圧壊するクリシュナ 4

 パーシィの指示した経路は、悔しいがこれ以上ないほど適切だった。

 ほとんどの罠を回避し、あるいは無力化して、第五層を進むことができた。

 問題になったのはただ一点。


「脱獄だ!」

 と、誰かが怒鳴っていた。

 行く先の通路を駆ける足音。ルジンはその数を聞き分ける。まずは八人ほどか。意外に少ない。


「ついに巡回の兵士……見つかりましたね。さて、どうしましょうか」

 ホルスカーは首をひねった。

 顔色は悪く、ふらついている。あまり速度を出して走っていないはずだが、彼はもう息を切らせていた。


「当初の計画では、彼らもきっちり買収するか、家族を人質にとって脅しておくつもりでしたが……貴重な人的資源なので勿体ない……いや」

 束の間、悩むような素振りを見せたあと、快活に笑ってうなずく。

「この状況であまり考えるのも時間の無駄ですね。仕方ない、殺しましょうか」


 ルジンは呆れた。

(こいつ、妖怪みたいなやつだな)

 ともあれ、なんとかしなければならない。ルジンは反射的に腰のあたりを探ったが、その無意味さに気づく。

 当然のように、武器の類は奪われている。いつもの鉈もなければ、細引きもなかった。

 人間が相手ならば、素手でもワーウルフは十分な戦闘力を持っているが、それは全力でやった場合の話だ。手加減は難しくなる。


(荒事に関しては、パーシィはさっぱりだしな)

 ルジンは一応パーシィを見たが、彼は当然のように肩をすくめて後ろに下がった。

「いつものように、よろしく」

 彼はセイレーンと呼ばれる《魔獣化》歩兵だ。

 通常の人間よりも多少は持久力が高く、また負傷にも強いが、運動力は人類種の域を出ない。


「陛下。私にお任せを」

 ただ一人、ゴルゴーンが前に出た。

「このゴルゴーンが、やつらを残らず撃滅してご覧に入れます」

「そうじゃなくて、できるだけ殺さない方がいい」


 ルジンは広い通路の先を見る。

 交差する十字路で、待ち構えているようだ。

 重装甲の騎兵が二騎。歩兵が六人で、そのうち弓を持っているのが二人。


「殺しをやると、心情的にもな――いや、向こう側の。何が何でも俺たちを殺す方に傾く。それは避けたい。《転生者》も人間も相手にするのは無理だ」

「さすが陛下。慧眼です」

 ゴルゴーンは嬉しそうにうなずいた。

「では、可能な限り殺さずに一掃します」

「できるのか?」


「……苦手な分野ではありますが、陛下のご命令とあらば!」

 ゴルゴーンは一秒ほどの沈黙の後、大きくうなずいた。

 無理そうな気がする、とルジンは思った。

 思っている間にも距離は詰まる。待ち構える相手の顔が見えるほどの距離になる。


「馬鹿な!」

 重装甲の騎兵が声を上げた。

「ゴルゴーン様が、なぜここに? 脱獄者を手引きしたのか? まさか!」

「いや、構うな」

 もう一人の騎兵が、上ずった声で言う。その声に恐怖が滲んでいるのを、ルジンは感じた。ゴルゴーンの力を知っているのなら、そうなるだろう。

 恐ろしいのだ。だから、攻撃的な行動に走る。

「弓兵! 総隊長の許可は出ている。光の鞭を撃たれる前に、射かけろ!」


(仕方ない)

 ルジンは跳躍のため、体を沈めた。

 説得は通用しそうにない。何人か、無力化してからでなければ。無力化というのは殺すことも含まれる――いまはやるしかない。


「陛下に弓を引くなど」

 ゴルゴーンも低く唸った。

「その不遜、身をもって償わせてやろう!」

 彼女はルジンよりも俊敏に跳躍し、一瞬で弓兵に肉薄する。

 その腕が喉元へ迫る――絶息させるつもりか。やはり手加減は苦手というか、急所を狙う癖がついているのか――


(無理そうだな。ゴルゴーン――おそらく、能力の分類的には砲兵。こういう戦いはそもそも苦手なんだ)

