圧壊するクリシュナ 2
目覚めたら、まだ夜だった。
ルジンは身じろぎをする。
暗闇――かすかに明るいのは、焚火の炎だろうか。
(いや、違うな)
夜ではない。
真っ暗な部屋の片隅で、ろうそくの炎が灯っている。野営地ではない。湿った黴の匂いを感じる。
(思い出した……監房だ。寝起きは最悪だな、背中が痛い)
ルジンはこの施設を知っていた。
サヴラール第五層にある、牢獄の一種である。対《転生者》の最終防衛ラインにして、もっとも強固にダンジョン化された階層。
だからこそ、最も強力に脱獄を抑止できる場所でもあった。
一歩でも監房区画の外に出れば、そこは無数のトラップと、いまだ希少な自立型の呪詛歩兵が徘徊している。
下手をすると、巡回している兵士に見つかる可能性もある。
通常の方法では捕えておくことができないか、よほど重要な犯罪者を収監するために使われる。
(俺の場合は、前者か)
と、ルジンは思う。
ワーウルフの身体能力を用いれば、鉄格子くらいは破壊するとでも思われているのかもしれない。曲げることならできるかもしれないが、強引な脱出は無理だ。
(しかし、まさかロースタルに捕まるとはな)
とはいえ、じゅうぶんに妥当な判断であるといえた。
確かに自分は命令違反を犯した。そこのところを誤魔化すつもりはない。腹は立てていない。
ただ気がかりなのは、あのとき、荷車で運ばれていた子供たちのことだ。
あのあと、捕まってしまったのだろうか。
ロースタルたちに追いつかれる前に、どうにか迷宮化した区画まで逃げ込んでいてくれればいいのだが。
(望み薄だな。うまくいけば助けて、みんなに自慢できると思ったのに――)
ルジンは寝返りを打つ。
鉄格子の方を向く形になり、そして気づく。
にやにやと笑う顔がそこにあり、鉄格子の向こうからルジンを見下ろしていた――知っている顔だ。ルジンは思わず吹き出した。
「なに見てやがる、パーシィ」
「別に」
痩せた長身の男だ。いかにも頼りない見た目であり、とても《魔獣化》歩兵どころか、傭兵とも思えない。
「珍しい動物が捕まってると思ってさ。見に来たんだ」
「暇人かよ、こんなときに」
ルジンは上半身を起こして、欠伸をする。
そうでもしないと格好がつかない気がした。牢屋の中だからといっていかにも悲壮な顔をするのは、あまりにも惨めすぎた。
「遊んでる場合じゃないだろ、パーシィ」
「かもしれないけど、どうにも仕事がなくなってね」
パーシィはしゃがみこみ、片手の燭台を掲げてみせた。
「仕方ないから、ここに来た。ヤバいくらいの重犯罪者がぶちこまれてるって話だったから」
「それだけならさっさと帰れ……あ、いや待て。この状況でセイレーンの《魔獣化》通信兵に仕事がない? お前、どんな失敗をやらかしたんだ?」
「ここ数日、急に《魔獣化》兵士に風当たりがきつくなってきたんだよ」
パーシィは軽薄そうに肩をすくめた。
「サヴラール評議会の政治的な話でね。きみ、興味ある? 保守派って呼ばれてる連中が幅を利かせてて――」
「まったく興味ない」
「だよね。でも、この話はどうかな。《魔獣化》歩兵を嫌ってる保守派の筆頭がルンビーク家で、最近ロースタルってやつがそこのお気に入りになったらしいよ」
「それは――」
ルジンは笑おうとして、口の端をひきつらせた。
「かなり腹が立つな。畜生。バイザックめ、俺はあいつに文句を言わないと気が済まない気分だ」
「だよね。でもやめた方がいいよ。《魔獣化》兵士ってだけで都市を追い出されかねないし」
「だったら、お前は?」
ルジンは改めて、この軽薄な顔のセイレーンを見上げた。
相変わらず意図の読めない顔だ。
「さっさと逃げないのか? ろくに仕事がないなら、そろそろ潮時じゃないのか? グレットあたりはもう街の外に逃げてるだろ」
フェルガーはまだ寝ているだろうけど、と心の中で付け加える。
「ところが、そうでもない」
パーシィはにやにやと笑ったまま首を振った。
何か大事なことを隠しているという顔だった。この男はしばしばもったいぶる癖がある。
「保守派は勢力を伸ばしたけど、急進派の大物がまだ健在でね。そっちのお方からたくさん報酬をもらえそうだから、もう少し粘って恩を売ったりしようと思ってる」
「また政治の話か」
ルジンは辟易して、壁に寄り掛かった。
自分には関係のないことだ、という気がする。そもそも関わりたくない。
「勝手にやってくれ。それとも急進派の大物ってのは、俺にも気前よく報酬を払ってくれるわけか? そんな大層なやつなのか」
「――条件次第では、そうですね。支払って差し上げてもいい」
不意に、声が響いた。
監房の奥の暗闇からだった――思ったよりも、この房は広いらしい。パーシィが喉を鳴らして笑っている。
(わざと黙ってたな)
ルジンは顔をしかめて、房の奥に目を凝らす。どうやら、ずっとそこに同居人がいたらしい。
自分と同じく、こんな監房に入れられた重罪人がもう一人。
「みなさんが私の役に立ってくれるというのなら、成功した時の見返りはお約束しますよ。特に、ルジンさん。あなたとはぜひお会いしたかった」
その男は、笑顔でそう言った。
顔色は悪く、やつれて見えたが、それでもどこか明るい部分がある。ルジンはその男と、パーシィとを交互に見た。
「……パーシィ。この人は?」
