【二本目】憧れのあの人の正体がヤバすぎた【驚愕】4

 長くなったとは言え流石に傾き始めた日が曙色に染まる中、相良はマンションの駐輪所に突っ込んだ。というと語弊がある。天ノ川マンションA棟の脇にも申し訳程度の屋根が付いた駐輪場があり、相良はほとんどスピードを落とさずに駐輪場に侵入したのだ。

 昼間側の世界から温もりが損なわれ、居残り組のイルミネーションが煌めく夜がやってきた。引き金に似たブレーキを引き絞られて、寒空に自転車が嘶く。相良の鼻腔にもゴムの焼ける香りが昇る。彼は自らの両足が地球を踏むより先に、無駄のない動きでサイドスタンドを下ろし、無駄に流麗に自転車を留めて見せた。

 駐輪場からマンション玄関のインターホン前までも相良は全力だった。

 玄関前には、地味な色合いで身を固めた白髪交じりの初老の男が立っていた。箒をかける彼は相良に気が付くと「おや、おかえり、翁馬君」と無感情な瞳に笑みを浮かべた。相良は足を止めず、「ただいまっす」少し迷って「管理人さん」と、パスワードを入力した。

 天ノ川一哉あまのがわかずや。三年前から天ノ川マンションA棟の管理人を担っている男。

 旧世代のロボットじみた異様に胸を張らせ背を伸ばした姿勢の良い走法。一哉には目もくれず、あっという間にエレベーターに駆けこんで1~9まであるボタンの内から6を押し込んで、追ってくる子供の霊はもちろん他に誰も乗らないことを見越して閉まるボタンを連打した。

 無事にエレベーターの扉が閉まり、無理のない駆動音と重力がかかる。相良は大きく溜息を吐き、自分のスマホを確認する。十七時三六分。咲のSNSは更新されていない。急かすように見上げた階数は三階。春音咲の動画は更新されていない。階数は四階。階数表記の6が曙色より明るい色に灯ったとき、エレベーター内に異音が加わった。

 インターホンの呼び出し音? 違う。クイズ番組の正解の効果音? それも違う。例えるなら、生活音の中に混ざるバグのような、虫の羽ばたきに似た音。伊代のスマホが震えていた。

 取り出したスマホはブラックの背景が九割に残り一割は親指ほどのレッドとグリーンの円形、そして番号を含めた文字がホワイトで表示されていた。着信中。市外局番プラス七桁の番号が表示されていることから登録されている番号ではない。非表示でないことからTRGが必要になることもない。

 であれば。

 公的な連絡か番号を知る知り合いである可能性。

 あるいは、スマホを失くしたことに気付いた伊代自身が自らのスマホに電話をかけて探している可能性もある。

 相良が選んだのは電話を取ることだった。エレベーターを降り、六階に足を踏み入れた。エレベーターの駆動音が静寂に溶け込む。先に静寂を破ったのは正体不明の仮定、伊代紅だった。

「株式会社ミルキーウェイ、広報担当の冬月です。こちら、春音咲様の携帯電話で間違い無いですか?」

 相良の喉が上下する。息を詰まらせたような顔をして、呼吸が密かに荒くなる。

(昨晩、さきねえは風邪気味だった。今朝、アカネは風邪気味で昼休みには早退した。今朝、手の届かないはずだった彼女が家にいた。昨日までも、彼女は手の届く場所にいた?)


 それは間違いなく恋だった。しかし、「……いえ、これは伊代紅のスマホですけど」

「えっと、ですから」

 相良の手汗でスマホが滑る。

「伊代紅様が、春音咲様、ですよね?」


 相良が選んだのは電話を切ることだった。本来の役割を思い出した足に従うとあっという間に目的地に到着する。いつも通りの六〇六号室ではなく一歩前の六〇五号室に向き合い、呼び鈴を押し込んだ。

 静謐な空気に軽快な電子の音が浸透する。しかし、廊下の冷気に身を浸していても家主の出てくる気配はない。

 ドアノブに手をかけると、ドアは引っ掛かりを覚えることなく相良が入ることを許した。あるいは、奥から零れる音によって家主の在宅を明かした。何も言わずに靴を脱ぎ、奥に進む。理由は既にスマホを返すことから抱いたばかりの不安を払拭することに変わっていた。

 それは最近流行りのアニメソングだった。それは聞きなれた声だった。舌足らずで甲高く、鼻にかかるような甘ったるいアニメ声が、風邪っぽくドスを効かせて響いていた。相良の足が恐る恐る前に出る。

 洗面所の前を抜け、廊下を抜け、キッチンを抜け、相良は幼い頃の記憶を頼りに音を辿る。光の漏れる部屋のドアに張り付くように身体を預け、手をかけて、薄く開く。

 音が鮮明になる。

 声に曇りがなくなる。

 暗闇が裂け、正体が明らかになる。

 ワークデスクの前に立ち、整った防音設備に安心しきって高らかに歌う少女がそこにいた。人前では隠し続けたアニメ声のソプラノを惜しみなく露出させて、墨汁をぶちまけたような艶やかな黒髪を額と顔に汗で張り付けている。相良が恋い焦がれた少女の正体がそこにはあった。

 曲がアウトロダクションに至り、彼女はマウスを操作して曲を止めた。「あー、あー、んっんっ」鼻声の混じる歌声に代わり、普段通りの声調が戻る。「おはよっ。あなたに恋するバーチャルAI、春音咲です」

 異音が混ざる。相良の息が止まる。目が合う。たとえるなら、虫(バグ)の羽音に似た音。さらにいうなら、片方の羽を失った虫が必死に羽ばたいて地面を這うような音。伊代のスマホが今一度、ドアと相良に挟まれて一緒に震えていた。

「……そんなところで何してんのよ、アンタ」

 直前までのアニメ声など忘れてしまったかのように、風邪で一層ドスの効いた声だった。

 相良が恋する少女、春音咲――本名、伊代紅が涙袋の上に涙を湛えていた。

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