圧壊するクリシュナ 8

 部隊の被害は、甚大なものだった。

 下降しながら後退する部隊は脆く、後衛戦闘にあたった部隊はクリシュナの《祝福》によって隊列を崩され、《転生者》たちの突撃によって壊滅した。

 ロースタルたち本隊が無事だったのは、何段にも後衛部隊を配置していたからだ。


(それでも、致命的とまでは言えない)

 ロースタルは残った戦力を見回しながら、そう思った。

(まだやれる)

 そのはずだ。五千の兵力が、三千ほどに減った。それだけだ。まだ戦える。


 撤退の判断も誤ってはいなかった。

《水晶》の周囲に布陣した《転生者》を撃破するのは困難だ。特に、ブレイヴ個体がいる場合には。

 不可能といってもいいだろう。


(とはいえ、問題点は明らかにしなければ)

 クリシュナと呼称されるブレイヴ個体を前に、第三層を放棄するどころか、第四層の最奥まで退くことになった。

 その失策自体は受け止めるべきだ。

 ロースタルは敗北の理由を考える。撤退を完了して態勢を整え、兵には仮眠をとるように言ったが、彼自身はろくに眠れなかった。


 サヴラール第四層は、複雑な迷宮であった第三層と違い、とても単純なつくりだ。

 中央に広大な広間があり、ちょうど演劇の舞台のように段差がそれを取り巻いている。

 これは、侵入してきた相手に包囲攻撃を行うためだ。第三層で兵力を絞り、ここで迎え撃つ――そういう仕組みだった。

 トラップも、いかにしてこの広間に火力を集中させるかということに焦点を置いている。


(ここで止めなければ)

 ロースタルの意識は、何度考えてもそこに着地する。

 単に戦術的な意味だけではない。

(第五層まで侵入を許せば、バイザック総隊長からどんな処罰を受けるかわからない)


 ロースタルはバイザック・ルンビークという男のことを、決して好きではなかった。

 共通するのは《魔獣化》兵士や戦闘生物といった技術に関する嫌悪感くらいのもので、むしろ軽蔑すらしていた面がある。


(バイザック・ルンビークが総隊長に上り詰めたのは、軍事的才能よりも、政治力に長けていたからだ)

 なぜなら、バイザックはついに数日前、評議会に議席を獲得していた。そのことが苦々しく思えてならない。


 ロースタルにとって戦場とは、政治の一要素であってはならないものだ。

 彼の感覚では、軍事とはむしろ芸術に似ている。

 戦場に政治を持ち出すバイザックは、ロースタルにとって迷惑な存在でしかなかった。だが、彼の指揮官としての地位を保証するのもまた、バイザック以外の何物でもない。

 そのこともよくわかっているから、余計に歯がゆい。


「ロースタル様。お休みのところ申し訳ございません」

 明け方頃に、ブライセルが声をかけてきた。

「第一層と第二層の被害状況が明らかになりました。封鎖部隊は数名を残して全滅です。《水晶》によって回復した《転生者》たちの攻撃を背後から受けたようです」


「そうか」

 ロースタルは短く答えた。

 その程度のことは言われなくても予測している――苛立ちを感じる。


「ここで迎え撃ちますか、ロースタル様。バイザック様に救援要請は――」

「必要ない」

 伝えれば、救援は来るかもしれない。だが、それはバイザックからの何らかの処罰が前提となるだろう。

(まだ、負けていない)

 そうである以上、無様な救援など出す意味がない。ここでクリシュナを撃滅すれば、何の問題もなくなる。


「バイザック総隊長には、ここへクリシュナを誘引していると伝えろ」

「しかし、損害は大きく――」

「残存している兵力はまだ十分にある。包囲からの波状攻撃だ。クリシュナが《祝福》を振るえる限界までぶつける。移動できるトラップはすべてここに集約しろ」

「それでも、バイザック様には何らかの報告はしなければなりません」


 ブライセルの立場では、なるほどそうだろう。

 ロースタルは束の間目を閉じ、考える。

(兵力を失い、撤退した原因が必要だ――となれば)


「セイレーン兵だ」

 バイザックが受け入れやすい要因を、ロースタルはすぐに思い当たった。

「あの兵の怠慢――いや。違うな。バイザック総隊長への明白な反逆の意図で、重要な連絡をあえて怠った」

 この形が、バイザックのような男にはもっとも理解しやすいだろう。不満の矛先を逸らすことにもなる。

「地上のクレリックどもの動きを詳細に伝えていれば、ここまでの損害を受けずに誘引できたはずだ。そう伝えろ」


「……わかりました」

 ブライセルはうなずいたが、その石のような瞳にわずかに反抗的な気配滲ませた。それがわかった。

「勝つためだ、ブライセル」

 ほとんど反射的に、ロースタルはそう口にしていた。

 言い訳のように聞こえる、と思った――思いながら、言葉を続けることでその感覚を振り払う。


「ここでブレイヴ個体を仕留めなければ、サヴラール市の民はどうなる。犠牲となる兵には残念だが、ここは誰かがやるしかない」

 そして、それができるのは自分しかいない。

 ロースタルはそれを確信することにした。少なくとも、ロースタルは自分の軍事的な能力を強く信じている。


「勝つためだ」

 ロースタルは繰り返したが、ブライセルは答えずにその場を去った。

(……勝てば、すべてが取り返せる)