「おっ、さすがルジン。サヴラールで生活してて、この人の顔を知らないとはね……ホルスカー副議長、どうします? やっぱり誘うのやめます?」
「いえ。我々はぜひともルジンさんの協力がほしい」
どうやらホルスカーというらしいその男は、ルジンに対して頭を下げてみせた。
まるで宮廷の貴族のような、滑らかな仕草だった。その分、どこか雰囲気が軽い。
「ルジンさん。私の目的は、この都市を守ることです。無辜の民の暮らしを守りたい――そのためには、ルンビーク家が現在の障害となっています。彼らには都市を防衛する戦術も、戦略もない」
それはどうだろう、とルジンは考える。
自分はバイザックの総隊長としての実力を知らない。ロースタルに関しては、なかなか果敢な戦をするという印象があったが、あれは博打に近い性質がある。
鮮やかに勝ちたいという意図が強く、かつてのルジンの師の言葉を借りれば、
(腰が据わっていない戦いをするやつだ)
ということになる。
博打に勝っているときはそれでもいいが、大軍を率いたとき、一度負けると取り返しのつかない敗北を招くことになる手合いだ。
「どうか力を貸してほしい。ルジンさん」
ホルスカーは、いまだ言葉を続けていた。
「あなたの戦術と指揮は一流だと、パーシィさんから伺いました。歴戦の傭兵でいらっしゃると。ですから」
「やめてくれ」
ルジンは苦笑いをした。
「演説みたいなことを言われても、俺はサヴラール市民じゃないから余計に信用できない。せめて、もう少し真面目に俺を説得してくれよ。俺は傭兵だぜ」
「ああ、なるほど。ではもう少し即物的に行きましょう」
うなずいた、ホルスカーの雰囲気が明らかに変わった。顔つきまで変わった気がする。
「私は急進派として様々な人体実験をしてきたことですし、このままだと処刑されかねない。それに副議長として様々な甘い汁を吸ってきましたからね。このまま立場を失いたくない、石にかじりついてでも助かりたいんです」
一気に並べ立てられ、ルジンは目を瞬かせた。パーシィは声を殺して笑っているようだ。
「いきなり正直になったな」
「呆れていますか?」
「いや――それが本音なら、最初のやつに比べてわかりやすすぎると思って。最初に言ってた無辜の民云々はどうしたんだよ」
「ああ、実はそっちも本音です。最初に言ったことも、いま言ったことも、どっちも正直な気持ちなんですよね」
喋りながら、ホルスカーは顔から表情を消していく。
もしかしたらそれこそが、彼にとっての真面目な顔なのかもしれない。
「無辜の人々を守っていい気持ちになりたいし、それはそれとして物欲的な面でも満たされたい。どちらも私の真実です」
「な。ルジン、このヤバそうな人が勝つ方に賭けてみないか?」
パーシィが声をひそめた。
「少なくともバイザックの側につくより、ずっと勝ち目がある気がする。ぼくだって無事に《転生者》どもを追い返して、気持ちよく報酬もらって去りたいからね」
「……まあ、ロースタルと仲良くできる気はしないから、考えてもいいけど」
ルジンはホルスカーの顔を横目に見る。
経験上、こういう手合いはあまり信用できない。利害が一致していても、確実な言質は与えないように、慎重に言葉を選ぶべきだった。
気づいたら政争の道具に使われていたというのが一番困る。
「そもそも、こんなところに閉じ込められてたら、協力しようもないぜ。パーシィ、お前が脱獄させてくれるのか?」
「いや、ぼくは無理。でも、ホルスカー副議員になら」
「はい。そこはご安心を」
ホルスカーは明るい笑みを浮かべた。
喋るたび、あるいは顔を見るたびに表情が変わる男だ。
「捕まる前に色々と済ませておきました。我々の派閥の同志が、脱獄の手筈を整えています。今夜にも――」
――がぁん!
と、ホルスカーの言葉を断ち切るように、金属が弾けるような音が響いた。
監房の外――パーシィの背後の方からだった。
パーシィとホルスカーが、目を丸くして視線を交わした。
「今夜って」
ルジンは妙に不吉な予感を覚え、彼らに尋ねる。
「いま、もう夜だったのか? あんたの同志か、いまのは?」
「ううん――おそらく、違いますね」
ホルスカーは困惑しているようだった。鉄格子に顔を寄せる。
「こんなに早く行動を起こすなんて。まだ向こうも準備が足りていないはずですから、何かあったのかもしれません」
「何かって」
ルジンが背筋に寒気を感じたとき、があん!という金属音が再び響いた。
今度は四度ほど、立て続けに――そして誰かの悲鳴。おそらくは看守だろうか。それに怒鳴り声――すぐに止まる。
(冗談だろう)
耳を澄ませていたルジンには、真っ先にその声が聞こえた。
「陛下!」
ゴルゴーンの声が響き渡り、そして俊敏な獣のように、その長身が駆けてくる。
「陛下、ご無事ですか? 僭越ながら、このゴルゴーンが馳せ参じました」
ホルスカーとパーシィがまた視線を交わすのがわかった。
何を言いたいかはわからないが、何を感じているかはわかる。
(計画が狂ったのかもしれない。いや、それより――)
ルジンは頭をかきむしった。
(俺はなし崩しに、こいつらの計画に加わざるを得ないかもしれない)
どうも、妙なことになってきた。
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