魔王の台頭 5

 すべてを圧壊する力が近づいてくる。

 それでもルジンは、どこか他人事のようにそれを見ていた。

 現実感がまるでなかった。


(やっぱりこいつの《祝福》は、俺たちが思っていたようなものじゃない)

 床を亀裂が走り、近づいてくる――というのは、クリシュナの《祝福》が瞬間的に、すべての空間において作用するわけではないということだ。

 迫る亀裂を見てそう思う。


(だが、手下の《転生者》を巻き込みかねない力ではある)

 ソードマンたちを先行させてこないのは、そういうことだ。

(そして光と同じ速度の、ゴルゴーンの一撃を防いだ。見てから《祝福》を起動させるような力の使い方じゃ間に合わない)


 こうした事実と、二度の遭遇戦から、ルジンはいくつかの推測を立てていた。

 このまま死ぬにしても、それを確かめておきたい。


「ゴルゴーン! 外すなよ」

 ルジンは彼女の名を呼び、自分は剣帯のクグリ鉈を引き抜く。

 これが彼女へのもう一つの指示の合図だった。


「はい、陛下」

 ゴルゴーンは再び右腕を突き出す。そして大きく振るった。

「決して外しません」

 光が放たれ、鋭利な刃となって一閃する。それは確実にクリシュナを薙ぎ払う軌道だったが、今度もそれは届かない。

 見えない壁に阻まれたように曲がる。


 結果として、ゴルゴーンの放つ光は生き物のように荒れ狂った。

 壁を砕き、天井を穿ち、床を抉った。

 落ちてくる瓦礫をクリシュナは防ごうとして、そして一歩だけ後ずさりをした。


 それは初めてこの《転生者》が見せる、動揺にも似た仕草だった。

 なぜなら、砕かれた天井、壁、床から、赤黒い水が噴出してきたからだ――『禍水ヴォジャ』だった。


 浄水施設――それがあるから、ルジンはこの場所を戦いの場所に選んだ。

 サヴラール市は地下にあるというその都市構造上、浄水施設も第六層より上に存在している。雨水や河川の水を引き込み、市民に利用可能な形に濾過・分配する必要がある。

 ルジンはそれを使うことにした。


 大型の貯水槽は複数存在するが、そのうちの一つを「汚染」した。

 市民の生活用水を考えればそれが限界だった。

 アングルボダに率いられた森の民が、戦の準備として従事していた作業がこれだった。

 必然的に、彼らとサヴラール市の兵士たちの間の連携は望めず、互いに独立した行動を強いることにはなった。


 だが、その目的は達成されていた。

 ゴルゴーンの光は四方に張り巡らされた配管を破壊し、汚染された禍水ヴォジャを噴出させた。

 そしてルジンが予想した以上の成果をもたらしてもいた。


 噴出した赤黒い禍水ヴォジャは、クリシュナの全身を濡らしている。

 クリシュナが、よろめき、膝をつくのがわかった。

 これは予測できていたことだ――クリシュナには、自分へ向かってくるあらゆる物体に《祝福》を作用させることはできない。


 第二防衛線で瓦礫を降り注がせたとき、大きな岩塊は止めたが、いくらかの砂と小石が落下するのを見た。

 だから禍水ヴォジャによる攻撃も、ほぼ確実に決まるとは思った。

(ただ、その理由がわからなかった)


 いまはわかる。

 クリシュナの《祝福》が本当はなんなのか――四方から噴出される禍水ヴォジャが、それをあらわにしている。


(でかい車輪だな)

 あるいは、歯車か。

 とにかくそうした部品に似ている。

 本来ならば決して見えないであろうその輪郭が、クリシュナの周囲をとりまいているのが見える。七つ、八つ――不可視の巨大な車輪が、回転しながら宙に浮いている。


(盾にも使える。これで攻撃を防いでいたのか)

 ゴルゴーンの光に対しても、見てから《祝福》を起動させるより安全だ。常に前方で回転させておけばいい。

 矢を防ぐときは、見えない力が作用して落下したように見える。

 人間を押しつぶすように、轢き殺すこともできる。


(重さでも力の操作でもなく、クリシュナの《祝福》の本質は回転に近い)