 ルジンが顔をしかめた瞬間、ゴルゴーンの手が届く前に、その弓兵が崩れ落ちた。

 その隣の弓兵もほぼ同時に。

 何が起きたのかは、すぐにわかった。ルジンの眼には、かすむような速度で動いた影が見えていたからだ。


「――ええ。まったくそうね」

 メリュジーヌが、弓兵の腕をへし折り、その場に叩きつけている。もう一人は肩を外されたようだ。

 何をどうやったのかはルジンにも見えなかった。

「ゴルゴーンの言うことにしては、珍しく賛成できるわ。陛下に弓を引くだなんて、万死に値する」


「おおおおっ」

 もう一人、兵士たちの背後で大声をあげた者がいる。

 アングルボダが、その巨体に見合わない俊敏さで突っ込んできていた。

「どけ!」

 短く単純な命令。その巨大な腕が重装騎兵を掴み上げ、引きずり降ろしながら投げ飛ばす。


「ルジン王の邪魔、するな」

 そこからは、一方的な戦いだった。

 一瞬にして三人の戦力を失った兵士たちは、ゴルゴーンとルジンの攻撃を耐えきれない。武器を奪い、せいぜい骨を折るだけで戦いは終わった。


「なるほど……」

 歩兵を一人、絞め落としたゴルゴーンは複雑な顔でうなずいた。

「アングルボダ。貴君も無事に合流していたのか」

「そうだ。ゴルゴーン、お前、残念そうだな。悔しいんだろう」

「ああ、そうだ。いま、私こそが陛下をお守りする場面だったのだが……!」


 ゴルゴーンは本当に悔しそうに拳を固めていた。

(いまさらだけど、やっぱりこいつらは仲間なんだ。ベクトのやつが計画した、何かの一員……《転生者》か)

