圧壊するクリシュナ 6
ロースタル・リュノルは、その崩壊の音を第三層で聞いた。
すでに防衛部隊は四層への下降地点まで引き下げられ、押し寄せる《転生者》を相手に守りを固めている状態だった。
ゴルゴーンが姿を消し、第二層の防御力は激減していた――大きく防衛ラインを下げるしかなかった。
傭兵たちがどこかへ逃げたことも痛手だった。
通信を一手に握るセイレーンの男と、ワイバーン兵たち、それから一部の呪術師。
これらの消失によりトラップの保守整備能力が著しく低下し、索敵能力にも甚大な影響があった。
とはいえ、ロースタルにはさほどの不安も、不満もない。
ゴルゴーンがいなくなったことで、彼女の率いていた防衛部隊の指揮権がすべてロースタルに与えられたからだ。
事実上、サヴラール市の実働部隊をほぼ完全に掌握している状態である。
これはロースタルにとって、望んでいた状況そのものだった。
(一軍を直に率いて、《転生者》どもと対峙する)
それは心が沸き立つような感覚でもある。
いまは五千に近い兵士が、直接的――あるいは間接的にロースタルの指揮下にあった。
こうした戦いを、ロースタルはかねてより望んでいた。そのために家族を捨て、ルンビーク家についたのだ。
そのことに、我ながら驚くほど未練はない。
むしろ解き放たれたような思いがある。軍での昇進を阻んでいたのは、ほかならぬ自分の家族であったとロースタルは考えている。
(いくつもの作戦を成功させたにも関わらず、コボルトどもを指揮するような小部隊に左遷された)
ロースタルにとって、それはあまりにも露骨な人事だった。
同期を飛び越え、参謀として参加した最初の戦線は、いずれも防衛戦だった。そこでは遊撃作戦を提案し、鮮やかに《転生者》を退けた。
多少の犠牲はあり、下級将校からは激しく抗議されたようだが、文句のつけようのない勝利だったはずだ。
そもそも、犠牲を恐れて戦ができるものか。
《転生者》を相手にする以上、人類のすべてが総力をつぎ込むべきである。
(結局あれは、父か叔父が手を回したということなのだろう。私に軍での地位を追い越されるとでも思ったのか、それとも軍に深入りしすぎることを危惧したか)
いずれにせよ恨む気持ちはない。
ただ、意志を強めただけだ。向こうがそのつもりなら、こちらも手段は選ばず、切り捨てるべきときに切り捨てようと思った。
唯一の不満があるとすれば、ゴルゴーンのことだ。
(あの女、本当に消えるとはな)
旧王家の直系の末裔である女。
その真偽のほどは定かではないが、旧王家の聖印を持っていたのは確かであるし、特異な力も有していた。
それに、容貌も優れていた。傍らにいるだけで人目を引くに足る。
だから彼女の肩書が本当かどうかなど、実はどうでもいいことだった。
(ルジン・カーゼムを脱獄させたというのは、信じがたいが。『陛下』というのは、本気でそう思っていたのか)
考えれば考えるほど、彼女とルジンという魔獣の関係がよくわからなくなってくる。
だが、いまは忘れることだ。
もはや利用する価値もなければその必要もない。望んでいたものはすべて、いまやロースタルの手中にある。
つまり、軍だ。
「ブライセル!」
ロースタルは大声をあげて、彼の部下を呼んだ。
ガーゴイル、という種類の《魔獣化》歩兵である。ロースタル自身、あまり《魔獣化》歩兵のことは好きになれないが、能力はある。
それにルンビーク家の家臣でもあり、粗雑には扱えない。
「正面に敵を引き付け、両側面から攻撃を仕掛ける」
駆け寄ってきたブライセルに、ロースタルは馬上から指示を伝えた。
第三層の地形を利用する。
それがロースタルの考えた戦術だった。第三層は複雑に入り組み、立体交差した迷路になっており、地形を頭に入れておけば自在に敵を奇襲できる。
ただ守るだけではなく、ここは攻めて鮮やかな勝利を収めておきたい。
そうでなければ自分の戦ではない。
勝利を体験させることで、兵の士気もあがるだろう。
