助手たちのレクイエム
お箸
第一話 助手たちの傷心旅行
1,探偵・新田理一の失踪(1)
『暫く帰れない。心配無用。』
乱雑な筆跡で書かれたその書き置きがダイニングのテーブルの上に残されていたのは、今から二年前の、八月二十七日のことだった。
二人で使うのにちょうど良いサイズのそのダイニングテーブルの上で、ひとひら置かれたその紙切れが厭に目立った。私はトートバッグをテーブルの端に置きながら、そういえば同居人の靴が土間に無かったことをぼんやりと思い出した。セール品の卵パックが、置いた拍子にカシャリと音を立てていた。
手に取った書き置きの片側は裁断機の介入を感じない荒々しい波状、それの反対側の隅には変にシワがついていた。どうやら手帳の切れ端らしかった。
西日が部屋中を橙に染めて、私一人の影がくろく、部屋の隅へと伸びていた。
悪い予感がしてやまなかった。
ここですこし、私の同居人の話をしよう。
彼はいわゆる『探偵』を
連絡も不精な方で、一言も無しに二日三日帰ってこないのはざら、一週間帰ってこないこともしょっちゅうあった。まだ同居し始めてすぐの頃に、はじめて、ひとつの連絡も無しに六日間行方をくらまされた時は本気で肝が冷えたし本気で頭に来たのだが、それでも彼はその時も素知らぬ顔で部屋に帰ってきて、ソファに寝っ転がっていた。
帰ってきて彼の姿を見るなり怒鳴り散らした私を一瞥した瞬間彼は意外なものを見るような顔をして、それからまた何事も無かったかのように視線を元の場所に戻した。
「ご心配をおかけして本当に申し訳ない。しかしね、僕は元よりこういう人間なんですよ、貴方もうすうす気づいていたとは思いますが。」
彼は足の指を器用に動かして左右それぞれの靴下をつまんで引っ張り脱ぎ、床に放った。それから長い足を組んで、瞼を重そうにしていた。整った彼の顔立ちが、この日はひどく腹立たしく思えた。
「心配させたのは心から申し訳なく思います。こんな僕を心配してもらえたことにも大変うれしく思います。」
気ままな猫のように、急に出ていったかと思えばふらっと何食わぬ顔で帰ってくる。部屋も汚くて、カレンダーも予定を書き込むどころかめくるのすら億劫がっていつかの年の十二月のまま。行儀も悪い。しかし妙なところで細かくて、特に紙とペンには嫌というほどこだわる男。ひとにメモを渡す際も、それ専用に持っている一筆箋を使って丁寧に書かないと気が済まない、と以前彼が言っていた。私も、彼のしたためたきれいな一筆箋を幾度か貰ったことがある。
まるで透き通るビーズに糸を通していくような、そんな言葉選びを、彼はする。ひとを想って紙を選び、言葉を綴る。その繊細さは、紙の上に文字を残すときに限って、なのだが。
「けれど、けれどね、僕がこういうだらしのない人間なのだと、貴方には友人として、助手として、どうか理解してもらいたい。僕は今更、僕という人間を変えられやしないんですから。」
そう言った時の彼の声は、どうしてか私に呆れて欲しそうな声色だった。もちろん私は充分呆れてやった。
彼は新田理一。聡明で、博識で、神経質で、不器用で、孤独で、……私の同居人であり私の友人。
そして、優れた探偵である──
閑話休題。
残されていた書き置きはひどく不自然なものだった。ちぎられたらしい紙に荒々しい筆遣い、普段なら残すはずもない一言。紙はどうやら彼が愛用しているロイヒトトゥルムの手帳のページをやぶったものらしく、優しい色の紙に規則正しい方眼が印刷されていて。そしてその方眼の上には、きたない走り書き。
彼らしくない。一言で言ってしまえばそれに尽きた。
私と彼がいくら気心の知れた、もはや礼儀もいらぬ間柄であると言っても、彼がこんな乱暴な走り書きを私に残すとは到底考えられなかった。
彼のその不自然な書置きを見た私は、正体の掴めないひどい不安に駆られていた。
得体の知れない不安に身を任せ、私はひったくるようにしてその書置きを手に取り、階下への配慮も忘れて大きな音を立てながら廊下を走った。
焦りに任せてノックもせず彼の部屋の扉を乱暴に開け、怒鳴った。
「新田!ふざけるのはやめろ!」
まるで叫ぶようにそう言った私の前にあったのは、いつものエントロピーに満ちた彼の部屋ではなく、ひどく整理整頓された、まるで別人の部屋だった。
彼の愛用のトランクが置いてあった場所に、その代わりのように彼の携帯電話と彼のお気に入りのラミーの万年筆が、そっと丁寧に並べられていた。
日々は残酷に、光のように過ぎていった。彼が不自然な失踪を遂げてからはや一ヶ月が経ち、外の世界は晩夏を越えて本格的に秋色に染まっていく中でも、私は呆然と謎の前に立ち尽くしていた。
私にはそもそも彼が自らアパートを出て行ったのか、それとも誰か他の人間からの関与があって姿を消さざるを得なかったかすら、まるっきりわからなかった。
念の為に警察にも相談したが、書置きがある以上、彼が一般家出人の枠から脱することはなく、警察による捜索は望めなかった。
彼は探偵として助手である私に何かしらのヒントを残してくれているはずだ。私はそう考えて調査に日々を消費しては、私は底なしの不安の沼に静かに足を取られていった。
新田はちゃんと無事でいるだろうか。これが杞憂であればいいのに。そう思いながらも、少しだけ嫌なことも考えてしまって、ひどく苦しかった。
もしかしたら私は助手として見限られたのかもしれない、と。
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