【三本目】ずっとずっと一緒だよ?【ホラー】5
天ノ川最先端医療研究センター。土屋町に存在する最も大きな医療機関である。診療室や手術室、入院患者を含めた疾病者のいる一般病棟と、渡り廊下を挟んで奥にある研究開発棟で大雑把に二分される、天ノ川マンションA棟から自転車で十分ほどの場所にある完成から三年ほどの病院の救急病棟に二人は駆け込んだ。
ちなみに、環水公園には病院の裏側に回ってさらに五分ほど自転車を漕げば行ける。救急病棟の前に乱雑に自転車を留めた相良は唇を噛み、スマホで時間を検めると静かに頷いた。
救急病棟の受付の前には疎らながらも通常窓口の営業時間外に病院を頼りに深緑のソファーに座る患者の姿が見受けられる。腰に手を当てて苦悶の表情を浮かべる壮年の男、マスクの下に咳き込む寝ぐせのマダム。そして、落ち着いた表情で全身汗まみれの黒髪ロング美少女と、彼女の体重を肩に与りながら嵐の中を突き進んできたばかりで息を整えているような青年。
暖気を孕んだ規則的な空調と看護師たちの姦しい談笑に、汗ではなく餌を寄越せと電子の小鳥が伊代の脇で控えめに鳴く。伊代が自らの脇で汗に濡れた体温計のデジタル表示を、タブレットを持った相良に突き付けた。
「八度六分……熱はいつから出てる?」
「昨日の夕方」
「ん……」
タブレットに表示されているのはカルテの一部、患者が書き込むアンケートのようなあれだ。ここで入力した内容が担当医に送信され、診察に用いられる。二人も例にもれず、しかし付き添いの相良が伊代に代わって解答欄のボックスにチェックを入れている。
一通り入力と確認を終えて送信すると、間もなく看護師がタブレットを回収しに来る。
「もう少し待っていてくださいね」
看護師のペーストしたような笑顔に相良は神妙な面持ちで「はい」と、伊代は頷いて応えた。看護師が去って訪れる静寂に耐え兼ねたように、相良が自らの首の後ろを擦る。
図らずともドスの効いた声に咲の存在を感じて、揺れている。
「……バレンタインイベントは中止だな」
伊代は相良の肩に頭を載せたまま「嫌」と、提案をきっぱりと断って除けた。
「嫌っつうか、無理だろ」
「無理なんかじゃない。こんなのよくあることだもん」
「ほぼ九度の熱出しといて何言ってんだ。流石に無理だよ」
「無理なんかじゃない。だって、まだ半日以上ある」
「いつもなら半日ありゃ治っただろうが、インフルだったらどうしようもない」
相良は笑わない。伊代は一度「んっ」とドスの効いた咳払いをして、次は「んっ」といつもよりいくらか艶めかしいアニメ声を出した。普段、ドスを効かせているような要領で、風邪っぴきの喉を調整したのだ。
春音咲のキャラクターとしてはこちらの方が合っているが、今ほどの人気は出ていなかっただろうし、ファン層も違っていただろう。可愛らしい声と裏腹に、横目に相良を見る瞳には鋭い光が宿っていた。
「声さえ出れば、どうにでもなるわ」
「伊代紅さん、3番の診察室にどうぞ」
看護師の呼び出しを受けて伊代が立ち上がる。
「あたしは諦めたりしない。配信だって恋愛だって勉強だって何だって、頑張って頑張って頑張って、その結果がこれだなんて、許せない。絶対に、無理なんかじゃない。無理なんかにしない!」
相良の肩を借りていたことも自分が春音咲である以前に伊代紅であることさえもすでに忘れているかのように、伊代は自らの不調が本当は大したことないのだとでもいわんばかりに元気よく立ち上がり、バランスを崩した。
足が縺れる。前傾姿勢を保つ間もなく、顔を打つ。
そのはずだった。
小さな手の平はリノリウムの床を掴まない。折れそうなほど細い腕は杖にならない。大きな手が華奢な肩を掴む。彼女の最も頼りにする腕が壊れかけの身体を支える。
「ったく」相良は嘆息する。「さきねえにもそういうところがあってさ。強いのに弱いっていうか、頼りになるのに癒し系っていうか、上手く言えねえけど、とにかく俺は、さきねえのそういうところが好きなんだ」もう一度待合室のソファーに座り、今度は相良が先んじて立ち上がった。脇の下から肩を貸すべく腕を回した。「今日だって、本当はすっげえ楽しみにしてる」そして、歯を見せてからっとした笑みを浮かべた。
伊代は身体を相良に預け、静かに頷いた。相良の笑みは密かに変質する。
「そういえばこの病院のエレベーター、知ってるか?」
「何が?」
「出るんだよ。誰もいないはずの屋上にエレベーターが勝手に向かうらしい」
「それって」
「昔自殺した女の子の霊が呼んでるって話だ」
伊代は何も答えない。
「これで少しは熱も下がったろ」
「あのね、肝が冷えるってむしろ身体には悪いと思うの」
相良はクツクツと笑い、伊代の肩を抱いて二人、診察室へ歩いた。
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