「私は右翼を率いる。ブライセル、お前は左翼を率いろ。西の甲十七番通路を使え」
それで、挟撃が成功するはずだ。
この点、ロースタルは異様なほど精度の高い移動時間を計り、その経路を頭に描くことができる男だった。緻密な計算が脳内にある。
「承知しました」
ブライセルは敬礼をする。
「正面部隊は、誰が指揮を?」
「レメウス・テルニッツに率いらせる。数は三百」
「それは――」
ブライセルは一瞬、言葉を選んだようだった。
「いささか、少なすぎるのでは? 両側面からの攻撃が成功したとしても、持ちこたえることが」
「持ちこたえる必要はない」
ロースタルは断言した。そうするべきだと思った。峻厳であることは、指揮官に必要な資質のはずだ。
「テルニッツ家は急進派の評議会と癒着しすぎていた。ここでその長男には死んでもらいたい」
ただし、家族は残してやる。彼には妹と二人の弟がいる――彼らの無事は保証している。これで命令に従うだろう。
少なくとも、いまのところは。
「そちらの、ルンビーク家にとっても必要なことだろう」
「……バイザック閣下にはその必要があるとしても、兵は……」
ブライセルは目を伏せた。
陰鬱な顔をする男だと、ロースタルは思った。気が滅入りそうになる。
「兵か。三百の犠牲で、大きく《転生者》の勢いを削ぐことができる。なにより、勝てるのだ。士気の維持にはそれが必要だろう」
「僭越ながら、ロースタル様」
ブライセルは呻くように言った。
「三百の兵は、死兵であると誰にでもわかります。それは勝利よりも士気に与える負の影響が大きいものです。ここはどうか」
「決めたことだ」
結局のところ、と、ロースタルは思う。
消極的な意見が支配的な、この人類の戦いに誰かが風穴を穿つ必要がある。
(このブライセルもそうだ。サヴラールの軍は、戦術が硬直している)
より積極的で革新的な戦術をもたらす。
それができるのは、もしかしたら自分ではあるまいか。犠牲を恐れぬ果敢な戦は、古い伝承にある「魔王」と呼ぶにふさわしい存在になり得るかもしれない。
「ここは少々の犠牲を出しながらも、勝つ」
ロースタルはそれ以上の意見を必要としなかった。
「いけ、ブライセル。遅れたら厳罰を覚悟せよ」
いまは犠牲をいとわず、《転生者》に痛撃を与えるべきだった。
ブレイヴ個体が出てくる前に、少しでも多く戦力を削る。そして――
(ブレイヴ『クリシュナ』との対峙。これは血が沸くな)
――果たして、その攻撃はロースタルの思い描いた形で成功した。
三百の兵は指揮官ともども、ほとんどが死亡した――が、引き付けた《転生者》の群れも壊滅的な打撃を与えた。
そのままいけば、第三層の《転生者》を一掃することすらできたかもしれない。
だがその前に、上層から響く轟音を聞いた。
「ロースタル様!」
返り血を浴びながら、ブライセルは叫んでいた。
「この音は異常です。もしや、『クリシュナ』では」
「そうか」
ロースタルは笑みを浮かべる自分に気づいた。
「相手にとって不足はないな」
強敵を前に、笑いを抑えきれない指揮官。英雄のような姿に見えているかもしれない、とロースタルは思った。
「ここで迎え撃つ! 恐れるな!」
ロースタルが怒鳴ると、ブライセルは顔を青ざめさせた。
戦いのために兵力が減り、疲労もある。そのことはわかっている――だが、ここで勝てばすべてが変わる。
(本当に魔王と呼ばれる将軍になるかもしれない)
ロースタルにはそのための勝算があった。
(死兵を使う。やつの《祝福》を消耗させ、討ち取る)
その可能性は十分にあるはずだ。
ロースタルが目をつけていたのは、《転生者》は短期決戦を好むということだ。持久戦に及べば、《祝福》の維持にも限界がある。
それは確実なことだ。
(勝てる)
と、ロースタルは確信に近い思いを抱く。
(この場、この時、私にこれだけの兵の指揮権があったことがまさに幸運だ)
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