 ルジンが二人を眺めていると、メリュジーヌが傍らに近づいてくる。


「陛下。お待たせして申し訳ございません。お助けに参上するのが遅れました」

「ああ……そっちも、どこかに閉じ込められてたんじゃなかったのか?」

「ええ。ですが、やつらはアングルボダの本当の腕力を見誤っていました」

 メリュジーヌは微笑んだ。

「彼女の取り柄は、ゴルゴーン以上の野蛮な腕力です」


「メリュジーヌ、お前、偉そうだぞ! アングルボダが助けてやったのに! ほかのみんなを助けたのもアングルボダだ!」

 ほかのみんな、と、アングルボダが言ったことに、ルジンは妙に引っかかった。

「待て。ほかのみんなって?」

「うん。もう、すぐそこにいるぞ!」


 アングルボダは通路の一つを振り返り、両手を広げた。

 ちょうど右手側に折れる通路だった――ルジンはそちらを覗き込み、絶句した。

 森の戦士たちと、グリフォン。そしてコボルト部隊もそろっていた。二百ほどの戦力が、通路に並んでいる。


「ルジン陛下の軍勢を救助し、招集しておきました。アングルボダだけでは、こういうことは思いつきません。私が助言いたしました」

 メリュジーヌが囁いた。

 褒められるのを待つ子供のように、どこか声が弾んでいた。

「いまはまだこの通りの小勢ですが、これこそが陛下の軍です。いかがですか? このメリュジーヌ、誰よりも陛下のお役に立つでしょう」


 ますます妙なことになってきた、とルジンは思う。

 これでは、反乱の軍以外の何物でもない。


「さすがルジンさん。あなたに目をつけた甲斐がありました」

 ホルスカーが笑って拍手をしていた。ルジンは彼を睨むことしかできない。

「……待てよ。こんな人数が隠れる場所、あるのか?」

「ええ。もちろん!」

 ホルスカーは当然のように肯定した。

「我々、反乱軍の拠点です。ご用意しておりますよ」


 やはり、反乱か――ルジンは憂鬱に思った。

 選択肢がなかったとはいえ、この男は、最初からそのつもりでルジンに声をかけることにしたのだろう。



――――――――




 そのとき、ジェフティ・ミドルテアは違和感に気づいた。

 サヴラール市の西、《転生者》の群れが、蠢いている。

 サヴラール西部、いまは「炭の丘」と呼ばれる小高い丘から眺めていて、それがわかった。


(なんだろう)

 ジェフティは目を凝らす。

 いつものダンジョン攻略にかかるときの動きとは違う。

《水晶》のある位置――すなわちブレイヴ個体『クリシュナ』のいる地点を中心として、ざわめいている。


「もしかして」

 ジェフティは小さな声でつぶやく。

「『クリシュナ』が動き始めた?」


「『クリシュナ』様ですよ、ジェフティ・ミドルテア」

 咎める声が聞こえた――背後から。

 ジェフティは慌てて振り返る。不敬な発言だった。聞かれていたのなら、何らかの処罰を受けてもおかしくない。


「申し訳ありません、エーフィ導師」

 直立して謝罪する。


 ジェフティの後ろに立っていたのは、白い装束を身にまとった女だった。エーフィという。両目に黒い包帯を巻いている――ジェフティは彼女が盲目なのだと聞いていた。

 だが、ジェフティは彼女が視力で不自由しているところを見たことがない。

 とあるブレイヴ個体の《祝福》によるものだという噂もある。

 それ以来、彼女は《転生者》たちの忠実なしもべにして、人類を導く「導師」となったのだと。


「『クリシュナ』様が兵を動かしています」

 エーフィはどこか眠たげに聞こえるような声で言う。

「サヴラール市に、速やかな《祝福》を賜るおつもりでしょう。戦いに向かう闘志を感じます」


「『クリシュナ』様が……こんなに早く?」

 そのことは、ジェフティにとっても驚きだった。

「何があったのですか? あの敵によって《水晶》を汚染され、しばらくは体力の回復に専念されるはずでは?」


「『クリシュナ』様の御心は、我々ごときに読めるものではありませんよ」

 エーフィの物言いは穏やかだが、内容は厳しい。ジェフティの不信心を見抜いているように聞こえる。


「では、なぜ? 万全な状態ではないはずなのに――」

「ブレイヴの御方が持つ《祝福》は、一つだけとは限りません」

 エーフィには、ざわめく《転生者》たちの動きが何を意味するのかわかっているのかもしれない。


「『クリシュナ』様には、万物がひれ伏す『圧壊』の《祝福》に加え、戦いに関する奇跡的な『直感』をお持ちです。時として未来予知のようにも等しい『直感』を」

「と、いうと……何かを洞察されたのでしょうか?」

「おそらくは」

 エーフィはその場で祈るようにひざまずいた。


「『クリシュナ』様は何かに気づかれたのかもしれません。たとえ無理を押してでも、速やかに裁きを下さねばならない何かが、あの不浄なる都市に存在する――あるいは動き始めたということが」

「何か、というのは?」

「わかりません。我々にできることは、偉大なるブレイヴの力に祈りを捧げることだけです。……離れていた方がいいでしょう、転移門を開きます」


(速やかに裁きを下さねばならない、『何か』――)

 ジェフティは沈黙し、地面に指を這わせるエーフィを見ながら思う。

(そんなものがあるのか? ブレイヴ個体にとって、脅威となり得るような何かが。もしもそんなものがいるとしたら)


 ジェフティは自分が悲観的な性格だと知っている。

 それでも、考えざるを得ない。

(いますぐ目の前に現れてほしいよ。たとえどんな怪物や悪魔だとしても――このままじゃ、世界は地獄だ)

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