 顔をあげる。兵たちがあちこちで眠っている、巨大な広間を見る。

 ここに誘いこんでから、波状攻撃をかける。

 自分は考えられる限りの最善を尽くしている、と思う。


(クリシュナの限界は見えている。押しきれない相手ではない)

 それで自分は堂々と凱旋ができる。

 まさしく魔王のように、威風をまとい――バイザックが霞むほどの栄光を、手にすることができるだろう。



――――



「もうすぐだね」

 と、パーシィは言った。

 第五層、その最奥までの道にすでに障害はない。


 遭遇する巡回の兵は、速やかに無力化できた――殺すしかなかった相手もいる。

 特に、コボルト部隊は劇的な効果を発揮した。サヴラールに残していた、二十ほどのコボルトを補充し、その殺傷力をほぼ完全に取り戻している。


 暗闇の中、彼らは血に飢えたように走り、ルベラは時折ルジンを促すように振り返った。

 あるいは元気づけようとしていたのかもしれない。


「この先、三千くらいかな。都市警が駐屯してるよ。といっても――」

「そのうち一千くらいは、こっちの同調勢力か」

 だからこそ、先に相手の位置を掴めている。その数も布陣もわかる。

 どのくらい当てになるかはわからない。が、ホルスカーには確信があるようだった。


(その中に、バイザックもいる)

 総指揮官として、当然のように駐屯している。その情報さえ入ってきていた。

 バイザックにどれほど戦の指揮ができるかはわからないが、抵抗されたら面倒なことになる――その意志を挫ければ、お互いに被害は減らせる。

 すなわち、速攻による痛烈な最初の一撃が肝心だ。

 となれば、用いるべき手段は――


「陛下。どうか、先駆けは私にお任せを」

 ゴルゴーンは低い声で言った。

 ルジンが見るに、どうも彼女はいささか気負っているような気がする。

「メリュジーヌやアングルボダだけに武功を立てさせていては、ルジン陛下の……妻……いえ、第一の臣下として、面目が」


「お前は今回、絶対にあれを撃つなよ」

 その点、ルジンは釘を刺さなくてはならなかった。

「壊されちゃ困るものがある」

 ルジンは、第五層の設備の地図を思い浮かべる。

 クリシュナたちと戦う上で、必ず必要なものだ。サヴラール市の構造上、それは第五層に配置せざるを得ない。

 ゆえに、その最奥――「生活設備管理諸般施設格納区画」という非常に長い名前のついた一角にそれがある。


「俺が許可するまで、お前は前に出るな。近くにいろ」

「陛下の……お傍に……!」

 ゴルゴーンはその言葉に、何らかの感銘を受けたようだった。

 彼女は拳が白くなるほど握りしめてみせた。

「必ずや、このゴルゴーン。期待に応えて御覧に入れます。病める時も健やかなるときも、命に代えても、陛下のお傍を離れません!」


 言っていることが微妙に矛盾しているような気がしたが、ルジンは頭からその不毛な思念を追い出した。

 いまから、やるべきことがある。

 とても気が進まない――戦の指揮など、自分の仕事ではない。ルジンは心からそう思う。


(誰か代わってくれ。俺はどうせ失敗ばかりするんだから)

 ここまで、何もかも読み通りにいったことなど一つもない。

 間違えて、兵を殺してばかりだ。いまさらながら、コボルト部隊にいた一人の背の高い兵士――ダオの顔が脳裏に浮かぶ。

(あいつはまさに、戦いの中で成長していた。いまごろ、俺の代わりになってくれたかもな)

 だが、死んだ。

 余計な戦いに付き合わせることになった。そんな感覚がつきまとっている。彼だけではなく、森の民も、コボルトたちもだ。


「……始めるか」

 それでもルジンは、どうにか声を絞り出す。

「メリュジーヌ、グリフォンたちと初手を任せた。アングルボダ隊は前進。驚かせて降伏勧告したら、その後は」

 ずいぶん偉そうなことを言っている。ルジンは自嘲気味に笑った。

 そうしなければ逃げ出したくなる。

「抵抗するなら将校を狙え。ラベルト、ハド、頼む」

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