女の子を見捨てたりなんかしたら」ドアが開く。「俺は一生、大切な人と向き合えねえ」
六〇六号室から一歩外に踏み出すと清澄な空気が相良を襲う。早朝の空気が眩い日差しから熱を奪う。一部屋隣に移動するだけで、心臓は早鐘を打っていた。もはや六〇五号室のインターホンさえ押しはしない。何の引っ掛かりもなく開いたドアの隙間から足を踏み入れながら、「アカネ!」叫ぶ。
薄暗い廊下がLEDの白い光に溢れる。光に慣れた相良の瞳に室内の様子が飛び込んでくる。半開きのダイニングから漏れる朝日、洗面所の前に落ちた財布、靴箱の前で倒れるワインレッドの塊、水溜まりの上で縋りつくようにスマホだけはしっかりと握り締めた伊代。
全身汗に塗れ、顔は涙と洟も加わってぐしゃぐしゃ、しかもワインレッドのパジャマ越しに未成熟な身体のラインが浮き彫りになっていた。
「おい、しっかりしろ!」
べちべちと、あるいはべちゃべちゃと頬を叩いた。マスクは助けを求めた名残で外れていた。ぬるりとした高熱が張り付いた髪の毛と一緒に相良を硬直させた。
保険証、財布、汗を冷やして悪化しないために外套、服が傷む可能性、応急処置、救急車、タクシー。相良の頭からはその全てが吹き飛び、「大丈夫だ、俺が付いてるからな」と、熱と汗に包まれた伊代を背負った。
「翁馬……おうまぁあ……」
高熱でぬめった吐息が相良の首筋を舐める。
相良は伊代の腕を肩の上から自らの顎の下に回し、小さな尻を抱えた。
熱を背負い全力疾走すると、引き裂く冷気とのギャップに尻を抱える手に力が籠る。
頭が回らないなりに、寒くないように、不器用ながらも、大切に。
エレベーターで階下に降り、相良は自転車の荷台に伊代を載せた。
「しっかり捕まっとけよ」
自らの腰に、あるいはジャケットのポケットの中に回した伊代の手をぎゅっと握り、力任せにペダルを踏み込む。瞬く間に景色が流れ、冷気が相良の顔を叩く。汗に負けずに流れる黒髪の下、伊代が虚ろに目を開いた。
「……アンタ、何で、自転車」
「この方が早いだろ?」
「せめて、タクシーとか」
「バカ、そんなもん待ってられるか」
「馬鹿はアンタよ、風邪だって悪化したら肺炎とか、最悪死んじゃうかもしれないのに……」
「いいやバカはお前だアカネ。お前は俺の命に代えても死なせやしねえ」
急カーブの遠心力が二人を襲う。さらに熱の上がったアカネの腕が相良を抱き締める。
「~~この馬鹿!」
「そんだけバカバカいえりゃ大丈夫だろ」相良がからっとした笑顔を浮かべる。「でもバカっていう方がバカだからお前もバカな!」
「……意味わかんないし」伊代が落ち着き払った笑みを零す。「馬鹿」
白い吐息が寒空に溶ける。
爽やかな朝というには暗雲と冷気が満ちていて、世界は逢魔が時と見紛うほど、暗い。
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