 ルジンはそう思った。

 思いながら、すでに動き出している。


「ルベラ!」

 と叫んで、傍らのコボルトとともに跳ぶ。

 クリシュナの《祝福》が目視可能になっている。背後に控えていたソードマンたちも禍水ヴォジャをまともに浴びてのたうちまわっている。


 それでも、クリシュナは立ち上がり、戦おうとした。

 左手の剣を伸ばすと、宙に浮かぶ透明な車輪の数が増えた。しかも膨張して、一回り大きくなる。


「諦めないとは」

 ルジンは呟き、強引に笑った。そうでなければ、足が前に出ない。万が一、さらに奥の手があれば――という恐怖は消えない。

「なかなかやるな、ブレイヴ。だが――」


 ルジンは片手でクリシュナを指差す。

 応答は迅速だった。

「はい、陛下」

 背後から、ゴルゴーンの声。光の槍が、細く鋭く伸びた。

 不可視の車輪をかいくぐる軌道で――見えてさえいれば、ゴルゴーンにはそれができた。


「決して外しません」

 と言った、彼女の言葉は嘘ではなかった。

 クリシュナの左腕を、剣ごと吹き飛ばしたことでそれは証明された。浮いていた車輪が唐突に消え、クリシュナは全身を禍水ヴォジャによって汚染される。


 禍水ヴォジャは《転生者》以外にとってはさほど強烈な毒性はない。特に《魔獣化》歩兵と魔獣ならば、常人の数倍は耐えられる。

 ルジンとルベラは先を争うように、クリシュナの下へ到達した。

 交互に一撃。

 クグリ鉈はクリシュナの右腕の付け根を、ルベラの牙はその首を半ばから破砕する。


「悪いな」

 ルジンは、その場に膝をついたままのクリシュナに声をかけた。

「これで終わりだ」

 なんとなく、そういう気分になっただけだ。答えが返ってくるとは思っていなかった――だから余計に驚いた。


「――ォ」

 一瞬、風の音かと思った。

 だが、この場所に風など起きるはずがない。クリシュナの声だ。その《転生者》ははっきりと、唸るように、空気を震わせて声を発した。


「……ゴ、ル、ゴォ――ン」

「なに?」

 ルジンが聞き返したとき、クリシュナは完全に崩れ落ちた。

 倒れ込み、禍水ヴォジャの中に水没する。


(わかった――あのとき、こいつが見ていたのは)

 ルジンはクリシュナによって、自分が睨みつけられていると思った。

 どうやら違う。


(見ていたのは、ゴルゴーンか。ますます謎が増えたな)

 振り返る。

 ゴルゴーンと目が合った。彼女は右腕に無数の『瞳』を浮かび上がらせ、荒い呼吸を繰り返していた。


「陛下」

 彼女は呼吸の合間に呟く。鬼のような形相だ、とルジンは思った。

「どうかご命令を。まだ動いている《転生者》がいます」


(そうか。こいつは、俺の指示を忠実に守ろうとしているってわけだな。命令されるまで、決して撃たない)

 動いている《転生者》。クリシュナに続いてやってきて、いま禍水ヴォジャの中でのたうち回っているソードマンたちのことだろう。


(忠実に指示を守る気なら、もっとはやくそうしてくれよ)

 なぜか、どうしようもなく滑稽な気分だった。

(なあ?)

 ルジンは笑って、傍らのルベラを見た。

 流れ込む禍水ヴォジャによって毛並みが濡れている――彼女はそれを嫌って、大きく身震いした。


「ゴルゴーン」

 ルジンは歩き出し、ざぶざぶと禍水ヴォジャの水流をかき分けて、彼女の傍らをすりぬけた。

「残りは片づけておけ」

「はい」


 この部屋が水没する前に、排水設備を動かして脱出しなければ。

 だが、その前に――

「疲れた」

 ルジンはゴルゴーンの用意した、玉座のような椅子に腰かけた。


 実際は、倒れ込んだという方が近い。

 膝が笑って立っていられなかった。いまさらのように、麻痺させていた恐怖が湧いてくる。指先が震えている。

 その指先を、ルベラが一度だけ舐めた。

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